第8話 “永遠”に閉じ込められた少年

 急ぎ教室を出た後、早鐘を打つ心臓を抑えながら靴を素早く履き替え校門を過ぎる。

 学校から離れるにつれ、ようやく身体に滾っていた熱が冷めていき、徐々に思考がはっきりとしてゆき、点と点とが繋がり線となり我に返る。

 深紅に染まった夕陽が大地に注がれ一つの人影を作る。ヒロミはそれを凝っと見詰めているとその真っ黒の影は鬱屈とした自分の心を映し出しているように感じた。

 そこで自分がいかに愚かな女なのか改めて認知した。

 彼が差し伸べてくれた厚意を無下にしただけでなく、あんな酷い言葉を吐いて……。

 彼の過去を訊いたとき、今までの人生の中でここまでシンパシーを感じたことはなかった。まるで鏡の自分を見ているような気持ちになった。

 だが、そのときに抱いたのは共感と……浅ましい嫉妬だった。

 初めはその二つ陰と陽が共存していることに戸惑った。どうして嫉妬しているのかわからなかった。だが、彼が指輪のことを案じていることを知ってから、その影の正体が朧気に見えてくる。

 その原因は彼にできて自分にはできないという憧れと羨む感情からだった。

――あんなに愛おしく、憎んだ想い人と私は愚かにも同じ選択をとってしまっていたんだ……。

 同じように大切な人が離れて行き途方に暮れていた。そこまでは一緒だ。

 だけれど、必死に抜け出そうと藻掻いて光を掴み取ろうとする彼と、全ての事実を渦の中に捨てて、何もなかったかのように忘れてしまおうとする自分。

 本当はちゃんと正々堂々向き合いたかった。けど、それには痛みを伴う。自分はそれを恐れたのだ。

 自分は弱虫だ。そんな自分に堪えられない。放っておいて欲しかった。

 だから、ヤマトを拒絶した。

――こんな女だからあの人は私から離れていったんだ……。そしてヤマトくんもこんな私からは離れていく。

 唯一残されていたのはあの指輪だけ。それだけが自分の理性を保っていた。

 だが、その指輪も今どこにあるのか分からない。

 自分はまた大切なものをなくしてしまったんだ、という事実にあの人に拒絶された日のように涙を流していた。


 はぁ……、とヤマトは今日で何回目になるのかわからないため息を吐き、自室の暗い天井を眺めながらまた大きな嘆息をつく。

 彼女が内包する感情の言葉を叩きつけられ、動揺し追いかけることもできなかった。

 ……いや、追いついたとして何の話をすればいいのか整理がついていなかったあの状況では話すだけ無駄だったかもしれない。

――言い過ぎた……かもしれない。

 “気持ち悪いじゃないですか”

 あんなことを吐かれ、言わずにはいられなかったが、彼女の不安定な心情を考慮してもっと言葉を選んでさえいれば結果は違ったかもしれない。

 意志の弱い自分に身をよじらせ、寝返りをうつ。

 だが、あの反応を見る限り彼女の過去が相当に深刻なものなのだろう。一体どんな過去を経験して今の彼女が生まれたのか。

 心苦しそうなヒロミの表情。

 ヤマトはヒロミのその時の顔を忘れることができなかった。その顔は諦めきれていない人間の顔だ。口では諦めたと言っていてもきっと未練があるに違いない。それはヤマトも経験済みのことだった。呪いのように心を蝕み続け、最後は生きる希望を抱けなくなる。

 詳細は聞いていないが恋人からのプレゼントを今でも大事にしているのならその溝はさらに深い物なのだろう。

――今、ヒロミさんはどんな想いでいるんだろう。

 時間は深夜を回っていた。すでに明日が今日になっていた。

 大切な人から貰ったプレゼントをなくしたときの気持ちは如何ほどなのだろうか。別れた時と同じような苦しみなのだろうか。

 ヤマトは“彼女”に別れを切り出された夜のことを思い出していた。

 その日、夢を見た。“彼女”が背を向けて自分の前を歩いている。ヤマトは必死に“彼女”に追いつこうとした、叫んで気づいてもらおうとした。でも、追いつけない、振り向いてくれない。“彼女”はヤマトを無視し続ける。

 こんなに孤独で悲しいことがあるのか。自分が哀れで仕方がなかった。そして目が覚めたとき、自分の頬に一筋の涙を流していた。

 大切な人との別れが胸が裂けそうになるほど辛いものだというのをその時に知った。

――そんな想いをヒロミさんにさせたくない。

 自暴自棄になって他者を拒んでいたのに心の奥では誰かの救いを求めていた。

 表の面と裏の面が矛盾しているのだ。救いを求めること自体おこがましいと理解もしていた。

 けれど、立場が変われば見方も変わった。そんなことは抜きにして彼女を励ましたいという感情が強くなる。なら、自分に何ができるだろうか。

 自分にできることは……。

 ベッドかから起き上がり一階に駆け下り部屋の明かりをつける。足は厨房の冷蔵庫の前で立ち止まった。

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