第50話 或る幾つかの記憶
「わあ、見てお姉ちゃん。この子たちすっごくかわいいよっ!」
ある日の夜、アリスちゃんと一緒に『ルエ・パウゼ』のお土産のザッハトルテを食べつつ、動物番組を見ているときのことだ。
犬の特集が組まれていて、アリスちゃんは産まれた子犬たちを見て珍しくはしゃいでいた。
そうだねー、と相槌を打ちつつ、私はあることを思い出していた。
それは、記憶だ。幼い頃の、アリスちゃんとの記憶。
アリスちゃんは覚えてるかな……
「そういえばさ、お姉ちゃん。覚えてる? チャーチルのこと」
今まさに考えていたことを言われて、私はちょっとビックリした。まるで自分の思考を読まれたみたいに感じたから。
でも、実際にはそんなことはあり得なくて……
「アリスちゃんも思い出しちゃった?」
「うん。あの子たち見てたらねー」
あはは、と小さく笑うアリスちゃん。
けれど、その声はちょっとだけ寂しそうに聞こえた……
それは、十年も前の話だ。
アリスちゃんがイギリスへ行ってしまう前だから、私は確か小学三年生くらい。アリスちゃんはまだ幼稚園生だった。
仲よくなった私たちは、よく外で遊ぶようになった。
その日も外で遊んでいると、私たちは一匹の子犬を見つけた……
「おねーちゃんっ! あそこにわんわんがいる!」
子犬を指さして、アリスちゃんが言う。
そして言うや否や、子犬のもとへ走っていってしまうのだ。
「ま、待ってアリスちゃん!」
アリスちゃんは好奇心旺盛な子で、何か気になったものを見つけるとすぐに駆けていった。
だから私も、よくその後を追いかけたものだ。
アリスちゃんが見つけたのは白の雑種犬だった。
首輪をつけていなかったから多分野良犬だったんだろう。でもすごく人懐っこかったし、それに毛並みもキレイだったから、多分地域で飼っているというような犬だったんだと思う。
名前をどうしようかって話になったけど、私は「ポチ」とか「シロ」とかありきたりな名前しか思い浮かばなかった。
一方のアリスちゃんの案は「チャーチル」だった。とても幼稚園の子の口から出てきた名前とは思えずに、ポカンとしたのを今も覚えている。
アリスちゃんのお父さんがウィンストン・チャーチルのファンで、彼の話をよく聞かされていたらしい。……いや、それでも渋いよね。幼稚園生の案にしては。
それから、おじいちゃんの家に行くたび、私たちはチャーチルと遊ぶようになった。
家で余ったご飯をあげたり、私たちが作ったお弁当を分けてあげたりなんてこともあって。
アリスちゃんには、私よりも懐いていたっけ……
「鬼ごっこもそうだったけどさ、かくれんぼは絶対に勝てなかったよねー」
「相手は犬だもんねー。ちょっと反則気味だよ」
確かに、とアリスちゃんは笑う。
「チャーチルともっといっぱい遊びたかったなー」
ポツリと零すアリスちゃん。当時を思い出すみたいにして目を細めている。
「でも飼い主さんが迎えに来てくれてよかったよ。飼い犬だなんて思わなかったから驚いちゃったけど」
私は小さくそうだねと返して、当時のことを思い出していた。
飼い主が迎えに来た……確かに私は、アリスちゃんにはそう言った。
けど、実際にはそうじゃない。
私とアリスちゃんはおじいちゃんの家に行くたび遊んでいたけど、アリスちゃんはいないときや、逆に私が行っていないときもあった。
それが起きたのは、アリスちゃんがいない時だった。
チャーチルに餌をあげようといつもの場所へ行くと、いつものようにそこにいた。ただ……
当時を思い出すと、ズキンと胸が痛む。
チャーチルは悪いエサでも食べたのか、息も絶え絶えに倒れていた。
なんとかしたかったけど、私にはどうすることもできずに、結局チャーチルは死んでしまった。
だから私は、スコップを持って行って穴を掘って、お墓を作ったっけ……
後日、アリスちゃんに会った時、チャーチルはどうしたのって訊かれて、飼い主の人が迎えに来たって答えたんだっけ。
それはアリスちゃんへの思いやりっていうより、チャーチルが死んだことを誰にも知られたくなかったっていうのが強い。
私もチャーチルは好きだったし、とても悲しかった。でも死んだことを誰にも知られず、飼い主が迎えに来たってしておけば、ずっとどこかで生きていてくれるような気がしたから。
それを小さかったアリスちゃんは、自分の記憶みたいに勘違いしているんだろう。
「チャーチル、元気かなあ……」
アリスちゃんは、またポツリと言った。それは独り言とも思える言葉だったけど、
「大丈夫、きっと元気だよ。飼い主さんに引き取られていくときも、嬉しそうだったし……きっと優しい人なんだよ」
気づけばそう答えていた。
本当のことを言ったほうがいいかなとも考えたけど……
「うん。きっとそうだよね……」
やっぱり、言わないほうがいいよね。知らないほうがいいこともあるだろうし。
テレビを見ると、いつの間にか動物番組は終わっていた。
そろそろ部屋に戻ろうかなと思っていると、
「お姉ちゃん」
急に呼びかけられた。
「なあに、アリスちゃ……んっ!?」
突然、口の中に甘い味が広がっていく。
なんでだろう……いつもとは、ちょっとだけ違う味だ。甘くて、心の底まで浸透していくみたいな、深い味……
「ど、どうしたの? 急に……っ!?」
アリスちゃんはどんどん身を乗り出してきて、私はソファーに押し倒されてしまった。
急に動いたからか、結ばれていたアリスちゃんの宝石みたいに輝く金色の髪が解けて、私を繭の中に閉じ込めた。
「ありがとう……」
繭の中で、か細い声が木霊する。
その声は妙にハッキリと聞こえて、私の全身に、波紋が広がるみたいに浸透していった。
だからかな? なにか、引っかかるものを感じた。
アリスちゃん、もしかして……?
「ザッハトルテ、すごくおいしかった」
「……うん。アリスちゃん、好きでしょ?」
「好きだよ。大好き……」
ついて、離れて、それを何度も繰り返す。
アリスちゃんは私の手に自分の手を絡ませて、唇を押し付けてくる。まるで、感情が決壊したみたいに。
そして、アリスちゃんの感情に呑まれるみたいにして、
私の感情も決壊していった……
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