真紅の薔薇ふたつ
その瞬間からロビンさん達は僕に冷たくなった。
会話はあるけれど、常に必要最低限。天気の話すらしない。
でも僕は全く気にしなかった。そもそもの話、僕は友人を作るためではなく、勉強をする場所を確保するためにサンクチュアリに引っ越して来たのだ。それに、ユウミさんと同じ屋根の下で暮らせるってことだけで十分幸せだよ。ロビンさんなんて、知るもんか!
そうそう、ホームズさんはホームズさんで、僕が助手じゃなくても全く困りはしないらしい。またアーサーさんに電話をかけて、「プランAは続行だ」とか言っていたくらいだからね。
まあいいや、こんなこと思い出したってしょうがない。僕は毛布にくるまって瞼を閉じた。
もう夜の十一時。明日はどうせ母さんと大喧嘩することになるんだし、寝る直前くらい良いことを考えよう。例えば、この国の
それから、僕が買って来た黄色い薔薇を、ユウミさんがもの凄く喜んでくれたこと。
「まあ、嬉しい!」って言いながら、めちゃくちゃ可愛い笑顔になって……僕の手をぎゅっと握ってくれたんだ! ああ、思い出したらドキドキして来たぞ…………
*
それからどれくらい眠っていたのだろうか。不意にコトン、と耳元で微かな音がして目が覚めた。ベットの脇に目を向けると何故かロビンさんがそこに居て、キャンバスに真っ赤な薔薇の絵を描いていた。
「やぁ、マフィン君。悪いね、枕元で」
「えっ、あ、はい……」
ロビンさんは僕が起きたことに気づいていたみたいだ。でも、どうしてここに?
聞こうと思うも、まだ眠くて口が重い。僕はただボーっとして、ロビンさんの繊細な筆の動きをじっと見ていた。
ロビンさんも口を訊かなかった。しばらく時計のカチコチいう音だけが部屋に響いていた。
「えっと、ロビンさん」先に沈黙を破ったのは、僕の方だった。
「その絵の薔薇、なんか花びらがふわふわしていて可愛いですね。優しい感じがして……」
本当に素敵だ。ただの紙に描いてある「絵」だっていうのに、香りさえ漂って来そうな程にイキイキとしている。
ロビンさんは絵から目を逸らすことなく微笑んだ。
「そうかい? 君にそう言ってもらえるとは……画家冥利に尽きるね」
僕はまた、ロビンさんの座る椅子の足に立て掛けてあった、もう一枚の赤い薔薇の絵にも感心した。これはもう完成しているらしい。サインらしきものが入っている。
「あのロビンさん、こっちの絵も綺麗ですね。でも不思議です。同じ薔薇なのに、こっちは凄く迫力があると言うか、力強い感じがして」
「おや、君はなかなか目が肥えてるね。感性が豊かな証拠だね」
ロビンさんは少し嬉しそうにしながら、また赤い絵の具に筆を浸す。キャンバス上の薔薇は、ロビンさんが優しく筆で触れる度に、くっきりと浮き上がって行く。まるで魔法を見ているみたいだ。
「この絵も、今日中に仕上げるつもりなんだ。明日はギリシャに行くからね」
突然ロビンさんがそんな事を言ったので、僕は驚いた。
「えっ、外国に行くんですか?」
「そう。ギリシャだけじゃない。一週間後にはローマにも行くし、その後はパリのエッフェル塔を見に行く予定なんだ」
「なんか大変ですね。お仕事で行くんですか?」
「いや」ロビンさんはここで初めて僕の顔を見た。
「仕事じゃない。ハネムーンに行くんだ」
ハ、ハネムーン?!
「……えっ、あ、おめでとうございます……?」
でも、そんな電撃的な……。まだ今日だよ? ロビンさんが『ユウミさんは未来の僕の奥さんだ』って言ってたのは。それなのに、一体誰と結婚するのだろう。
「誰と行かれるのですか?」僕は思わず聞いてしまう。
すると、ロビンさんはニッコリ笑って「決まってるじゃないか? ユウミと、だよ」と言った。
何それ! はああああ?! 嘘だろ!?
驚きのあまり、僕は弾かれるようにベットから起き上がった……つもりが、全身に全く力が入らず、起き上がるどころか腕や足を動かすことも出来ない。
「あれ、あれ? なんで……? えっ」
よく見ると、恐ろしい事に僕の右腕の血管は、何かの刃物でスッパリと切り開かれていた。今もそこから真紅の血が絶え間なく溢れて、ベットの下に置いてある透明なバケツの中へ緩やかに流れ込んでいる。――ロビンさんはそれに筆を浸して薔薇を描いていたのだ。
「悪いね。君とは友達になれそうだったけど……」
驚きで声が出ない僕を省みる事なく、ロビンさんはまたキャンバスを見つめ、忙しそうに筆を動かしていた。
「分かって欲しい。愛するユウミとの生活の為に、僕は少しでも危険を排除したいんだ」
「ぼ、僕は何もしてないのに?!」
「これからするかも知れない。いつも一生懸命な君のことだから、ユウミを僕に盗られて黙ってはいられないだろう? それにね、もし君が僕とユウミの気持ちを汲んでくれたとしても……僕の敵に捕まって拷問されたりしたら、耐え切れずに何かを言ってしまうかも知れないしね。そうなったら非常に困るんだ」
「じょ、冗談ですよね……?」
「どこが?」ロビンさんは僕の目を真っ直ぐに見て笑う。
「だって、そ、それを言うならホームズさんは!?」
「ああ、シャーロックはね……」
ロビンさんはもう一枚の、あの迫力ある薔薇の絵に目を落とした。
「もういない」
その瞬間、僕の胸を冷たい風が吹き抜けた。みるみるうちに溢れ出した涙で視界が歪み、腹の底から狂いそうなほどの怒りと悲しみが湧いて来る。あああああ、と僕は叫んだ。どうして、どうしてシャーロックさんを……!!
「泣かないでよ、マフィン君。全部仕方がないんだ。僕とシャーロックはね、元々こうなる運命だったんだよ。君のこともそうだ。もうどうにもならない」ロビンさんは囁いた。
「だからせめてもの形見に、と思ってこれを描いているんだ。強く美しかった彼を忘れないように。優しくて真面目で、かわいらしかった君を忘れないように……」
そんな、そんな、そんな……
僕はまだ何かを言おうとした。けれどももう遅かった。耳に絶望の鐘が鳴り始め、やがて全てが遠ざかって行く。ロビンさん、ロビンさん、どうして、助けて……
ああ、もう何も見えない。
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