第56話 その約束を……
「――おねえちゃあぁん……やだよぉ、やだぁ……」
「泣かないでアリスちゃん。おねがい……ね?」
……私が泣いてる。
でも、今の私じゃない。小さい頃の私だ。
どうして泣いてるんだろう?
傍では、お姉ちゃんが一生懸命慰めてくれているけれど、私は全然泣き止まない。
どうしよう、お姉ちゃんが困ってる。泣き止まなきゃなのに……
胸が張り裂けそうに悲しくて、私は泣き止むことができなかった。
唐突に視界が入れ替わると、すっかり見慣れた天井が目に入った。
どうも私は夢を見ていたらしい。
久しぶりに見たなあ。あの時の夢……
忘れもしない十年前。
イギリスへ引っ越すことが決まり、私は実感がわかないままにお姉ちゃんに伝えた。
でも、言葉にした瞬間に実感がわいてきて、私は辛くて悲しくて泣いてしまったんだ……
前はよく見ていた夢。けれど、ホームステイしてからは見なくなった。
それなのに見てしまったのは、やっぱり理由があるに違いない。
心当たりと言えば……
「あのさ、アリスちゃんっ」
「なあに、お姉ちゃん」
一緒に朝ごはんの後片づけをしているとき、お姉ちゃんに話しかけられた。
けれど、ちょっと迷って、結局お姉ちゃんは「何でもない」と言ってお皿洗いに戻ってしまう。
そう、最近のお姉ちゃんはずっとこんな調子なのだ。年末年始に行った旅行から帰ってきてから、何だか様子がおかしい。
何かを言おうとしては結局止めて……
それを繰り返してる。
別に避けられてるわけじゃない。
ただ、何かを言おうとして、やめて、それだけ。それだけなんだけれど……
やだ。
なんか、やだ。
言いたくないことっていうのは確かにあると思う。
どんなに親しい中でも、秘密ってあるものだと思うし。
私にもある。お姉ちゃんのエッチな隠し撮り写真とか!
でも、お姉ちゃんは言おうとしてくれてる。
まあ言いかけて止めるんだから、言いにくいことなのかもしれないけれど……
気になる! ちょーーーー気になるっ!
一体何を言おうとしているんだろう? まさか「結婚しよう」とか!?
もう、そういうことなら言ってくれればいいのに! お姉ちゃんたら照れ屋なんだからっ!
仕方ないなあ、もう! 私が一肌脱がなきゃ! 待っててねお姉ちゃん!
「はぁ~~~~……」
洗面所で服を脱ぎつつ、思わずため息が漏れてしまう。
アリスちゃんにちゃんと言おうって決意したはずなのに、いざ言おうとすると……うぅ。
旅行から帰ってから一週間経つけれど、ずっとそうなってしまう。
結局今朝も言えなかったしなあ……
湯船に入る前に体を洗いつつ、改めて自分の気持ちを整理する。
私、やっぱりアリスちゃんが好きだ。
言葉にはできないくせに、想いだけは雪みたいに積もっていく。
溶けるどころか固まって、もう私の中からは消えることはない。
もっともっと、アリスちゃんとの仲を深めたい。
色々な顔を見せてほしいし、声を聞かせてほしい。
それに……うぅん、別にそういうことじゃなくても、ただ一緒にいたい。隣にいてほしい……
「アリスちゃん……」
「なあに?」
無意識に呟いた名前。
まさかの返答に私はビクリと体を震わせてしまう。
見ると、浴室のドアの前にシルエットがあった。アリスちゃんだ。
「久しぶりに一緒に入りたいなあって思って。お背中流してあげる。……だめかな?」
シルエットでも簡単に思い浮かぶ、アリスちゃんのおねだり顔。
断れるはずもなく、いいよと答える。「やった!」という言葉の後、ドアが開いてアリスちゃんが入ってきた。
アリスちゃんは何も身に付けていない。当然だよね、お風呂に入るんだし。
バスタオルも巻いていない、生まれたままの姿……
腰まで伸びた、宝石みたいに輝く金色の髪をアップにしている。
一点の汚れもない、雪みたいに白い肌。胸のふくらみは大きいのに腰は細くて、それを形作る線まで細く、繊細さすら感じさせる美しさだ。
キレイ……
それ以外の感想は抱けない。
無駄に賛美の言葉を並べることは失礼とさえ思える。
キレイ、本当にキレイ……
こんなにキレイな子が私に「好き」って言ってくれているなんて……
今さらながら、夢みたいな話だ。
「お姉ちゃん?」
大きな、サファイアの瞳と視線が合うと、彼女は小首を傾げていた。
「どうかしたの?」
「う、うぅん! なんでもないっ!」
慌てて視線を逸らす。
アリスちゃんは特に食い下がることなく「そっか」というと、私の後ろにしゃがむ。
「それでは、お背中お流ししまーす」
冗談めかした口調で言って、体を洗う用のスポンジを手に取る。
その瞬間、アリスちゃんの柔らかな二つのふくらみが背中に押し付けられ、体がビクっとしてしまう。
鏡に写った自分の顔が赤く染まっているのを見て、慌てて顔を逸らす。
「あ、ごめん。痛かった?」
私の反応を勘違いしてしまったらしい。アリスちゃんが心配そうに訊いてくる。
「うぅん、大丈夫だよ」
よかったあと答えて、アリスちゃんは手に力を籠める。
心地のいい刺激だ。
何だかやさしくて、気持ちいい……
会話がないのに気まずくない。それどころか、沈黙さえ心地よく思える。
うん、今なら言えるかも。ずっと言いたかったことを。
「「あのっ」」
と思ったら、言葉が被った。
「な、なあにアリスちゃんっ」
「お姉ちゃんこそ!」
「アリスちゃんお先にどうぞ!」
「うぅん、お姉ちゃんが!」
二人して「どうぞどうぞ」と譲り合う。
キリがないと先に我に返ったのはアリスちゃんだった。彼女は私の目をじっと見て「あのね」と言う。
「この間から、何か言おうとしてることあるでしょ? 何かなって思って」
やっぱりそのことか。正直予想してた。
「分かってるよお姉ちゃん。私と結婚してくれるんだよね」
やっぱり予想できてなかった。
「ち、違うよっ。そうじゃなくって……」
「え、違うの……?」
この世の終わりのような悲しげな表情をされ、
「違うよ! いや、違くないんだけど違くて……あれ?」
なんか混乱してきた。
私はコホンと咳払いをする。
自分を落ち着かせるため。そして自分の勇気を奮い立たせるために。
「アリスちゃん、好きだよ」
まっすぐに目を見て、ハッキリと言う。
「大好き」
もう一度、万が一にも聞こえないなんてことが無いように。
「私、最近アリスちゃんのことばっかり考えてるの。ホントにそればっかりで、もっともっと仲良くなりたいって、もっともっと色々なことがしたいって、そればっかりで、すごくて……んっ!?」
突然アリスちゃんの輪郭がブレたかと思うと、次の瞬間には、私の胸は一瞬で満たされていた。
やっと言葉にできたと思ったのに、うまく言葉にできないもどかしさ。
それは圧倒的な感情の奔流に流されてどこかに消えて、代わりに残ったのは……
「ありがとう、お姉ちゃん」
大好きな女の子の、甘い甘い言葉と、嘘みたいにキレイな顔。
「私も大好きだよ、お姉ちゃん。私も、おんなじ気持ちでいるよ……」
そっか。
私は何を考えていたのだろう。
「アリスちゃん」
考える必要なんてない。無駄に言葉を並べる必要なんてない。
たった一言。たった一言、ただこう言えばよかったんだ。
「私の、彼女になってください」
「はい……っ!」
サファイアの瞳が、本物の宝石みたいに輝いた気がした。
アリスちゃんの頬にそっと手を伸ばし、お互いに触れ合う。
それだけで、今までにない感情に支配された。
今までに何度もして来たことなのに、今までとは違う。
文化祭の時とさえ違う。もっと……もっと、深い……繋がり。
でも……もっと……もっと繋がりたい。もっと、もっと深く……っ!
気づけば、私たちは唇だけじゃなく、体まで触れ合わせていた。
浴室ってことも気にせず、お互い床に転がって、お互いのすべてを押し付け合う……
すごい……
アリスちゃん、すごくいい匂い。それにやわらかい……
いい匂い、やわらかい、かわいい、好き、甘い、キレイ、かわいい、大好き……
かわいい、好き、好き、好き好き好き好き好き……!!
喉が熱い。胸が痛い。張り裂けちゃいそうなくらいに、胸がドキドキいっている。
全身で、五感全てでアリスちゃんを感じる。
今までよりも、ずっと熱い……
私の中が、アリスちゃんで満たされてる。
世界一好きな、愛しい女の子で。
だからこんなに熱いのかな……?
うぅん、違う。
これ、私じゃない。うぅん、私だけじゃない。
アリスちゃんだ。アリスちゃんの体も熱いんだ。
ほんとうなんだ。ほんとうに、アリスちゃんも、私とおんなじ……
「私も、大好きだよ。アリスちゃん……っ」
やった。ちゃんと言えた。
ちょっとかすれた声になっちゃったけど、大丈夫かな? 聞こえたかな……っ!?
一層強くなった刺激に、激しく体が震える。
「あ、アリスちゃん……っ?」
「大好き……! 大好きだよお姉ちゃん! 大好き……っ! 大好き!」
アリスちゃんは強引に私の上に覆いかぶさって、壊れたみたいに同じ言葉を繰り返す。
「う、うん。分かってるよ。私も……」
「分かってないっ!!」
私の言葉は、アリスちゃんの声に飲み込まれてしまう。
「分かってないよ。私がどれだけお姉ちゃんが好きか、分かってないでしょ?」
「そんなこと……」
「好き!」
また私の言葉はかき消されてしまう。
「好き好き好き好き好き! 大好き! 愛してる! あとあと……好きっ!!」
叫ぶような声の後、私の耳に届いて来たのは、荒い吐息だった。
アリスちゃんの顔は、見たこともないくらいに赤い。
基の肌が白いから、より一層赤く見える。
「だから、ごめんね、お姉ちゃん。先に謝らせて。私、きっと最後まで止まれないと思うから……」
「それって……」
どういう意味、なんて訊く余裕はなかった。
甘く、激しく、心地のいい刺激に、私はあっという間に飲まれてしまった――
目を覚ますと、隣で小さく寝息をたてている少女が目に入った。
そっか。お風呂場でお互いの気持ちを伝えあって、一緒に私の部屋で寝たんだっけ……
私の傍で、小さく寝息をたてている女の子。
そうしていると、なんだかおとぎ話のお姫さまみたい。
こんなにキレイな子が、私の彼女になってくれたんだ……
そう考えただけで、何だか胸がいっぱいになって、あっという間に気持ちが溢れてしまう。
そうだ。お姫さまなら、キスしたら起きてくれるかも。
そっと、唇に触れる。すると、
「ん……っ」
アリスちゃんの体は小さく震えて、ゆっくりと、目が開いた。
「おはよう、お姉ちゃん」
「う、うん。おはよ」
ニコリと笑いかけられて、でも私はうまく笑えない。
び、ビックリした。まさか本当に起きるなんて……
「ねえ、お姉ちゃん」
「なあに?」
「さっき、どうしてキスしたの?」
「うぇえっ!?」
予想外の言葉に動揺する。ていうか、何で知って……ま、まさか。
「起きてたの?」
すると、アリスちゃんはクスリと笑う。
「うん。ちょっと前からね」
「そ、そうだったんだ……」
うぅ、迂闊だった。まさか起きていたなんて。
「ね、教えて。どうしてキスしたの?」
「それは、その……」
視線をさ迷わせていると、アリスちゃんに顔を両手で挟まれてしまう。アリスちゃんから視線を逸らせなくなった私は、
「アリスちゃん、お姫様みたいだなって思って」
素直に白状することにした。
「だから、キスしたら起きてくれるかもー、みたいな……」
な、なんか、言ってて恥ずかしくなってきた。私、何考えてたんだろ。
「お姉ちゃんかわいい」
「か、からかわないでよ……」
余計に恥ずかしくなってきた。でも……
どうしてだろう? この感情、とっても心地いい。
でもやっぱり恥ずかしい! また視線を逸らしてしまい、
「お姫さま。そのかわいいお顔でこっち見てくださいな」
でも、結局すぐにアリスちゃんを見てしまう。
「や、やめてよ。私、お姫さまなんて柄じゃないし……」
「そんなことないよ! お姉ちゃんかわいいもん」
羞恥が限界に達し、頬どころか首まで真っ赤になっているのが分かる。私を正気に戻したのは、アリスちゃんの小さな笑い声だった。
「そ、そんなに笑うことないでしょ」
ちょっとムッとしてしまったら、アリスちゃんは「そうじゃないよ」と言った。
「お姉ちゃんとこんな関係になれるなんて、幸せで。……本当に夢みたい。でも、夢じゃないんだよね」
言葉の通り、アリスちゃんは本当に幸せそうに笑っている。けれど、その後で悲しそうな顔になってしまった。
その表情が呼び水となって、おぼろげな映像が浮かんできた。
でも、霧に包まれていてよく分からない。なんだろう、これ……
「実はね、最近、悲しい夢ばっかり見てたんだ」
「悲しい夢?」
うん、とアリスちゃんは頷き、
「昔の……私がイギリスに引っ越すことを。お姉ちゃんに伝えたときの夢」
そう言われて、霧に包まれていた映像が明瞭になった。
そうだ、あの日。
私に話してくれたアリスちゃんは、今と同じ悲し気な顔をしていた。
そして話しているうちに、泣き出してしまって……
「お姉ちゃん、必死に私を慰めてくれたよね。でも私、泣き止めなくて……」
そこでアリスちゃんは一度言葉を切って、そっと目を伏せた。まるで、気持ちを落ち着かせようとしているみたいに。
「そしたら……ふふっ、覚えてる? こう言ってくれたんだよ。〝私にできることなら何でもするから。だから泣かないで〟って」
確かに……うん、言った。
アリスちゃんがホームステイに来た日と、同じことを。
「だから私〝じゃあ、大きくなったら私とけっこんしてくれる?〟って訊いたら、お姉ちゃん〝いいよ〟って言ってくれて……」
当時を思い出すように、うれしそうに、それでいて恥ずかしそうに言うアリスちゃん。
けれど次の瞬間に、ムッとした顔で私を見てきた。
「それなのに! それなのにお姉ちゃん、私のこと忘れてるんだもん! それになんか雰囲気も違ってて、別人みたいで……私、本当に、本当に悲しかったんだから」
「ご、ごめん」
小さい頃の話だから。ついうっかりというかなんというか……
「謝らなくていいよ。もう気にしてない。だって、自分が間違ってたんだって、もう分かってるから」
「間違い?」
「うん。お姉ちゃんは、全然変わってなかった。今も昔も、とってもやさしい、大好きなお姉ちゃんだよ」
「……う、うん」
まっすぐに目を見て言われ、流石に照れてしまう。
うぅ、ヤバい。私さっきから照れてばっかりだ。
「大好きだよ、お姉ちゃん」
アリスちゃんは、私の手に指を絡ませてぎゅっと握ってきた。
「私、とっても幸せだよ。だから……ありがとう、っていうのは、ちょっと変かな?」
「そうかもね」
お礼を言われるようなことじゃないし。それに……
幸せっていうなら、私だってそうだ。
「大好きだよ、アリスちゃん」
私は、アリスちゃんの手に重ねるようにして、指を絡ませてぎゅっと握る。
「これから、二人でいろんなところに行こうね。二人で色々なことをして、たくさん二人の思い出を作って、それで……」
それで、いつかは……
その先にどんなセリフが続いていたのだろう。
言葉にならなかった想いは空を舞って、朝の空気の中に溶けていく……
二人同時に、そっと触れ合う。
やっぱり、今までとは違う。気持ちいいじゃない。心地いい……
ただこうしているだけで、この子が傍にいてくれるだけで、こんなに幸せな気持ちになれるだなんて。
さっきのアリスちゃん、間違ってなかったのかも。
私も、とっても幸せだ。だから、
ありがとう、アリスちゃん――
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