Seek, ask, knock at the door.

愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る

 ――あのマイクの友人だとかいう青年。何と名乗ったのかは忘れてしまったが、なかなか珍しい、良い目をしていた。


 次第に遠ざかって行く青年達の靴音を聞きながら、シャーロック・ホームズはため息を一つ落とし顕微鏡に向き直る。彼が今調査しているのは、一昨日の夜にドイツで奪取した書類中に組み込まれた暗号である。


「同志よ、立ち上がれ」「神に代わって腐りきった世界を壊せ」等、一見すると何の変哲もない(テロ組織らしい)文章の周りに、点々と汚れのような極小の黒丸がある。その一つ一つを顕微鏡で拡大すると、アルファベットの数列……これもまた暗号のわけだが……見えて来る。


 シャーロックの仕事はその解読だ。

 始めてからすでに二日が経つ。量は多いが暗号自体は(彼にしてみれば)簡単なものであったので、意味を理解するのに十分も掛からなかった。

 お陰で、後は見て解読、見て解読の退屈な繰り返し……まあそれも間もなく終わるが。彼らが活動資金を貯蓄プールしていた世界各国の銀行名・口座番号等は、シャーロックの頭の中で長いリストになっていた。


 それにしても、随分アナログ的な手を使うものだ。今の時代、電子ファイルにした方が何かと便利だろうに……。


 シャーロックは思ったが、よく考えてみれば「データの保存方法ですか? 手はかかりますが、昔ながらの方法にするのが一番ですよ。電子ファイルじゃなくてね。ハッキングされる心配がありませんから」と、自分が彼らにお勧めしたからだった。あれは冗談のつもりだったのだが。




 不意に、チリチリと顕微鏡が妙な音を立て、視界が揺れた。覗いているミクロの世界が、灰色の砂嵐に覆われて行く……が、始まった時と同じようにそれは突然晴れ、真っ白になった視界に文字が現れた。


『Good evening. My brother.』


 シャーロックは舌打ちをする。一瞬でも動揺した自分が恨めしい。


「……俺の顕微鏡に妙な細工をしやがって」呟く途端に新たな文が現れる。

『気がつかないお前が悪い』


 どうやら何処かに集音マイクがあるらしい。シャーロックは顕微鏡を窓の外に投げてしまおうかと思ったが、強い意志の力でとどまり嘆息した。これを壊したところで意味はない。


 相手は、この国に存在する百七十もの犯罪組織の約半数を手中に収めている、アイリッシュ・マフィアのNo.2。時に頭脳明晰・冷静沈着・冷酷無比が過ぎるため、「Mr. 頭脳ブレイン」とあだ名されるシャーロックの義兄なのである。

 名を、マイクロフト・ホームズという。



「何の用だ、マイクロフト。例の件なら順調だ」

『安心したよ。その程度の仕事で“まだもう少し時間が掛かる”と言われたら、私はお前に絶望する所だった』

「……後でまとめてメールする。切るぞ」


 シャーロックは顕微鏡を投げようとした。が、何故か顕微鏡が机にピッタリと張り付いて動かない。何分か奮闘した後、諦めてレンズを覗けば、『お馬鹿なシャーリー』『いつになったら私の掌で踊るのを止めるのか』などと笑われていた。


「だから何の用だ、と言ってるだろ!!」

『お前は短気過ぎる。ここは英国人らしく、紅茶を飲みながらゆっくりと聞くべきだ……と、また話が横に逸れてしまった。さてシャーリー。ここからが本題だ。お前は何故、わざわざドイツからイギリスへ戻って来ることになったのだろう?』

「アンタを殺すためだな」

『違う。お前は視野が狭いから何も気づいてはいないだろうが、ここ数年の間に、各国で何十人もの秘密諜報員エージェント殺し屋ヒットマンが殺害されている』







「それは初耳ですね」


 同じ頃。

 空港近くの古びたホテルに荷を下ろしたロビン・フッドは、グラスを片手にバルコニーの柵へ寄りかかった。女性と見紛うようなその美しい横顔には、小型のワイヤレス・イヤホンマイクの影があり、夜風にさらさらと靡く白銀の髪に見え隠れしている。


 店で買ったばかりのまっさらな端末が、【Knight of the night】と、MI6本部からの「次の仕事ですよコール」を受信したのはついさっきの事だ。

 冗談じゃない。ようやくロシアの一件から解放されたと言うのに。

 階下で浮かれ騒ぐ若者達の姿を恨めしげに見つめ、「でも」とロビンは続ける。


「どこでどう秘密諜報員エージェント達が殺されようが、あなた方組織は一切関知をしないと言うのがこれまでのお約束じゃありませんか。今更救いようがないので、切ります」


 耳から機材を引き抜こうとした刹那、鋭い声が飛んだ。


『許しません』


 相手は女性、声も決して大きいものではなかったのだが、体の芯までつらぬかれた気がしてロビンは「さすが……」と苦笑した。それもそのはず、彼女は男社会のMI6で、ずば抜けた才知と美貌を武器に長官の座へのし上がった女傑なのである。

 名はマリアン・キャロル。人呼んで、「鉄の処女アイアンメイデン」――



『事件が起こったのは三ヶ月前です。私は、我が国のアイリッシュ・マフィアの内情を探るため、百戦錬磨の秘密諜報員エージェントを集めて捜査チームを結成しました。貴方も噂は聞いているでしょう……バースタイン、ラ・ロティエール、エドアルド・ルーカスの三人のことは』

「ええ。確かアメリカで、麻薬カルテルが計画したテロ攻撃を未然に防いだことがあるとか」

『そうです。彼らはプロ中のプロでした。何と言っても相手はあのMr. 頭脳ブレインですから、半端者を任務に就かせるわけにはいかなかったのです』マリアンはため息をついた。


『ところが、作戦が決行の秒読み段階に入った頃、彼らは隠れ家に集まっていた所を襲われました。エドアルド・ルーカスは、心臓に自身のナイフを刺されて死亡、残りの二人は未だ消息不明です。もうこの世にいないでしょう』

「へえ……それは確かに非常事態だ。貴方が認める秘密諜報員エージェント達が、そんなにあっさりと殺されてしまうなんて」ロビンはどんよりと曇った夜空を見上げた。

「まあ、エドアルドはそうなってざまみろですけどね。あいつは前に子犬をいじめていた馬鹿野郎ですから」

『聞かなかったことにしますね』

「はは。ま、敵はよほど腕が立つようですね。二人を難なく連れ去っていることから考えて、流しの殺し屋ヒットマンではない。組織だった空気を感じます」

「同感です」

「でも長官は、この件にMr. 頭脳ブレインは無関係だとお考えですね」


 ロビンの言葉に、マリアンは一呼吸置いた後『よく分かりましたね』と頷いた。


『その通りです。この件の黒幕は彼ではない。彼はそんな乱暴なやり方はしません。我々の首を抑える時は、もっとスマートで確実な方法を取るでしょう。それに、今はまだ、我々を敵に回すことを良しとしないはずですから』







『MI6はその後、弔い合戦のつもりか、次々に秘密諜報員エージェントを投入して捜査に当たらせていたが、まあ上手く行かない。監視カメラの映像等も敵が消去しているらしくてな』

「捜査に当たった奴らも死んだな?」

『よく分かったな、シャーリー』

「ふん。アンタを貶めるためのMI6の自作自演かと思っていたが、違うようだな」


 シャーロックが笑うと、すかさずマイクロフトの字が追いかけて来た。


『当たり前だ。鉄の処女アイアンメイデンは絶対的な正義観を持つ女だ。諜報部の長官という立場上、それを通すのはなかなか難しいとは思うがね。私は彼女の作戦を知っていたし、少なからず利用するつもりでいたから、こんな形で中止になったのが残念でもある』

「そうかよ」

『それはさておき、私も私なりに捜査を進めてみたが、雇った殺し屋ヒットマンは全く使い物にならん。次から次へとテムズ川に浮かぶ始末だ。特に、シャノワール・ジョーダンという男は冗談のように無様だった』

「つまらん洒落を言うな」

『しかし、事はイギリス国内だけの問題では無くなって来ている。秘密諜報員エージェントなどはどの国でも皆殺し状態だ。情報が何処かから漏れているんだろう』


 だからお前を呼び戻したのだ。だから貴方を呼び戻したのです。

マイクロフトもマリアンも同じく同じ現実いまを見る。だがそれだけではきたる嵐は避けられない。全てを変えられるとしたら、それはだ。


『シャーリー。お前は名もなければ影もない、我がファミリーの中で最も自由な殺し屋ヒットマンだ。現時点ではどうせ情報もあまりない。好きなようにやってくれて良い』

『ロビン。速やかに突き止めなさい。敵の正体を。その目的を。そして彼らを排除しなさい』


 ――Understood. Then, let's begin.


 シャーロックはPCを起動させ、三年前に更新を停止したWebサイトを立ち上げた。ロビンは、頼んだはずもないルームサービスが持って来た、オリーブ色のトランクを手に取った。


 一寸先は闇、行けども待つのは冥府の沙汰か。しかし、投げられた手袋は拾うより他はない。

 さあ求めよ、尋ねよ、扉を叩け。されば与えられ、見出され、全て眼前に開かれる。

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