第4話 “永遠”という罪を告白する少年
「なら私はこれを一つとホットのミルクティをお願いします」
団体客が捌けたことにより想定よりも早く入店することできた。
案内された席は窓際で、外の景色を眺めることが出来た。山々は秋の色へと染まろうと深緑色から朱の紅葉へと変化しつつあった。秋の気配を感じられる悪くない場所だった。
しかし、ヤマトはそんな風景を楽しむ余裕は微塵もなかった。
――やっぱりあれ、指輪……だよな。
つい先ほど見かけてしまった指輪。気にはなったが本人にその指輪のことを問うことはできないままでいた。タクミの話では恋人がいるとは聞いてないし、ヒロミの性格からファッションで、しかもわざわざ左手の薬指につけるだろうか。
「あの、私は決めましたけど、ヤマトくんは?」
「えっ……」
考えを巡らしているとヒロミの促す声に遮られ我に返る。メモを片手にオーダーを待つ店員とヒロミがヤマトを見詰めていた。
「ああ……えっと……」
指輪のことで頭がいっぱいになっていたヤマトは何も決めていなかった。
「うーんっと……」
ヤマトはメニューに目を凝らす。二択までに絞れたがヤマトには気掛かりなことが一つあった。それがヤマトの選択を惑わせていた。
「どうするか……」
が、ヒロミと店員の視線に堪えきれなくなり、ヤマトは苦渋の決断をした。
「じゃあ、抹茶ティラミスタルトとアイスコーヒーで」
注文内容を復唱し店員は厨房に戻っていくのを確認するとヤマトは安堵の息を吐く。
「種類が多いと悩んじゃいますよね」
「いや、僕でも食べれそうなものがないか探していてね」
「あっ、そういえば甘いものが苦手なんでしたね」
「うん、そうだね……」
熟考が長かったのをヒロミは好意的に受け取ってくれているようだった。
甘いものが食べれないヤマトがここで食べれる選択肢は抹茶ティラミスタルトぐらいしかなかった。それはすぐに目についた。
それでも選ぶのを迷わせたのは一番安いショートケーキよりも500円ほど値段が高くヤマトの情けない守銭奴魂が選択を躊躇わせただけだった。
結局は食べれないものを注文しても、コンテストのためにはならないだろうと判断し抹茶のタルトを注文した。
財布の中身が少しばかり寂しくなるが……。
料理が来るまでしばし待つことになるだろう。先に出されていた水を一口含む。仄かに薫るレモンの味が思考をクリアにさせ考えがまとまる。
――いっそうのこと聞いてみるか?
白黒はっきりさせたいという焦燥感がヤマトの心を支配していた。聞きたい気持ちもあるけれど、踏み込んではいけない気がしていた。
だが、もう我慢できない。……そもそも何に我慢していたのか、ヒロミはただの知人だ。普通に聞けばいい。
耐えきれなくなったヤマトは脈打つ心臓を抑えつつ口を開いた。
「その左手の指輪も友だちが選んでくれたの?」
ヤマトの問いに一瞬、何を言っているのか、という表情をして自分の左手に目を向ける。
「……あっ!わっ!」
するとヒロミは突然素っ頓狂な声をあげた。ヤマトはぎょっとし、周りの客も何事かとこちらに視線を向ける。
「あの、何かございましたでしょうか?」
店員が慌てて布巾片手にこちらに駆け寄ってきた。
「いえ、何でもありません!ご迷惑をおかけしました……」
ヒロミは頭を下げ店員は不思議そうな表情のまま帰って行く。事が収まったとわかると他の客はまたおしゃべりを続けた。
「ヒロミさん……、大丈夫?」
項垂れ、恥ずかしそうに両手で顔を覆っている。
「何かあったの?」
無言で顔だけを横に振る。
「その指輪のこと?」
今度は顔を縦に振り、手を離すと顔だけでなく耳までも紅潮させていた。
「……普段ははめていないんですけど、今日はどうしてか無意識につけて来てしまったみたいで……あのお願いです。このことは誰にも言わないで下さい」
力ない声音に両手は怯えるように細かく震えている。
「う、うん、誰にも言わないよ」
その言葉を聞いてもなお、ヒロミは俯き申し訳なさそうにしている。
居心地の悪い空気が再度二人を包み込んだ。不憫に思い話題を変えるよう思考を高速回転させるも指輪のことはさすがに聞けない。何か彼女にとって触れられたくないものかもしれない。
「そういえば、ヒロミさんは何を頼んだの?」
今度こそは何も詰まらずスラスラと言うことができた。
「私が、頼んだものですか?」
やっとのことで顔を上げ、ヒロミの視線はヤマトの斜め右に向ける。
「ああ、アレです。ちょうど来ました」
とヤマトが後ろを振り向くと店員が料理をお盆にのせて二人の席の前で止まる。ヤマトの目の前に抹茶ティラミスタルトが置かれる。タルトのサクサクとした食感にほんのり渋みの抹茶テイストのこのスイーツならヤマトでも味わって食べることができる。そしてヒロミが選んだスイーツも置かれる。
それが目に入った途端、五感が一切機能しなくなり全身の感覚がそぎ落とされたかのような感覚に襲われた。
「……ミルクレープ」
「はい、私ミルクレープが大好物なんです」
ようやく微かに笑むことができたヒロミ。だが、向けられた本人は素直に笑うことはできなかった。
食べ終えヒロミはおしぼりで上品に口元を拭う。味に満足したのか、さっきよりも落ち着きを取り戻しているようだった。
ヤマトはアイスコーヒーを一口飲む。雑誌でこの店はケーキはもちろん、コーヒーに関しても抜かりないとのことらしい。豆はコスタリカから直輸入しているらしく、ドリッパーも店主がオーダーメイドで作っているほどのこだわりっぷりだ。酸味の中にも仄かに感じる甘みを出させる、というのを売りにしている。
が、今は苦味も甘味も何一つ感じない。これはいけない、とヤマトは鞄から小瓶のような形のプラスチックの容器を取り出し蓋を開ける。
「お薬ですか?」
「まあ、そんなところかな」
二粒口に含み水で流し込む。
「お味はどうでしたか?」
「味は……まあ、美味しかったよ」
これは嘘だ。本当は味はまったく感じることができなかった。
ヒロミの注文したミルクレープで過去の記憶が掘り起こされ“あの時”の光景が広がり“彼女”の存在を強く意識してしまった。それが引き金だったのだろう、ヤマトの精神は中学生の時に戻されていた。
それを忘れるためにこの依頼を引き受けたのに自分の心は未だに囚われたまま。結局、何も変われていないのだ。
「参考になりそうでしたか?」
「タルトベースという発想はいいかもしれない。生地の食感が重要になるな」
「ミルクレープの食感も佳かったですよ。クレープの層と層の間にチョコレートが挟まっててパリパリとした感覚が堪りません。この食感は今まで食べた中で一番かもしれません」
「へぇ、一番か」
「それだけではありません」
するとヒロミの目の色が変わった。
「チョコレートと生クリームの甘さはお互いの良さを尊重し合うような絶妙なバランスを保ち、口の中に入れたときにとろけ合い混ざり合った時のハーモニーは最高でした。おそらくクリームとチョコはミリ単位で厚みを調整して味と食感を両立しているのでしょうね」
まるで別人のようにヒロミは突如饒舌に語り出した。
「まさかこれほどとは……」
「……好きなんだ、ミルクレープ」
「はい、とても」
ヒロミは快活な笑みを見せる。この短い付き合いの中で一番の笑顔を見たのかもしれない
「僕なんかよりも詳しいんじゃないの?自分で作ったりとかは?」
「いいえ、私は完成したものに興味があるだけで、料理はちょっと……手先が不器用ですし、美味しそうなミルクレープをネットで調べるばかりになってしまうんですよ」
ヒロミはポシェットから何枚かのスイーツ店のチラシを取り出した。
「他にも行ってみたいお店があって」
よく見ると、どの店舗にもミルクレープが掲載されてる。
今の話を聞いて、だから前の会議の時に残念がっていたのかと理解することができた。
「あの……タルトケーキとミルクレープ、実際に作るとしてどちらが難しいでしょうか?」
ヒロミは神妙な表情でヤマトの瞳を見詰める。
「少し調べたんです。ミルクレープの作り方なんて知らなくて最初は複雑な工程があるのかなって思っていたんですが……調べていくうちに本当に作ることが難しいのかなって思ってしまって……どうなんでしょうか?」
ヒロミの言うとおりだった。生地を何層にも作らなければいけないが同じ作業を繰り返すだけでいいので、比較的作りやすい部類のスイーツと言えるだろう。
本当の理由はヤマトの方にあった。それを説明するのは内側にある恥部をさらけ出すことになる。それが後ろめたく、今までそれから目を背けて生きてきた。これからも誰にも見られずに過ごしていこうと思っていたが……。
――もう、限界なのかもしれない。
依頼を受けたあの日、転機が訪れた。自分はここで変われるかもしれないと思ってこの依頼を引き受けたのだ。このままでは永遠に自分は自分のままなのだ。
ずっと変わりたいと心の奥底でひっそりと願い続けていた。
そして何より……ヒロミを騙すような行いもしたくない。
悲しみと、諦めを混ぜ合わせたような表情でヤマトはぽつりと呟き始めた。
「……ごめん、ヒロミさんには嘘をついてた。本当は僕が作りたくってだけなんだよ。文化祭にだす料理としては良い選択かもしれない」
「なら、どうして?嫌いなのですか?」
「……ちょっと、昔話をしてもいいかな」
急な発言に戸惑いの表情を見せるも首肯する。小さく長く息を吐き気持ちを整え口を開いた。
「昔はよくお菓子作りをしていた。でも、今は……そうじゃない。僕にとって良い思い出ではないんだよ」
過去の記憶たぐり寄せる度、胸に痛みを感じながらもヤマトは言葉を紡いでいく。
「僕には中学校まで一緒だった幼なじみの女の子がいたんだ。その子とはよく遊んだし、せがまれてその子のために、その子が大好きだったミルクレープを作てあげて二人で食べたりした。たぶんその時からその子に特別な感情を抱いてたんだ。……たぶんあれが初恋だったと思う」
「ヤマトくんにそんな人がいたんですね……」
意外だったかな、と苦笑う。
「そして中学生になった頃に僕はその子に告白した。そして、彼女は僕を受け入れてくれた。ようやく両思いになれた。あの時は今までで最高の時間だったな」
その思い出は愛おしく暖かいものだった。懐かしそうに顔をほころばせる。しかし、笑みは消え次第に瞳の色も失せていく。
「でもね、ある日突然……突然フラれたんだ。友達のままの方がよかったって。何かの間違いだと思った。一時の気の迷いだって。だから彼女の大好きなミルクレープを作ったら仲直りできるんじゃないかって思った」
ヤマトは悲しげにミルクレープを載せていた、今は何もない皿を見詰める。
「彼女は……それを受け取ってくれなかった。僕のことはもう恋人だとは思えないと言われた。彼女はなんとなく試しで付き合ってみようって考えだったらしい。僕と違って、本当の意味で好きだったわけじゃない。好きだったかもしれないけど、愛してはいなかったんだ」
ヒロミは哀れみの瞳を向けたまま静かに話に耳を傾けている。
「そのショックが大きすぎたのか、その日を境に味がぼやけるようになって……特に甘味を感じなくなった。味覚障害ってやつだよ。何を食べても砂を食べてるようにしか感じなくなっていた」
「そんなことが……」
「薬を色々試して、高校に入ってからは少しずつ回復していった。地元よりも離れた場所に通うようになったのが良かったのかもしれない」
「完治したのですか?」
ヤマトは痛みを堪えるような表情で首を横に振る。
「昔のことを強く意識したときに、味がなくなる瞬間がある。だから、今でもサプリメントだけは続けている」
「だからさっき服用してたんですね」
「うん。けど……これは気休めかもしれない。身体の方じゃなくて心の方に原因があるからね」
長い吐息をつき、後悔を滲ませたような顔をする。
「……この関係がずっと続いて、いつか結婚して子供も作って一緒の時間を過ごして、死ぬもんだと信じていた。でも、そんな風に思っていたのは僕だけだったんだ」
永遠を信じた少年は哀れな道化師のよう自虐的に笑う。他者から見ればたかが一度の恋愛で、と思われるかもしれない。
「どうしようもなく馬鹿な人間なんだよ。だけれど……今でもその子のことを忘れることができていない。好きで好きで堪らないんだ……」
ヤマトの微かに滲む瞳を乱暴に手で擦る。
「……ごめんねヒロミさん、こんなつまらない話をしてしまって。笑ってくれてもいいんだよ」
ヒロミは躊躇いなく笑いません、と言った。
「それに、つまらなくもありません。ヤマトくんが感じている辛さ……私にもわかるような気がするんです」
「……ヒロミさん?」
「相手はもう、こちらのことなんて気にもしていない。新しい人生を歩んで普通に生活することができている。でも……こっちは、忘れたくても忘れられない。まるで呪いにかけられたかのように」
ヒロミの声はしだいに熱がこもっていく。
「勝手すぎますよ、その人。ヤマトくんの気持ちも考えずに、そんなに愛してくれているのに……」
まっすぐにヤマトの目を捉え真剣に向き合おうとしている。ヤマトはその目に見覚えがあった。
――大切なものを失くした人の目だ……。
今、自分の本当の気持ちがどこにあるのかわからない人間の目だ。大切な人と過ごした愛にあふれた思い出が牙をむいて容赦なく襲いかかってくる。いったいどれだけの涙を流したのだろう。そうして心が壊れて抜け殻のようになってしまう。そう感じ取れる目だった。
「優しいね、ヒロミさんは」
「い、いえ!……残酷な話はどこにでもあるものなんですね……」
「ヒロミさんにもそんな経験が?」
「えっ、それは……」
言い淀み視線はここではない別のどこかへと向けられる。
「あっ、言いたくないのなら言わなくていい。無理に話す必要はないよ」
ヤマトは両の手を慌ててワナワナと振る。古傷に塩を塗ることなど強要したくない。それはヤマト本人がよくわかっていることだ。
「そう……ですね、すみません」
「謝らないで。むしろ僕はヒロミさんに感謝してる」
「感謝……ですか?」
「誰にもこの話をしたことなんてないから、聞いてもらえて少し心が落ち着いたような気がするんだ。……あっ、タクミはちょっとだけ知ってるか。でも、こうしてちゃんと聞いてもらえたのは初めてかも」
暗く沈んでいたヤマトの表情も雨上がりの空に少しずつ光が差し込むかのように笑顔へと変わる。いつぶりか分からないが心に温かな陽がともされたような気がした。
「そんな、私は何もしてませんよ」
ヒロミの顔もいつもよりも穏やかに見える。
「それでも、ありがとう」
ヤマトはアイスコーヒーの入ったコップを手に取り啜る。口の中に微かにだが酸味が広がっているような気がした。
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