第7話 “永遠”に断絶された少年
「この教室にあったのは間違いないんだよね?」
「最後に見たのはここなんです。だからここ以外に考えられなくて。いつも鞄の中に入れてるんです……。内ポケットにしまっているはずなんですが……」
二人は這いつくばりながら床を凝視している。
「あの……付き合わなくてもいいんですよ、これは私だけの問題ですから」
立ち上がりスカートについた埃を払う。ヤマトは見間違いで拾ったクリップを近くにあったゴミ箱へと捨てる。
「でも、大切な指輪なんでしょ?」
ヤマトの言葉にヒロミは心苦しそうに、申し訳なさそうな表情をしている。
ヒロミから事情をようやく聞くことが出来た。
大事にしている指輪をなくしてしまった、と彼女は懺悔の言葉を吐いた。
真面目で優等生のイメージを持っていたヒロミがいつも持ってきているというのは意外だった。学校の校則で勉学に必要のないものは原則持ってきてはいけない。だが今はそれを議論している場合ではない。
「もう一度確認するけど、着替えてる時まではあったんだよね?」
「一度鞄から取り出したので間違いありません。だから、あるとすればこの近くのはずなんです。この席で着替えていたので、でも……」
床や机の中はすでに調べた。ヒロミが着替えていた席は教室のちょうど中央付近だ。窓の外や廊下に落ちているとは考えにくい。
「これだけ探してないとすれば、誰かが見つけて落とし物として届けているのかも」
「それはありませんでした。教室のカギを取りに行く時に職員室で先生に落とし物リストを見させて貰いました。けど、今日の落とし物の中に指輪はありませんでした」
「なら、指輪を拾って落とし物として届けず、そのまま自分の物にしている可能性もあるかも」
その発言にヒロミはとても痛ましい顔つきになる。軽率な物言いだったと後悔するも、彼女の気を楽にしてあげれる言葉が見つからなかった。
長い沈黙が横たわった。カフェの時に感じたものとは別種の気まずさが二人の間に漂う。教室内を彩る息も詰まる朱の色とタールを思わせる暗黒色が更に空気を重くさせる。
「もう……いいです。ヤマトくん、今日は帰りましょう」
この場にそぐわない笑みを見せる。……いや、よく見ると瞳は痛々しさを湛えている。無理をしているんだ。夜の帳が下りヒロミの顔を映していた茜色の夕日は少しずつ漆黒の影を伸ばしていく。
「……諦めるの?」
「そうではありません。これだけ探してないのなら、もしかしたら私の勘違いかもしれません。本当は家にあるのかも」
「でも、今日、この教室で手に取ったんだよね?」
「それ自体が虚構だったのかもしれません。時々鞄から取り出して眺めたりしていましたから」
その言葉に自信がまったく感じられない。本人も確証がないのだろう。
「それでも見つからなかったら?」
「ヤマトくんが心配することじゃありません。もう……出ますね」
魂の抜けた茶運び人形のようにヒロミがヤマトの隣を通り過ぎていく。やりきれない想いを抱きつつもヒロミに続くようにヤマトも教室を後にした。
翌日、ヤマトはヒロミに指輪の件を聞きに行った。かすかな希望を抱いて。
だが、会いに行った彼女は暗い表情で首を横に振ったのだ。
秋日の始まりは福音をもたらすことはなかった。
一日中、件の指輪のことが頭から離れない。授業中にヒロミを横目にすると、虚ろな目で心此処にあらずといった風に教科書を眺めている。昼食の時間も教室にも食堂にもいなかった。
そしてホームルームを終えた。今日一日の中で彼女は一度も笑顔を見せることはなかった。
その後、話し掛けようとしたら彼女は忽然と姿を消した。タクミに居場所を訊ねると、生徒会室が使えないから今日の会議が休みだ、ということを知らされた。ヒロミがそう言っていたらしい。初耳だった。
どうして直接自分に言ってくれないのだろう。……いや、答えは分かりきっている。
タクミを見送ると例の教室を窺う。カギは閉められているのを確認すると、時間を潰すために図書室へ。
1時間ほど経過したのを確認し再び教室に戻ると、やはり昨日と同じように教室は茜色と漆黒のコントラストの中に亡霊のような人影が息を殺し彷徨っていた。怖ろしく静かな教室で、喉をつかえながらも彼女の名を呼んだ。
「ヒロミさん」
「ヤマトくん……?」
声のする方に振り返り彼女も同じように名を囁く。まだ陽の暖かな秋だというのに極寒の寒地を思わせるような声音だった。
「どうして……ここに」
「僕も手伝う」
「そんな、迷惑を掛けるわけには……」
「それでも、僕も探したいんだ」
ヒロミの言葉を無視してヤマトは床に這いつくばり、小さな隙間に挟まってはいないかと目をこらす。
あの、とか細い声がヤマトの背後から聞こえ振り向く。
「指輪のことは……もういいんです。ヤマトくんが気にする必要はありません」
力なき声が響いた。そんな言葉を吐く彼女の瞳は潤んでいて声は震えていた。
「大切なものなんでしょ。そんな簡単に諦めてもいいの?」
「昨日もあれだけ探して見つからなかったんです。今日探して見つかるなんておかしな事ですよ」
ヒロミは場違いな笑みを浮かべながらヤマトに語りかける。
「そう思うなら、ヒロミさんはどうして探し続けているの?」
「それは……」
言葉は続かなかった。長い沈黙が彼女の答えを物語った。
「関係ないなんて言わないで欲しい。僕にも手伝わして欲しいんだ」
「どうしてそこまで……」
「あの指輪って大切な人……恋人から貰ったものじゃないの?」
「……ッ!」
ヒロミは分かり易く狼狽え、戸惑いが表情に出る。
「なんとなくだけど気付いたんだ。左手の薬指にしていたからね」
「……以前、お付き合いしていた方から貰いました」
ヒロミは傷心と諦観の境界線にある表情を浮かべながら告げた。
「なら、だったら尚更のことじゃないか!」
「もういいんです、それにもう忘れた方がいい頃合いだと思っていたんです」
「忘れた方がいいって……そんな、なんで」
「もう忘れどきなのかなって、いい機会だと思いますし」
ヒロミは露悪的に顔を顰める。
「ヤマトくん、私の好意の気持ちは、決して綺麗なものなんかじゃないんです。相手に拒絶され、ただ時間だけが流れて腐っていった汚らわしいものなんです。……指輪はその証」
左手の、指輪のはまっていない薬指を愛おしそうに撫で、
「それに、こんなにずっと同じ一人に人間に固執するなんて……」
そして哀れなピエロのように不敵に笑う。
「気持ち悪いじゃないですか」
彼女の言葉が、ヤマトの世界から音をなくした。
意味を一つずつ噛み砕き飲み込む。
腹の底から煮えたぎるものが逆流し、それは憤りを纏った言葉として吐き出された
「……それは僕のことも、君自身も卑下してるのか?」
その言葉は怒りと同時に悲しみも帯びていた。ヒロミは何かに堪えるよう表情をし、顔を伏せる。
「僕のことをどうこう言うのは構わない。でも、僕が信じれる人だと思えた君を……悪くは言って欲しくなかった!」
彼女は今どんな表情をしているのだろう。どんな理由や事情があろうと悲しませたくはない。だが、一度吐き出された言葉は止まることを知らない。
「僕もヒロミさんといっしょで忘れられない人がいる。前に進むことも大事だけど……忘れるのも何か違う。その人と一緒にいた想いは今の自分を形作る貴重な財産なんだ。それを忘れてしまっては、ずっと同じ事を繰り返すことになるんじゃないか」
あのカフェでの出来事が反芻される。過去を吐露し終えたときに感じた温かさの理由はお互いの心が寄り添えたからだ。曖昧で不明瞭だけれども、あの時確かに繋がることができたんだ。繋がれたからこそ相手を思いやることができる。だから彼女を助けたいと思ったんだ。
それを、分断されようとしている今になって気付くなんて、なんて皮肉なことなんだろう。
俯いていた顔を上げる……とても痛ましい表情でヤマトを睨めつける。
「……どちらにせよ、これ以上ヤマトくんに迷惑は掛けられません。もう……決めたことなんです……」
「僕は迷惑なんて思ってない!」
「知ったようなことを言わないでください……」
ヒロミは鞄を手に持ち出口へと向かった。ヒロミの後ろ姿は三途の川を渡る死者のように活力がない。
「……失礼します」
「ヒロミさん!」
「お願いです!放っておいてください……」
ピシャン、と戸を閉める音が教室に響きヤマトはその場に立ち尽くすことしかできなかった。
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