第44話 見えないように隠さなきゃ
「ほら、お姉ちゃん、早くしないと電車に乗り遅れちゃうよっ」
「ま、待ってアリスちゃん……私、その……疲れちゃったみたいで、あんまり速く走れないっぽくて……」
我ながら微妙に日本語がおかしい。それに声もちょっと上ずっちゃってる。
でも、それも仕方のないことだ。
私は今、下着をつけていないんだから……
温水施設に来た私は、アリスちゃんに言われて事前に水着をつけてきたんだけど、替えの下着を忘れるという子供みたいなミスをしてしまった。
でも……
うーーん、と思わず考え込んでしまう。確かにバッグの中に入れたと思ったんだけどなあ。
なんて、考えてばかりいられない。
温水施設を出たとき、外はもう薄暗くなっていた。
駅へと向かう道すがら、
「アリスちゃん、もっとゆっくり歩こうよ。もう帰るだけなんだしさ、お母さんには遅くなるかもって連絡するから。ね、そうしよ?」
「いいけど……」
アリスちゃんは歩調を緩めて、私の方を振り返ってきた。
「そんなに疲れちゃったの?」
「う、うん。最近その……運動不足だからかなあ……」
我ながら苦しい言い訳だ。ほとんど足湯にいたんだし。
でも、勢いでもなんでも誤魔化さなきゃ。
だって! 今の私は下着つけてないんだし! ノーパンなんだし! こんな時に限ってスカートだしっ!
「分かった。じゃあ、そうしよっか」
アリスちゃんが特に食い下がることなく、そう言ってくれたのはよかった。
よかった、けど……
す、裾が……裾が気になる……!
前にもこういうことはあった。あったけど……
あの時は、Tバッグとはいえ一応下着はつけてたわけだし。でも今は本当に何もつけてないわけで、もし誰かに見られたらマジでヤバい。
まだ誰にも見られたことないのに、そんなの絶対ヤダ。いや、アリスちゃんには見られてるんだっけ? いやいや、そういう問題じゃ……
「お姉ちゃん? どうかしたの?」
「う、うぅん、何でもないっ」
「そう? ならいいんだけど……」
よくないです。
やっぱり「パンツ穿いてないから落ち着かない」とは言えず、適当に誤魔化すしかない。
時期が時期だから、ちょっと涼しいというか、寒いかも。タイトスカートだから風で捲れる心配はないけど……
落ち着かない足取りで駅まで辿り着いて改札を通る。通って、その足が止まる。
そうだ、階段だ。ホームに行くには階段を上らなきゃなんだ。
いやいや無理無理! この格好でそれはマジで無理!
「お姉ちゃん?」
急に立ち止まった私を、アリスちゃんが不思議そうな顔で見ている。
「あ、あのさ、アリスちゃん。エレベーターで行かない?」
アリスちゃんは目をパチパチさせて、
「そんなに疲れちゃったの? 大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。ただその……階段はちょっと辛いかなあ、みたいな……」
「じゃあ、ゆっくり上ろうよ」
「うん……うん?」
あ、あれ? 聞き違いかな?
「私、付き合うから。ゆっくり上ろう?」
いやいやいや……いやいやいやいやいやっ!
「ま、待ってアリスちゃん! 私、ほんとにその……」
抵抗しようとしたけどアリスちゃんに腕に抱き着かれてしまい、私はほとんど引きずられるようにして連れて行かれてしまう。
うぅ、うぅううううううっ! やだやだ、これほんとヤバい!
早く上っちゃいたいけど、早く動いたら見えちゃうかもだし……結局、ゆっくり上るしかない。
スカートの裾を引っ張って、そのまま押さえる。ほんとは両手でしたいけど、片方はアリスちゃんに取られてるから。でも……
これ、本当に大丈夫だよね? 見えてないよね?
……なんか、視線を感じるような……? いや、気のせい?
まさか、見えてる……なんてことはないよね? うん、ちゃんと押さえてるもん。
自然と手に力が入る。見えないように隠さなきゃ。でも……
どうにも落ち着かなくて、結局、私はバッグを使っておしりを隠すように押さえた。
妙に長く感じた階段を上り終え、階段からすこし離れて、それからカバンをまた肩にかける。
「大丈夫?」
ふう、と息を吐いた私に、アリスちゃんが声をかけてくれる。
でも、私はちょっと複雑な気分。
だって神経が疲れちゃったのは階段上らされたせいだし!
そうも言えないから「大丈夫だよ」と答えるほかないけれども。
とはいえ、階段は上り切ったわけだし、一番ヤバいところは終わったかな……
「っ!」
安心して息を吐きかけて、詰めてしまう。
「あ、アリスちゃんっ、どうしたの……?」
「お姉ちゃんの匂いを嗅いでいます」
それは分かるけど。首筋をクンクンしてるから。
「なんかお姉ちゃん、いつもと違い匂いする」
「ぷ、プールに入ったからだよ、きっと……んぁっ!?」
……び、ビックリした。
突然、首筋をペロッと舐められたから。
「うーん、味はいつもとおんなじだ」
「あ、味ってなにっ」
変なこと言わないんで欲しいんだけどなあ。……今さらだけど。
「ちょっと汗っぽいかも」
「もう、だからやめてって言ったのに」
「でもいい匂いだよ」
なんて言いながら、アリスちゃんはまたクンクン匂いを嗅いでくる。
そんなことをされたからか、それとも変えてみようと言ったからか、私にちょっとしたイタズラ心が芽生えた。
クンクンと、アリスちゃんの匂いを嗅いでみる。
……おぉ、なんか超いい匂いする。柑橘系の甘い匂いと……プールに入ったからか、薬品の匂いも。
「アリスちゃんも汗っぽいじゃん」
ちょっとした仕返しのつもりで言ってみる。けど、返ってきた反応は、驚いたような声だった。
「どうしたの? お姉ちゃんがこんなことするなんて、珍しいね」
「まあ、ね……っ」
指摘されると、急に恥ずかしくなってきた。
何してるんだろう、私。周りには人だっているのに。
……ていうか、アリスちゃん、顔近い。今ならキスできそう……って、いやいやいやいや! 今ならキスできそうって何! ほんとどーしたわたしっ!
でも、アリスちゃんも急にしてくるし、ちょっとくらいなら……
その時、まるでタイミングを見計らったみたいに、ホームに放送がなって電車が来た。
電車にはほとんど人が乗っていなかったから、座ろうと思ったんだけど、
「お姉ちゃん?」
また足が止まった私を、アリスちゃんが不思議そうに見てくる。
「……わ、私、立ってるね」
「え、座らないの? 大丈夫? 疲れてるんでしょ?」
「うん。大丈夫大丈夫」
だって、こんなカッコじゃ座れないよ。
タイトスカートのミニだから、座ったら、その……対面の人に見られちゃうかもだし。
普段はバッグを膝に置いたり、足を組んだりして見えないよう気をつけてるけど、今日はちょっと……ムリですホント。
隅っこで立ってることにしよ。
アリスちゃんにそう言ったら、彼女も私と一緒に立っていると言った。
「本当に大丈夫? なんか様子変だよ」
「うん、気にしないで」
適当に誤魔化しつつ、アリスちゃんと雑談する。
そうしているうちに、地元の駅が近づいてきた。
……ふぅ。
内心で息を吐く。
一時はどうなることかと思ったけど、大丈夫そうかな。ああ、よかった。
なんて、安心したその時だった。
そうも考えていられなくなったから。
次の駅に停まったとき、一気に人が乗ってきて、ガラガラだった車内が満員になってしまった。
「すごい人だね……」
アリスちゃんがちょっとビックリしてる。この子、通学には電車使ってないから、満員電車初体験なのかも。
大丈夫かな? 酔ったりしないかな?
「う、うん……近くでイベントでもあったのかな?」
とはいえ、私も満員電車は苦手なんだけど。
「大丈夫? アリスちゃん」
電車が動き出してから訊いてみる。でも……
「うん。私、満員電車初めてだから、ちょっと新鮮かも」
なんか、楽しんでるっぽい。これなら大丈夫そう……っ!?
「……っん」
いきなりキスされた。
「な、なに……!? 急にどうしたのっ?」
「バランス崩しちゃったみたい。満員電車に慣れてないから。ごめんね?」
「……いいけど」
まあ、慣れてないんだもんね。なら仕方ないよ、うん。
「……っ!?」
突然だったから声を上げそうになった。
「あ、アリスちゃんっ、なにしてるのっ」
「またバランス崩しちゃったみたい。ごめんね?」
なんて言いながら、アリスちゃんは私の太ももを撫でまわしてくる。
「やだ、くすぐったいよ……っ」
「我慢して。それに、これはお姉ちゃんの為でもあるんだよ?」
「ど、どういうこと……?」
答える代わりに、アリスちゃんはまた私の太ももを撫でてくる。
その後で、ツンツンとつついて来た。
「ここ、赤くなってるの、気づいてた?」
からかうみたいな声に、私はいやな予感がした。
「な、なんの話……?」
言いながら視線を下げて、気づいた。
私の太ももの一点が、赤く染まっているのに。
ポチっと、まるでキスマークみたいに……っ!?
「っ!?」
慌てて押さえる。
慌てすぎて、アリスちゃんの手も巻き込んで押さえてしまった。
「やっぱり、気づいてなかったんだね」
また、アリスちゃんのからかうみたいな声。
それが、妙に遠くに聞こえる。
だって……
私、今までこの足で歩いてきたの?
この痕がついたまま、私は温水施設で遊んで、駅まで歩いて来たってこと?
こんな、キスマークみたいな痕をつけたまま……?
もし誰かに見られてたら、私、勘違いされちゃってるかもってことだよね。その……私が、そういうことをした後だって……
どうしよう、下着ばっかり気になって、そこまで気が回らなかった……
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。私が隠しててあげるから」
そう言ったかと思うと、アリスちゃんの手は私の手の下からするりと抜け出して、代わりに別のところを押さえた。
おしりを。
アリスちゃんは、両手で私のおしりを押さえてきた。
「な、なにしてるのっ」
「見えないように隠してるんだよ。だってお姉ちゃん、今下着つけてないでしょ?」
「どうして知って……」
いや、いや……待って。まさかまさか、まさかとは思うけど……
「あのさ、アリスちゃん。その……盗った? 私のバッグから」
「うん」
素直! そして即答!
「どうしてそんなことするのっ!」
「……えへっ」
「いや、えへじゃなくて!」
アリスちゃんは笑って誤魔化そうとしている。
「ちょっとイタズラしたくなっちゃったの。ごめんね?」
と思ったら、普通に謝られた。
「まあ、いいけど……」
アリスちゃんに変なことをされるのは、今に始まった話じゃないし。
「ちなみに、今その下着を穿いています」
「えっ?」
「私、今お姉ちゃんの下着をつけています」
「なっ、なんで……!」
「穿きたかったから」
………………………………
「あ、あれ? 何か引いてる?」
「そりゃまあね」
アリスちゃんが私の下着をつけてるなんて、なんか……変な感じ。
別に嫌ってわけじゃないけど。うーん……
「ご、ごめんね? うそうそ、うそだよ。お姉ちゃんの下着はつけてません。ちょっとからかっただけだから」
「うん、分かったよ」
流石に冗談だったらしい。アリスちゃんの口調は珍しく焦っている。
それに、何だか心配そう。うぅん、実際に心配なんだ。きっと、私に嫌われるんじゃないかって。
それなら……
「んっ……」
そっと、アリスちゃんの唇を塞ぐ。
すると、アリスちゃんは驚いた顔で私を見てきた。
「ば、バランス崩しちゃったみたい……ごめん」
「うぅん、謝らないで」
今度は、アリスちゃんが私の唇を塞いできた。
「私も、バランス崩しちゃったみたい」
アリスちゃんの顔からは、さっきまでの不安の色が完全に消えていた。
よかった……
アリスちゃんの不安そうな顔を見ると、私まで不安になってくるから。
青い瞳が、じっと私を見下ろしている。
宝石みたいにキレイな瞳に、私は思わず吸い込まれそうになって……
また、バランスを崩してしまう。
甘い、甘酸っぱい味が口の中から、あっという間に体に広がって……
電車の混雑なんて、もう全然気にならなかった。
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