第42話 文化祭と遥香の決意

「はい、お姉ちゃん。これあげる」


 ある日、大学から帰ってくると、アリスちゃんから小さな一枚の紙を手渡された。



「ありがとう……これ、文化祭の入場券?」


「うん。家族でもそれがないと入れないんだって。何だかなーだよね」


 アリスちゃんは「あはは」と笑う。


 そういえば、私も在学中は貰ったっけ。中学の友達と家族に渡したなあ。ナンパ目的の人への牽制らしいけど、確かにちょっと味気ないかも。



「アリスちゃんのクラスはどんなことするの? 出店とか?」


「うぅん。私は友達と劇をやることになったの」


 クラスでの出し物としては、軽食を出すお店をやることになったらしいんだけど、それとは別に友達で組んで劇をするらしい。


「せっかくの文化祭だし、何かやりたいねって話になったの。今頑張って練習してるんだ。だから絶対に見に来てねっ!」


 ちょっと身を乗り出しているアリスちゃん。そんなに私に見に来て欲しい……のかな?



「もちろん行くけど、なんの劇やるの?」


 何気ない質問。でも……



「え?」


 思わず、ポカンとしてしまう。



「えぇっ!?」


 返ってきた答えが、予想外だったから。




 文化祭当日。


 まだ朝の十時なのに、すでに学校は賑わっていた。


 校門には「文化祭」と書かれた大きな看板が立っていて、出店も並んでいる。



 今日は土曜日。文化祭が一般公開される日だ。なので、同じくアリスちゃんから入場券を貰った井上と一緒に来たんだけど、


「やー、高校生ってなんか初々しい感じがしていいねー。……たまには年下ってのもいいかも」


 食い気より色気というかなんというか……


「あのさ、井上。淫行で捕まるようなことは止めてね」


 失敬な、なんて唇を尖らせているけど、普段の行いが悪いからなあ、コイツ。



「おっ。あの子なんかよくない?」


 ……いやホント、こういうところだよ。




「やーやー、アリスちゃん。お招きいただきどうも!」


 アリスちゃんのクラスに行くと、井上が妙にチャラチャラした口調で言った。


「はい。お姉ちゃんも来てくれたんだね。ありがとう」


 猫を被ったアリスちゃんが、私に笑いかけてくれる。



「うぅん、私もちょっと見てみたかったし……でも、おもしろいお店やってるね」


 普段は飾り気がないだろう教室も、今はカーテンはオシャレなものに付け替えられていて、机は四つずつ向かい合わせになっていて、テーブルクロスがかけられている。ちょっとオシャレなカフェみたい。


 なんだけど……



「激辛専門店とか、私たちの時はやってるクラスなかったもんなー」


 しみじみ言う井上。ちょっと遠い目になっていた。そんなに大昔ってわけでもないのに。


「お姉ちゃん、辛いの好きでしょ? 色々用意したから、食べて行ってね」


「うん。そうする」


 私とは対照的に、井上は「激辛かー」と言いながらまた遠い目をしている。


 多分、思い出してるんだ。夏休みに別荘で食べた激辛カレーを。私にはそれほどだったけど、井上たちには強かったみたいだから。



 だからだと思うけど、井上は食べるとき結構体が強張っていた。


 でも……



「けほげほっ……こほ……っ」


 結局咽てたけれども。




「あー、辛かった~……」


 パックの牛乳をチュウチュウ吸いながら井上が言った。


「そんなに辛かった? あんまりじゃない?」


「いやいや辛いって! ホントみゃーのの味覚おかしいよ! バカだよ!」


 ……やっぱコイツにバカって言われると腹立つな。



〝色々用意した〟というアリスちゃんの言葉通り、メニューは結構種類があった。


 激辛焼きそばとかラーメンとかの麺類から、カレーや麻婆豆腐、フランクフルトやフライドポテトのサイドメニューまであった。


 高校の文化祭だけあって値段も手ごろだったし、それに味も悪くなかった。


 だから私としては、むしろ昼食代が浮いたーくらいの感覚なんだけど……



「このカレー超かれー」


 井上は軽く壊れていた。


 あんまり辛いものが得意じゃないらしい。それでも私に付き合ってくれるんだから、なんだかんだいい奴だ。



「おっ。たまにはかわいい系の子もいいかも」


 こういうところを除いては。




 そのあとは井上とは別行動をとることになった。


 井上は一人で適当にブラブラするらしい。


 ……大丈夫かな? 血迷わなきゃいいけど。


 私はといえば、アリスちゃんの劇の時間になるまで一人で時間を潰して、それから体育館に向かった。



 体育館はカーテンが閉め切られていて、パイプ椅子が並べられている。なんだかちょっと映画館みたいだった。


 とはいえ、ステージでやっているのは映画じゃなくて生徒の漫才だけど。



 漫才が終わって、そのあと数組の出し物が終わって、ついにアリスちゃんたちの出番が来た。


 アリスちゃんたちがやるのは『白雪姫』だ。


 継母に美しさを嫉妬された白雪姫は、何度もその命を狙われ、ついに毒リンゴを食べて殺されてしまう。


 そしてガラスの棺に葬られて、偶然通りがかった王子様のキスで息を吹き返す。



 まあ、キスっていうのは後世の後付けでグリム童話の初版本では違ったらしいけど……


 でも、でも……



 アリスちゃんが白雪姫役ってことは、するってことだよね。


 その……キスを。


 アリスちゃんが、私以外の人と。……まあ、本当にするわけじゃなくて真似だけど。


 それでも……



 チクッ



 ……あれ? なんだろう、今の。今、なんか……


 痛かった。想像しただけなのに。


 アリスちゃんが私以外の誰かと、キスをする。本当にするわけじゃなくて、真似だ。


 別に恋人とってわけじゃない。友達と、キスの真似をする。ただ、それだけ。


 の、はずなんだけど……



 ステージ上で劇をするアリスちゃんは、純白のドレスを着て、白雪姫に扮していた。


 その雰囲気は普段とは全く違っていて、何だか本物のお姫さまみたいに見える。



 ――キレイ。


 ただそう思った。


 やっぱりアリスちゃんはキレイだ。思わず見惚れるくらいに。でも……



 ズキッ



 いざその光景を目の当たりにすると、胸に鈍い痛みを感じた。


 痛い……


 たまらなくなって胸を抑えても、痛みはすこしも消えてくれない。


 それどころか、痛みは波みたいに全身に広がっていって……



 結局、それは劇が終わっても消えてはくれなかった。




「お姉ちゃんっ!」


 体育館の外で待っていると、アリスちゃんが私のもとに駆け寄ってきた。


「私どうだった? ちゃんとできてたでしょっ?」


「うん、よかったよ。衣装もよく似合ってたし」



「ほんと? えへへっ、よかったあ」


 なんか嬉しそう。そこまで喜んでもらえると私も嬉しくなっちゃうな。


 アリスちゃんは、ドレス姿から制服姿に戻っていて、すっかりいつものアリスちゃんに戻っていた。



 このあとは、アリスちゃんが文化祭を案内してくれる約束だ。


 だからアリスちゃんに「あんまり一人で回らないでね」と言われてたから、劇が始まるまでちょっと暇だったんだけど……


「だめ! お姉ちゃんは私が案内したいんだもんっ!」


 とのことだった。



 言葉通り、アリスちゃんは私を案内してくれて、そうこうしているうちに日も傾いてきた。


 その顔はとても楽しそうで、それになんだか嬉しそう。だから私も、ちょっと嬉しくなっちゃうけど……



 私からは、どうしても消えてくれない光景があった。


 友達に、キスされるアリスちゃん……いや、実際にじゃなくて真似だけれども。


 それでも、瞼の裏にはあの光景が焼き付いていて、目を閉じても思い浮かんでしまう……



「お姉ちゃん?」


 外のベンチに座ってクレープを食べていた時のこと。


 気づけば、アリスちゃんに顔を覗き込まれていた。


「どうかしたの? 元気ないみたいだけど……ひょっとして、あんまり面白くない?」


「う、うぅん! そんなことないよ!」


 アリスちゃんが不安そうな顔になっていたので、慌てて否定する。



「その……考え事してただけだから、気にしないで」


 まさか、アリスちゃんがキス(真似)されてるところを思い出してた、なんて言えるはずもなく。適当に誤魔化すしかない。けど……


「ほんとに?」


 誤魔化せてなかったみたい。アリスちゃんの青い瞳が、じっと見てくる。


 思わず目を逸らしてしまう。すると、アリスちゃんがクスリと笑ったような気がした。



「お姉ちゃん、こっち来て」


 アリスちゃんに手を掴まれる。


「えっ? どこに……」


 行くの? と訊くよりも早く、アリスちゃんに手を引っ張られて校舎に戻り、無人の教室に連れ込まれてしまった。



「ど、どうしたの、アリスちゃ……んっ!?」


 教室に入るなり、アリスちゃんに唇を塞がれた。


 一歩、下がってしまう。するとアリスちゃんは一歩詰めて来て、やがて私は教卓にぶつかってしまった。



「……ほっ、ホントにどうしたの……?」


「それ、私のセリフだよ」


 アリスちゃんの青い瞳が、じっと私を見据えている。


 さっきまでは覗き込む形だった視線が、今は見降ろしてくる。


 なんだか、逃げ場がない、追い詰められたような感じがして、今度は目を逸らすことができなかった。



「一体どうしたの? ずっと心ここにあらずって感じで。私と一緒にいるのに、それってひどくない?」


「そ、れは……」


 言えない。


 だって、アリスちゃんが私以外の人と、真似とはいえキスしたのがイヤで、嫉妬しただなんて、言えるはずないよ……



「……イヤだったの」


 なのに、私の口から出てきたのは、正反対の言葉だった。


「アリスちゃんが、その……キス、してるの見て、イヤだって思ったの……私以外の人とするなんて、やだなって思って、そう考えてたらなんか、モヤモヤして、それで……」



 どうしよう、イヤだ。


 アリスちゃんは劇をしていただけだ。


 きっと、今日のためにたくさん練習をしたに違いない。友達といい思い出を作りたくて、それに、きっと私にもそれを見てほしくて。それなのに……



 私がしているのは、つまらない嫉妬。


 イヤだ。そんな自分が。せっかくアリスちゃんが案内してくれてるのに、不貞腐れたみたいになっちゃって。



 苦い。


 アリスちゃんとキスしているときとは、正反対の味だ。


 苦味はあっという間に全身に広がってしまう。こんなんじゃ……



「んむ……っ!?」



 思うように動いてくれなかった口が、完全に動かなくなってしまった。


 アリスちゃんの唇が、私の唇を塞いだから。


 いつもとはちょっと違う、啄むみたいなキス。唇が触れ合うたびに私の体は震えて、堪らなくなってアリスちゃんの手を握ると、彼女も握り返してくれた。


 唇への刺激と一緒に手を握って、刺激はあっという間に全身に広がって、強張っていた体を解してくれる……



「っ……まだ、モヤモヤする?」


「……ちょっとだけ、する……かも……っ!?」


 答えると同時、また唇がやわらかい感触に包まれた。



 甘い。


 いつもアリスちゃんとしているときに感じる、甘くて酸っぱい味。


 それはあっという間に全身に広がって、苦味は嘘みたいに消えた。



「……んっ。どう……?」


「うん……大丈夫……」


「じゃあ、もうキスしなくていいの?」


「そっ、れは……」


 言葉に詰まってしまう。


 してほしい、けど……なんか、なんだろう……


 なんだか、変な気持ちだ。



「ねえ、お姉ちゃん。私のこと好き?」


「えぇっ!?」


 い、いきなり何? どうしてそんなこと訊くんだろう?


 からかってるのかなって思った。でも……



 アリスちゃんは、真剣な表情で私を見てる。


 本気で訊いてるんだ。いつもみたいにからかったり、意地悪をしているんじゃなくて。



「好き、だよ……」


 だから私も答えた。真剣に。


「じゃあ、結婚してくれる?」


「そ、れは……」



 まただ。また、言葉に詰まってしまう。


 アリスちゃんのことは好き。けど「結婚」という言葉を聞くと、どうしても尻込みをしてしまう。


 だから私は、いつも誤魔化してしまっていた。アリスちゃんだって、きっと勇気を出してくれているのに。私は先送りにしてしまった。でも……



「ごめん」


 もう、先送りにはできない。


 私も、勇気を出さなきゃ!



「そっか……」


 思った矢先、アリスちゃんが急に私から離れてしまった。


「残念だけど……うん、それがお姉ちゃんの気持ちなら、仕方ないね」


 あれ? なんか、様子変じゃない? どうしたんだろ……



「ごめんね、困らせちゃって。今までのことは、忘れてくれていいから。私も、もう言わないようにするから……」


 言いながら、アリスちゃんは教室を出て行こうと……って、えぇ!?


 アリスちゃん、ひょっとしなくても勘違いしちゃってる!?


 どどど、どうしよう!? いや、どうしようもなにも止めなくちゃ!



「ま、待ってっ!」


 慌ててアリスちゃんの手を掴む。


「気にしないでっ。ちゃんと言ってくれて嬉しかったよ。ごめんって、そういうことでしょ……?」


「違うよ!」



 やっぱり、勘違いしてる。


 違う、私がさせちゃったんだ。変な言い方しちゃったから。



「違うよ。アリスちゃんが考えてるようなことじゃないよ。だからお願い、最後まで聞いて……」


 いつもはじっと私を見てくれるアリスちゃんが、私を見てくれない。それでも、コクリと頷いてくれた。



「私、アリスちゃんのこと好きだよ。でも、結婚てさ、大変なことじゃん。私はいちおう年上で、まだ大学生で、その……責任とか、ちゃんと取れないと思うし……でもねっ!」



 ぎゅっ、とアリスちゃんの手を握る手に力が入る。自分の勇気を奮い立たせるように。そして、私の気持ちが、少しでもアリスちゃんに伝わってくれるように。



「ヤダって、思ってるわけじゃないの。そう言ってもらえて、嬉しいと思ってるよ。だから……ちょっとだけ、変えてみない……?」


「変える……?」


「うん。ちょっとだけ、進めてみようよ。恋人……っていうんじゃないけど、その……今まで〝出かける〟って言ってたのを〝デート〟って言うとか、そんな感じに……」


 頑張って勇気を出したけど、結局、声はだんだん小さくなってしまった。


 だって、私の答えは煮え切らないものに変わりはなくて。


 こんなんじゃ、アリスちゃんに呆れられちゃうんじゃ……



「……んんっ!?」



 気づいたときには、アリスちゃんの顔が鼻先にあった。


 彼女の手には私の頬に触れていて、強く強く、唇を押し付けてくる。


 一瞬、何事かと思って体が強張った。けど……



 ――そっか。


 すぐに分かった。


 アリスちゃんが、私を受け入れてくれたんだ。私の、気持ちを。



「ありがとう、お姉ちゃん」


 その声は、妙にハッキリと私の耳に届いた。でも、私の心にあったのは……


「べつに、そんな……」


 罪悪感だ。


 煮え切らないことしか言えない。自分自身の。



「ごめんね。私、まだ……」


「いいの」


 アリスちゃんの言葉は、私の言葉を遮るかのようだった。


「お姉ちゃんの気持ちが聞けて、本当に嬉しいよ。今はそれだけで十分だよ」


「うん……」



 アリスちゃんは私と額を合わせてきた。


 目を伏せると、近くにアリスちゃんを感じる。それがとても嬉しい……


 ああ、何か私カッコ悪いなあ。これでも年上だっていうのに、もう、ほんと……



「ねえ、お姉ちゃん。ちゅーして?」



 …………


 ……………………



「えっ?」


「だから、ちゅーしてくれない?」


「ど、どうして?」


「してほしいから」


 ……急にどうしたんだろう? アリスちゃんがこんなこと言うなんて……いつものことか。



「お姉ちゃん言ってくれたじゃん。少しだけ変えてみようって。だからお姉ちゃんからして欲しいの。……だめ?」


 うぅっ。


 なんか、久しぶりに見た気がする。アリスちゃんのおねだり。



「ぃ、いいよ……」


 やっぱり、この顔には逆らえない。


 うぅん、違う。私が思ってるんだ。この子のために、何かしてあげたいって。



 アリスちゃんが目を瞑る。


 私はゆっくり顔を近づけて、静かに、唇を重ねた。



 自分から触れたのに、私は何だかビックリして、すぐに離れてしまった。


 今まで、私からしたことは何度かあった。その時は大丈夫だったのに……もしかして、アリスちゃんも?


 けど、アリスちゃんはじっとしたまま動かない。まるで、私を待ってくれているみたいに。


 ちゃんとしなきゃ。私が言ったんだから。変わろうって。



 私は今度こそ覚悟を決めて、もう一度唇を重ねた。


 また唇が離れる。今度はアリスちゃんも。そして、また重なる。


 唇が触れ合うたび、体がピリピリ震えた。


 私の体に広がっていくのは、いつもと同じ、甘酸っぱい味。でも、それだけじゃない。



 お互いの唇が重なるたびに、まるで気持ちまで一緒に重なっていくような、アリスちゃんと一つになっていくような感覚……


 なんだろう、これ……なんか、いつもより……


 くっつくっていうか、絡み合う感じ……



「……んっっ」


 また、体が強張った。


 アリスちゃんの手が、私のスカートの中に入ってきたから。


 思い出すのは、忘れ物を届けに来たときのこと。本当にビックリして、自分でも訳が分からなくなっちゃったけど……



「抵抗、しないんだね」


 ポツリと、アリスちゃんの声が降ってくる。


「……だって、言ったから。変えようって……」


 それから、私たちはまたキスをしあった。



 一体、いつまでそうしていたのか分からない。


 気づいたときには教室の外は真っ暗になっていて、窓の外からは淡い光が差し込んでいる。


 その光はアリスちゃんの金髪に反射して、黄金色に染め上げていた。まるで宗教画のような、神々しくも、厳かで儚い少女……。私は時が止まったかのように見惚れてしまう。



 外の光は、多分、キャンプファイヤーの炎だ。


 私たちの時にもあった、後夜祭が始まるのだろう。文化祭が終わったんだ。でも……



 私の、私たちの、この気持ちに終わりはない。


 淡い光に照らされたアリスちゃんを見て、確信することができた。

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