第二章/一目惚れ

心を奪われて

 下宿が見つかった!

 希望に満ちた気分でバーツを出た後、僕はロンドンにあるマイクの家に泊めてもらった。

家に帰るつもりなんてこれっぽっちもなかったから、母さんには何の連絡もしなかった。今後の計画(ホームズさんに教えてもらった下宿の下見をすること)を邪魔されないようにするためだ。

 母さんは心配しているだろうが、僕はちょっと良い気分だった。母さんが勝手に引っ越しを決めたりしたことなんかに比べたら、無断外泊なんてもの凄く些細なことだよ。ベー。

 

 そして夜が明けて今日。僕はマイクと一緒に、ベーカー街221Bの下宿に向かって歩いている。気分はウキウキ&ワクワク……なんだけど、実はその下宿について一つだけ心配なことがあった。


 ベーカー街というロンドンの一等地に建っているにしては、家賃が安すぎるんだ。

光熱費と一日二回の賄い込みで一月 四百五十ポンド(約六万八千円)なんて、普通ならありえない。ロンドンのアパートは、学生専用のものでも、大体一週間で三百ポンド(約四万四千円)くらい、一月で千二百ポンド(約十八万円)くらいはするのに。


「きっと、その『サンクチュアリ』とか言う下宿は超ボロなんだろうな」とマイク。

「あー多分ねー……でもまあ、住めれば何でも良いよ」


 カリフォルニアへ行くくらいなら、何だって我慢する。僕は腹をくくった。






 ところが。僕らは問題の下宿に辿り着くや否や、息を呑んだ。

その建物は、ちょっと信じらないくらい、美しかったからだ。 


 表札を確認したが、場所を間違えたわけでもない。真鍮の門扉には、しっかり「Sanctuaryサンクチュアリ」と書かれた表札がかかっている。


「な、なんだここは……」

「凄いね……」


 暖かなオレンジ色の煉瓦が並ぶ屋根に、三角に飛び出した棟が三つ。そこが貸部屋になっているのかも知れない。

 一棟ごとに窓がある。それは今全て開けられていて、緑のカーテンが風にひらひらとはためいている。

 壁は全体的に白い煉瓦で作られているようだ。ちょうど花盛りの薔薇のツルがはっているのが目を引く。

 濃い緑色のアンティーク調の玄関扉は、両開きのタイプらしくとても大きい。格好良いし素敵なデザインだ。上部に金色の太文字で「221B」とあった。


「やばいぞ……」

「信じられない……」

 

 ここには、猫の額ほどの小ささだけれども、花々でいっぱいの可愛らしい庭まである。童話の世界に迷い込んでしまったのかと錯覚しそうになるくらいだ。


 しかし、外観の美しさとは裏腹に……なんて事も世の中にはあるんだよね。肝心なのは中身だから、冷静でいなければ。


 僕は深呼吸をし、扉の脇に吊るされたベルを鳴らした。


「はーい!」


 意外にも若い女の人の声が中で響いた。


 僕とマイクが顔を見合わせていると、「タタタタタ」と軽やかな足音が近付いて来た。

 間もなく扉が開き、長い金髪をかきあげながら、白いブラウスに茶色のスカート姿の女の人が姿を現した。


「あっ! 初めまして! 私は大家をしています、ユウミ・ベランジェールと申します! どちら様でしょう?」


 その瞬間、僕は、心を奪われた。

 こんなに美しい人に会ったのは、生まれて初めてだ。


 すっと通った鼻筋に、大きくつぶらな緑の瞳、陶器のような白い肌。艶やかな唇。

とりわけ金髪が見事だった。あんまり輝いているので、天使の輪がついているのかと思うほどだ。


 ぼーっとしている僕を不思議に思ったのか、女の人は微笑みながらちょっと首を傾げた。そして強調される、白いうなじ……ああ、ダメだ。胸が痛い。心臓がきゅっと縮んでしまったみたいに苦しい。でも何故か、とても幸せだ。生きていて良かった……そんな想いすら溢れて来る。

 まるで、僕の内側でビックバンが起こったかのようだった。


「ジョン、おい、リーハ? 気分でも悪いのか?」マイクの声で、僕はハッと我に返った。

「あ、ごめん……」


 何でもない、大丈夫だよ……と答えたけど、女の人が「あの」と言いながら僕の目をじっと見つめて来たので、すぐに全然大丈夫じゃなくなった。


「大丈夫ですか? お水を持ってきましょうか?」


 ああ、どうしてなんだ、どうして声までもが美しいんだ。まるで鈴を振るような澄んだ声だ。

 僕はまたしても心を奪われてしまった。


「おい、リーハ! 本当にどうしたんだよ!」



 僕は一目惚れなんて信じていなかったのに。

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