第三章/新たな日々へ
川へ落ちた犬
いよいよ始まったんだ。
あの素敵なユウミさんのいる、サンクチュアリでの新しい生活が。
列車にゆられ、ロンドンの街に降り立った僕は、いつの間にか空高く昇っていた太陽の日差しの眩しさに思わず目を細めた。雲一つなく晴れ渡っている空を真っ白な飛行機がゆっくりと横断している。
近くのショッピング・モールで日用品などの買い物を済ませた後、僕は鼻歌まじりにサンクチュアリへ向かう。時々歩道から身を乗り出して、川幅いっぱいにたっぷりと水を張っている、テムズ川の穏やかな水面を覗いたりした。
不意に背後からきゃあきゃあと子供がはしゃぐ声が聞こえた。振り返ると、十歳くらいの女の子が、白く輝く毛並みの小さいマルチーズを連れて、遠くから駆けてくるのが見えた。
女の子は、赤いズボンに白いシャツというとても元気な格好をしていた。栗色の髪を頭の後ろでポニーテールにしているのだけど、「よーい、ドン!」と自分で号令をかけて走り出したり、突然「ワンツー! ワンツー!」とダンスを踊り始めたり、あんまりはしゃいでいるので、それは傍の犬の尻尾と同じくらい激しく揺れている。「何だか、すごく似てる」と思って、僕はちょっと笑ってしまった。
だけどその内、女の子がマルチーズを、歩道からテムズ川への落下を防止する為に設けられた幅の狭い段差の上に抱え上げたので、僕は心配になった。
マルチーズは嬉しそうにちょこちょこ走っているけれど、危ないな、落っこったりしたらどうするんだ? テムズ川は穏やかに見えて流れがとても早いのに。
僕は「危ないよ」と声をかけて、止めようとした――が、まさにその瞬間、恐れていた事が起きた。
マルチーズが、つるりとそこから足を滑らせてしまったのだ。それだけならまだ平気だったのだが、あんまりビックリしたからだろう……女の子はマルチーズの首輪に付けていたリードの端を離してしまった。
「メ、メルちゃーーん!!」
女の子の悲鳴が響く中、マルチーズは川に落ち、ボチャンと小さな水飛沫をあげる。
「メルちゃーーん! お願い、誰かーーっ! 助けてーーっ!」
僕は歩道から身を乗り出して犬がどうなったかを確認する。
マルチーズは水面に浮かび、鳴きながら必死に水をかいている。けれども危惧していた通り川の流れは早く、見る間にその姿は遠くなって行く。
周りには犬を掬いあげてくれそうな船もない。
でも、僕の泳ぎといったら、昔からお話にならないくらい下手だから……
僕は頭をかきむしる。
どうしよう、誰かを呼ばなければ……でも誰を呼んだら良いんだ? それまで犬は大丈夫なのか?
困り果てたその時だった。
一人の女の人が音もなく僕のそばへやって来たかと思うと、手に持っていたオリーブ色のトランクを道に投げ捨て、そのまま一瞬も躊躇う事なくザンブと川へ飛び込んだ。
灰色のコートの裾がひらりと風にひるがえる。女の人は白い飛沫の中に飲み込まれたかと思うと、十秒と経たずにバチャバチャと水をかくマルチーズを捕まえて、再び水面に浮かび上がった。
ま、まるで魚みたいな人だな!
僕は安心したというより、舌を巻いた。
昔からテムズ川で溺死した人の数は計り知れない。何年か前にも、遊覧船が転覆し水に投げ出された乗客の殆どが溺れて命を落としたという痛ましい事故があった。なのにあの人は、水着に着替えてもいないのに、水の中を自由自在に力強く泳いでいる。しかも片腕を高く上げて、犬がちゃんと呼吸が出来るようにしているらしいから驚きだ。
女の人は瞬く間に歩道へと上がれる階段のある場所に泳ぎ着いた。女の子は歓声を上げ、そこへ走って行く。僕も後を追いかける。買ったばかりのタオルが役に立つのではないかと思ったからだ。
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