第35話 大丈夫!?

「ありがとうございましたー」


 お会計をすませてお客さんを見送る。



 それから、ふうと息をはく。


 お仕事にも大分慣れてきた。今日は朝から夕方までだから、ちょっと疲れちゃったけど……



「小岩井さーん、休憩入っていいわよー」


「はーい、オーナー」


 待ちに待った休憩だ。



 そういえば、今日はお姉ちゃんと休憩時間被ってたっけ。


 紅茶持っていこうっと。あと、パティシエさんが賄いにクッキーを焼いてくれたので、それも一緒に。


 休憩室まで行って、ドアをちょっと開けたとき、



「やっばぁ、やっちゃった……」



 お姉ちゃんの声が聞こえてきた。


 どうしたんだろうと思って、ドアの隙間から部屋のなかを見て、私は固まってしまう。



 お姉ちゃんはイスから立ち上がったところだった。


 着ているメイド服は、スカート部分が汚れていて、床には黄色い液体が零れていて……



 え……これ、えぇえええっ!?


 ちょっ、これってそーいうことっ!? ほんとにっ!?



 すごい場面に遭遇しちゃった。


 お姉ちゃんが最後にお漏らししたのは、小学二年生の時だ。今でも覚えてる。だって、お姉ちゃん一人が怒られないように、私もやったから。


 それなのに……



 ど、どうしよう!? これ、私どうしたらいいの!?


 気づかないフリしたほうがいいよね。見られたって知ったら、きっとお姉ちゃんショック受けちゃう。


 でも、他の人に見られちゃうかもしれないし、そうなるくらいなら、今入って行って片付けるの手伝ったほうが……



「誰……っ?」



 ドアから離れようとした時、間違って触っちゃったらしい。ドアが動いて、その音でお姉ちゃんに気づかれちゃった。


 うぅ。こうなったら、仕方ないよね。



「お姉ちゃん……」


「なんだ、アリスちゃんだったんだ」


 私の姿を見ると、お姉ちゃんは安心したみたいだった。


 そうだよね。職場でお漏らししちゃったんだし。



「だ、大丈夫?」


「うん。ちょっとボーっとしちゃっただけだから。気にしないで」


 いやいや! できるわけないじゃんそんなこと!


 ていうか、ボーっとしてて漏らしちゃったの!? そんなこと言われたら余計混乱しちゃうよ!?


 でも、そんな場合じゃない! 誰かに見つかる前にはやく片付けなきゃ!



「ね、ねえお姉ちゃん、ここは私が片付けておくからさ、着替えてきたら? えっと……替えの下着とか持ってる?」


「下着?」


 すると、何故かお姉ちゃんは不思議そうな顔で首を傾げた。



「着替えは分かるけど……なんで下着?」


 お姉ちゃん……この期に及んで誤魔化そうとするなんて……


 もうっ! そんな暇ないのに! 誰かが来る前に急がなきゃ!



「だって、お姉ちゃんおしっこ漏らしちゃったんでしょ? それなのに同じ下着付けてるなんてダメだよ!」


「はっ? えぇ!?」


「大丈夫! 私汚いなんて思わないし、引いたりもしてないよ! だってお姉ちゃんのだもん」


「ちょ、ちょっと待って」


「私お姉ちゃんのおしっこなら飲めるよ! 何なら証拠見せるからっ!」


「ま、待ってってば」


 言うや否や、私はしゃがんでお姉ちゃんのスカートを捲り上げて……



「やっ、やだやだ、だめぇ……!」


「きゃっ!?」


 お姉ちゃんに突き飛ばされてしまった。


 尻もちをついちゃったけど、それでハッとなる。……あ、あれ? 私なんか、変なテンションになってたような?


 それは私だけじゃなかった。スカートの裾を抑えていたお姉ちゃんも、ハッとした顔になって、慌てて私に駆け寄ってくれた。



「ごめん、アリスちゃん! 大丈夫!?」


「う、うん。私こそ、なんかごめん……」


 お姉ちゃんはため息をついた。



「もう、急にどうしたの? 何か怖かったんだけど」


「だって、お姉ちゃんがおしっこ漏らしちゃったから! 早く片付けなきゃって思って、それで……」


「ま、待って待って! 何でそんなことになってるの!? 私そんなことしてないよ!?」


 …………


 ……………………



「またまたあ」


「いやいや! ほんとだってば! 私漏らしてなんかないって!」


「じゃあ……」


 あれは? と、無言で黄色い水たまりを指さす。



「あれは紅茶。休憩入るときに淹れたやつ。ついこぼしちゃって……」


「え、本当に?」


 誤魔化そうとしてるだけじゃ……


 まだ信じられず、私はお姉ちゃんのスカートについたシミに顔を近づけ、クンクン匂いを嗅いでみる。



「ちょ、ちょっと……」


 お姉ちゃんが逃げようとしたので、私は腰に手を回して、抱き着くみたいにして匂いを嗅ぐ。


 うーん、お姉ちゃんの匂いだ。この匂い大好き……じゃなくて、



「ほんとだ。紅茶の匂い」


「だから言ったでしょ?」


 お姉ちゃんはちょっと呆れたみたい。でも、私はそれどころじゃない。



 クンクンクンクンクンクンクンクン。


 お姉ちゃんの匂いを嗅ぐ、嗅ぐ、嗅ぎまくる。



「アリスちゃん、ちょっと……嗅ぎすぎ……」


 なんて言っているけど、お姉ちゃんは無理やり私を引き離したりはしない。


「あとちょっと。なんだか疲れちゃって。……だめ?」


 すると、お姉ちゃんはちょっと困った顔になって、それから「しょうがないなあ」と言った。



「じゃあ、お仕事がんばったアリスちゃんにご褒美。特別だからね?」


 そう言って、お姉ちゃんは私にそっとキスしてくれた。



 ……ちょっとビックリした。まさかお姉ちゃんからしてくれるなんて。


 なんだか、甘い……これ、紅茶かな? うぅん、それだけじゃない。


 それにこの匂い……とっても安心する。ここにいれば悪いことなんて何も起こらないって、そう思える……



 気づけば、さっきまでの疲れなんてキレイに消えていた。




「ふぃ~~~~……」


 お客さんが帰ったテーブルを片づけ終わって、フロアから抜けたところで息をはく。


 あー疲れた。みゃーのとアリスちゃんが休憩に入っちゃってるからなー。



 でも、私もようやく休憩に入れる! みゃーのと入れ替わりで!


 つまりアリスちゃんと二人きりか。どーしよ。どんな話しようかな? みゃーのの恥ずかしい話でも聞きだしちゃおっかな。


 と考えながら休憩室のドアを開けると、



「けほっ! けほけほっ!」



 アリスちゃんが咽ていた。ていうか、



「けほっ!?」



 吐血していた。



 って、ええ!? 吐血!?


 アリスちゃんて、血を吐くくらい重い病気に罹ってたの!?


 全然知らなかった。そんな状態で働いていただなんて……



「アリスちゃん!」


 バン! と勢いよく扉を開いて、休憩室に入る。


 二人は驚いた顔で私を見てきた。



「ごめん、ごめんよぅ……私、全然気づいてあげられなくて……」


「え、なんの話ですか?」


 アリスちゃんはキョトンとした顔。


 そっか、やっぱり言いにくいよね。重い病気だなんて。きっと、向き合い方も難しいんだ。



「えぇっとさ、その……大丈夫?」


 私としたことが、そんな言葉しか出てこない。でも、


「大丈夫です。ちょっと咽ちゃっただけなので」


 心配させまいとそんなことを。うぅっ……!



「みゃーのも辛いよね。アリスちゃんがこんなことになっちゃって」


「え、別にそこまでは」


 私は自分の耳を疑った。そこまではって……



「みゃーのはアリスちゃんが心配じゃないの!?」


「大丈夫? とは思うけど、そう大袈裟にすることじゃないでしょ」


「大袈裟にすることでしょ! むしろそうするしかないでしょ!!」


「井上さん、私なら本当に大丈夫ですから」


 アリスちゃんは相変わらず。そして、



「もう、気をつけなきゃダメだよ、アリスちゃん」


「はあい」


 アリスちゃんは必死に病気と闘っているのに、みゃーのの能天気さときたら! 何かムカムカしてきた!



「見損なったよみゃーの! アリスちゃんがこんなに苦しんでるのに! 一緒に病気と闘おうって気はないの!?」


 すると、二人はなぜかキョトンとした顔になった。そして……




「と、トマトジュースだったんだ……」


 アリスちゃんは吐血したんじゃなくて、トマトジュースを吹いてしまっただけらしい。


「おぉう、私、すごい勘違いを……」


 急激に恥ずかしくなってきた。二人の顔を見られない。



「うぅっ! 早とちりしちゃった! 今まで築き上げてきた私のインテリジェンスなイメージがっ!」


「安心して。そんなイメージ誰も持ってないから」


「井上さんて、意外とおっちょこちょいなんですね。……でも、ありがとうございます。心配してくださって」


「うぅ……アリスちゃんの中での私のイメージが……今までできる大人の女で通っていたのに……」


「だからそんなふうにはだれも考えてないって」


 なんかみゃーのがうるさい。



 トマトジュースはオーナーの差し入れらしい。それを飲んだアリスちゃんが咽ただけなんだとか。


 ま、何事もなくてよかったよ。思わぬ衝撃に出迎えられたけど、ようやく休憩に入れそうだ。




 休憩から上がると、店内はそれほど混んでいなかった。ランチタイムも終わって、ピークは過ぎたらしい。


 それにしてもさっきはビックリしたな。井上があんな勘違いをするなんて。でも、それだけアリスちゃんを心配してくれたってことか。結構いいとこあるじゃん。


 なんて考えていると、お客さんが来た。多分、私と同い年くらいの女性四人だ。席に案内する。待ち合わせでもしているのか、時折店内を見回していた。



 気になりつつ仕事をして、そうこうしているうちに井上が戻ってきた。と、


「いた! 愛実まなみ!」


 さっきのお客さんが声を上げた。その視線の先にいるのは、我が親愛なる友人、井上だ。


 ……マナミ? ああ、そういえば井上ってそんな名前だったな。


 井上の知り合いだったのかな? じゃあさっきは井上を探してたのかな? ていうか、どうしたんだろう、なんて考えていると、



「私以外にも恋人がいたなんてひどいっ!」



 …………


 ……………………



 えぇっ!? 恋人って……えぇ!? まっ、マジでぇ!?



 だって、あの人たちは女で井上も女て、てことは……井上ってそうだったの!?


 ……いや、でも今までは男と付き合ってたっけ……じゃあ、あれ? やば、混乱してきた。



「みゃーの。私ね、分かったの」


 私の混乱を知ってか知らずか、井上は今までとは違う静かな声で言った。


「付き合ってもすぐに分かれるのは、相手が男だからだって!」


 と思ったら、いつもと同じ声でいつもと同じバカなことを言った。



 いやいや、きっと私をからかってるんだ。それか、私が勘違いしてる。


 アリスちゃんと井上も、なんか勘違いしてたし。きっと今日はそういう日なんだよ、うん……



「だから私、これからは女と付き合うことにしたの」


 勘違いじゃなかった。



「手始めに好みの子と付き合ってたらいつの間にか四人になっててさー」


 えぇ……最低だなコイツ。


「私に手を出さないでくれてありがとうって言うべき?」


「だってみゃーのは友達だし」


 そこに線があるんだ……



 ていうかマジか。ついに来るところまで来たな。


「じゃあ、私ちょっと行ってくるぜ」


 なんて言って、彼女たちには見えないように私におふざけの敬礼をした。


 結構な修羅場のはずなんだけどな……



「大丈夫なの……?」


「もちろん! みんな話せば分かってくれるさ」


 いや話すって何をだ。「私は最低です」て言うしかないじゃん。え、ないよね?


 大丈夫……?



「聞いてみんな! これには大変込み入った事情がぷへっ!?」


 まあ、そうなるよね。全然大丈夫じゃなかった。


 さっきはいい奴じゃんなんて思っちゃったけど……



 やっぱり、井上は井上だった。 

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