第10話 “永遠”に触れた少年と少女

 ヤマトは大きく深呼吸する。

――大丈夫、今度はちゃんと受け取ってもらえるはずだから。

 脳内で何度も渡し方のシミュレーションは行った。そう自分に言い聞かせて心拍数が早まる心臓の鼓動を落ち着かせる。

 震える手をドアの前へ。コン、コン、と二回ノックをすると中から小さく、か細い声でどうぞ、と聞こえた。彼女がここに居るという確証がさらなる緊張感を生んだが、ドアノブに手を掛け意を決し扉を開いた。

 そこには烏の濡れ羽色の髪の彼女が背を向けていた。顔だけを扉側に向けると血の気の引いた表情を一瞬見せる。

「……どうも」

 髪の色以上に影のある顔つきで歯切れ悪くぎこちない挨拶をしてからヒロミの視線は本棚に戻った。ちょうどヒロミは書類が保管されている棚の整理をしているようだった。

 彼女の雰囲気も相まってか、初めて訪れた時よりも茜色に包まれた生徒会室はおどろおどろしく異界の入り口のように感じる。

 その空気に気圧されヤマトも反射的に目をそらしてしまったが本来の目的を思い出す。地球の重力がいつもの何倍にもなったかのように足が重い。ここから居なくなりたい、別の誰かに変わって欲しい、と心の奥から叫び声が聞こえる。でも、これは自分で、自分にしかできないことなんだ。拳に力を入れ彼女の背に呼び掛ける。

「ヒロミさん」

 呼ばれてホラー映画の一幕のようにゆっくりと振り向きヤマトと向き合うも視線は床に向いている。瞳はまるで死人のようで、よく見ると目の下にうっすらとクマができていた。

「……なんでしょうか?」

「君に話したいことがあって……昨日は、ごめん」

 床から顔を上げ、そらされていた視線がようやく交差する。

「どうして、ヤマトくん謝るんですか……」

「言い過ぎたと思ってる。ヒロミさんの気持ちを考えないで無責任なことばかり言って……。僕は君に、自分を重ねていた。同じように傷を持ち、痛みを共有できる者同士だと思っていた。だから、あんな言葉を吐かれてカッとなった」

 ヒロミはじっと静止した状態でただヤマトの話に耳を傾けていた。

「でも、それは僕の押しつけだ。ヒロミさんのことを何も識らないのに、勝手なことばかり言って、問い詰めて、最低の……」

 いいえ、と遮るようにヒロミはヤマトの目を凝っと見詰めていた。

「……私もヤマトくんにひどい事を言ってしまいました。手を差し伸べてくれたあなたの親切心を踏みにじった」

 彼女は瞳を振るわせ言葉を紡ごうとしている。

「あなたの優しさが私には堪えられなかった。前へ進もうとしているあなたに羨んで、嫉妬した。私にできないことを、成し遂げようとしているあなたに……」

「それで一人で探そうとしてたんだね……」

「本当に情けないですよね、私が蒔いた種なのに、勝手にあなたを妬んで……最低な人間です。謝らなければいけないのは私の方なのに……私はむしろ責められる方です」

 寂しげに告げるヒロミの声音にヤマトは優しく微笑みかける。

「でも、僕はそんなヒロミさんに感謝してる。立ち直ろうとしたのはヒロミさんのお陰なんだよ」

「えっ……」

「僕もずっと心が死んだままだった。でも、文化祭の実行委員にならないかと誘いを受けてこれが変われるチャンスなんだと思った。だから引き受けたんだ」

「私が声を掛けたのが、切っ掛け……。でも、私はそんなヤマトくんを突き放してしまった」

 心の底から絞り出すように告げ、項垂れる彼女を目に、それは違うと言った。

「僕は、そんな君を許したいんだ。だからこれを受け取ってもらえないかな」

 そう言うと手に持っていた真っ白の箱をヒロミに差し出す。

「あの……これは?」

「開ければわかるよ」

 箱を机の上に置き、折り重なっている封を解いていく。

「これって……」

「今日の昼休みに作ったんだ。ミルクレープが好きだって言ってたから」

「私のために……わざわざ作ったんですか?」

「ヒロミさんを傷つけてしまったお詫びに。……受け取ってくれるかな?」

 ヤマトの脳裏にはあの時、幼馴染みに受け取って貰えなかった時の光景が広がっていた。その時に感じた孤独感や絶望感が蘇り、ヤマトの心臓を鷲づかみにされたような痛みが走る

 ヒロミは戦慄く身体をヤマトに向ける。その瞳からは涙がこぼれ、頬を伝い流れ落ちていた。

「……本当は私が謝らなければいけないのに……ありがとう、ヤマトくん」

 そして陰のある表情から一転して笑顔に変わった。

「本当に受け取ってもいいのですか?」

「ああ、もちろん」

 分解されたケーキの箱の中に一緒に入っていたフォークを手渡すとヒロミはそれを受け取る。

 透けるほど薄いクレープ生地と生クリームが何層にも重ねられフォークを入れると形が崩れることはなくヒロミは一口サイズに掬い頬張った。

 瞳をつぶったまま、幾度か咀嚼し飲み込む。

「どうかな?」

 ゆっくりとフォークを置くと、夕映えに照らされた彼女は澄んだ笛のような声音で囁いた。

「すごく甘くて……美味しい」

 それはヤマトが今まで見た中でもとびっきりの笑顔だった。


 ごちそうさまでした、と両の手を合わせ食べ終えたケーキの箱を丁寧に畳む。

「どうしてヤマトくんは私のためなんかにここまでしてくれたのですか?」

 ヒロミは真意を探ろうとヤマトの瞳を凝っと見詰める。振り向いた時に黒色の髪の束がさっと肩から流れるのを優雅な手つきでかき上げる。その妖艶な仕草がヤマトにドギマギしてしまい、身体の芯から徐々に熱を帯びているのを感じた。

 そんなことはお構いなしといった風に彼女の顔にはクエスチョンマークを浮かべていた。

「それは……自分のためだよ」

 え、と予想外の解だったのだろうか目を瞬かせる。

「ヒロミさんには前にも話したと思うけど、前に付き合っていた子に渡そうとして受け取ってくれなかった。それ以降、僕は自分の中にずっと引きこもってしまった。そんな時に実行員にならないかと話がきた。自分を変える機会だと思ったんだ」

 過去を懐かしむように事のあらましを順に追って説明する。

「そして今回も仲違いするようなことが起きて、今度こそは受け取ってもらいたかった。ヒロミさんとなあなあの関係のままにしてしまったら、また同じ事の繰り返しになってしまうから。今度こそ変えるんだって」

 そう告げてヤマトは微笑みかけた。

「過去の清算……だから、自分のエゴのためなんだよ。……悪いね、崇高な理由なんかじゃなかったんだよ。指輪も見つけてあげられなかった……」

「ううん、それでもヤマトくんは私を想って作ってくれた、その気持ちだけで十分なんです」

 何かに安堵したようにヒロミは儚げに笑い、これではフェアではありませんね、と呟いた。

「私があの指輪にこだわる理由。ヤマトくんには話してもいいかもしれませんね」

 彼女の横顔は過去の罪を告白する咎人のようだった。

「……小さい頃、周りの同級生の子が話すような恋愛話についていけない時期がありました。それまで、私は人に恋をするという感覚が理解できなかったんです。だから、このような話に私は縁遠い人間なのだと思っていました。でも、中学校に入学したときに、そうじゃないと知ったんです」

「好きな人ができた……」

「ええ、同じ学年の子です。私にとっての……初恋の人です。彼は優しく真面目で憧れの人でした。不慣れだったおしゃれも、彼の趣味の話とかも友だちに教えてもらいました」

「服を選んでくれたって子?」

「中学で出会ったのですが、その子は彼と小学校が同じだったらしくて。その甲斐あってか私は彼に告白し、結ばれた」

「じゃあ、あの指輪はその人から」

「彼はたまたま露店で売っていた安物だって言っていましたけど、私にとっては掛け替えのない宝物だったんです。でも……」

 視線を床に落とし黙り込んでしまった。奥歯を噛みしめるような表情に彼女の内側で葛藤があるのだろうと言葉を待つ。力を振り絞るように震える唇が少しずつ開いた。

「……ある日、別れてくれと言われました。理由も教えてくれず、突然のことに私は何もできませんでした。そして、見てしまったんです……彼と友だちが二人で仲睦まじく歩いているところを……」

 ヒロミのショックを受け茫然自失となっている姿が浮かび、胸が詰まる。

「私はダメだと分かっていても、問いたださずにはいられなかった。……今でも鮮明に覚えています……彼から言われた一言……」

 “もう終わったことなんだら、付きまとわないでくれ”と、彼女は自分を縛りつける呪いの言葉を吐いた。

「私という存在が不要になったから別れたのは分かります……でも、そうなら、せめて別れた時に理由を言って欲しかった……別の人を好きになったって。友だちも……あの二人にとって私はそれすら教えてくれない存在だったんじゃないかと思ったら、私のこの気持ちはいったい……」

 声が掠れ、溢れそうな涙を堪え俯く彼女の姿。ヤマトは例えようのない胸の痛みを感じた。

 永遠に答えを知る機会を失い、負の感情はループし続ける。どこかでこのループを断ち切らなければ本当の精神的自由は得られない。諦める、というのは彼女なりの答えだったのだろう。

「愚かだと思っています。いろいろ忘れようと努力もしました。勉強に打ち込んだり、委員長をしたり。……でも、彼のことを忘れることなんてできなかった。……あんなを指輪を今でも大事にしていたのですからね」

 見上げ、口元は笑っているけれども、瞳の色は失われ虚空を眺めているようだった。

「だから、あんなに探していたんだね」

「はい、でもそれも無に帰しましたが……」

「無……なんかじゃないと思うよ」

 揺らいでいた瞳が一つの点を示すように定まり、その先にあるヤマトの瞳を見ていた。

「形としてはなくなってしまったかもしれない。けど想いは、ヒロミさんの中にちゃんとある。僕はね、簡単に忘れてしまう方がよっぽど冷酷で感情のない人間だなって思う。そういう風に悩み、苦しんだってことはそれほどまでにその人のことを想っていたって証拠なんだ。その感情は決して無駄なんかじゃないよ」

 だから大丈夫だよ、と幼子を諭すように語りかける。

「ええ。ええ……!私もそう信じたい」

 顔を覆っていた靄はすでに消え去り、ヒロミは穏やかに微笑む。

「ああ、あとそれと……文化祭で作るスイーツだけど」

 ヤマトはどこか落ち着かない様子で悪事を隠す子供のような挙動をする。

「ヒロミさんがよければでいいんだけど……作るのはミルクレープでもいいかなって思ってる」

「えっ、いいのですか?」

「うん。前までは包丁も握るのも怖いって思ってたんだけど、さっき調理して気付いた。もう吹っ切れたみたいなんだ」

 何年かぶりに料理というものをした。最初は調理器具を握るのですら恐怖感を抱いていたが、ヒロミのことを想うと、その恐怖心は浄化され後悔という魂はあるべき場所に還ったように気持ちが落ち着き、ミルクレープを作ることができた。

 それでしたら、とヒロミは自分の鞄から青のフラットファイルを取り出す。

「気になっていたお店があって、まだ食べに行ったことがないのですが……見てください、このハロウィンの!」

 見せられたチラシには橙色のミルクレープが映っていた。

「これを……作るの?」

 上部には生クリームがトッピングされ円形のクッキーが乗っておりチョコペンで布を纏ったおばけが描かれている。……非常に手間がかかっていそうだった。

「ダメ、でしょうか……、ならこれは!」

 年相応の少女に見え、ようやく緊張が解け和やかな空気が戻ってきたのだとヤマトは安堵した。

 ヒロミがフラットファイルを持ち上げページをめくったときだろうか。カタンッ、と小さな金属音が聞こえた。その音を聞いた二人は顔を見合わせ、音の出所を探った。

 一瞬、床がキラリと光を放っていた。

「あっ……あった」

 ヒロミはそれを赤ん坊を抱えるかのように大切に拾い上げ胸に抱き寄せる。

「良かったね、ヒロミさん」

「……はい!」

 すべての感覚を忘れ、まるでその一瞬を切り取ったように、

 茜色の夕日が彼女を美しく映し出していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

慚愧の甘味料 虚ノ真 @marcotosin15

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ