時間旅行
青豆
第1話
1
「失ったものを数え始めたら、自分が老いたことを自覚しなさい」
かつてウィンストン・S・パーカーという精神科医はそのように言った。多分ルードウィヒ・グッドマンの言葉を彼なりにアレンジしたのだろう。だが、彼がグッドマン博士を意識したかどうかはあまり関係ない。大事なのはその意味だ。
彼はその六十年あまりの人生で、この言葉だけを後の世の中に残した。逆に言えば、それ以外のものは奇麗さっぱり、全くと言っていい程残らなかった。この言葉は、精神科医としてのパーカーの、唯一の功績なのだ。
もっともそれは、彼が本業においては詐欺師も同然であったが故の評価である。少なくとも、彼が生前行った精神分析学の真似事よりかは後世に残す価値がある・・・・・・それだけの話だ。したがって、この言葉に本当に価値などあるのかどうかは、僕にもよくわからない。
彼はこの言葉を、晩年になって出版した著書の中に書いた。それは彼の持論を説明する為に使われた些細な表現に過ぎなかったが、結果的には本題以上の価値を得たことになる。・・・・・・本題があまりに無価値だったからかもしれない。
彼はそれを書いた時点で、既に自分がフロイトやユングにはなれないことを悟っていたのだろう、と僕は思う。つまり、彼はそれまでの人生を「失ったもの」に設定し、その行為を「老い」と表現したわけだ。
その証拠に、彼はこの本が出版されてまもなく肺炎を患って死んだ。一九七五年の出来事だった。彼の人生は第一次世界大戦と共に始まり、ヴェトナム戦争と共に終わったのである。
*
過去のあれこれを思い出し、さらにそれによって感傷的な気分になると、僕は必ずパーカーのこの言葉を唱える。それが地下鉄の車内であっても、図書館の中であっても、人の沢山入ったサウナの中であっても。そうしなければ僕は失ったものを数えだすだろうし、そのたびに老い続けるだろう。
そう考えると、老いは過去と現在を繋ぐ精神のもつれがスターター・ピストルとなって始まるものなのかもしれない。そういった精神の兆候を察したスターターが、慈悲もなく発砲し、訳も分かっていない人間を走らせるというわけだ。
パーカーもそうだったのだろう。彼は自らの人生の意義を見失ってしまい、スターターに引き金を引かせたのだ。あ、パーカーさん、もう出発の時間ですねえ・・・・・・、はい、スタート! きっとそんな感じだ。
*
僕は今年で二十一歳になる。老いを意識するには、まだ幾分か早すぎるだろう。
しかし、老いが精神から始まるのであれば、肉体的な年齢はものさしにならないのかもしれない。
・・・・・・少なくとも、そう危惧することが全くの無意味ということはないはずだ。
*
過去について考える。
「お前は客観的な過去を語れるのか?」
これは僕の数少ない友人の言葉だが、自らの過去について語る時、この言葉を思い浮かべる。そしてそのたびに、自らの過去を語ることに躊躇いを覚えるのだが、自分を戒めるのにはいい言葉だ。
過去とはおおむね主観によって語られるものだ、というのが友人の主張だった。だってその過去のフィルムはお前がカメラマンなんだろう? そう言われた時、僕は虚を突かれたような気がした。多くの人間がそうであるように、僕は過去を客観視することができるものと信じていたからだ。
「だってさ、そのフィルムを見るときの自分はカメラマンじゃなく、観客だろ?」
僕は友人に向かってそう主張した。
「バカ、カメラマンは自分の作品を観客として見れないもんなんだよ」
「そうかなあ」
「そうさ」と彼は言った。
今の回想だって僕の主観にすぎない。現在の僕ならば、それがわかる。
*
過去を語るという行為を嫌う人間がいる。それは仕方のない事だ。過去は主観的なもので、その多くは自慢話なのだ。仮に自虐的に語ったとしても、それは現在の自分を煌びやかに見せるための演出に過ぎない。過去は常に自らの為に存在しているのだ。
団塊世代がよく語る、「苦労とそれによって得た素晴らしい何か(彼らの大抵はそれを具体的な言葉では表現できない)」の話を聞くと、背中がむずがゆくなり、その顔面を殴りたくなることがある。団塊世代とキレる若者。良い故事成語になりそうだ。意味「どっちもどっち」・・・・・・そんな感じだ。
もちろん、聴いている側を圧倒するような過去を語る人物自体は存在する。だが、それを見つけるのはかなり難しい。スクラッチで一万円を当てる方が簡単だと思う。正確なことは言えないにせよ。
「確率的に言えば」ということだが、僕はおそらく圧倒的な過去を語ることはできないだろう。僕はデイヴィッド・コパフィールドじゃなければ、ホールデン・コールフィールドでもなく、ただの大学生だ。
しかし、残念ながら過去を語らなければならない状況は必ず訪れる。新しい友人が出来た時、恋人が出来た時、家族が出来た時。そして逮捕されて取り調べを受ける時・・・・・・これは冗談だ。僕は時々冗談を言う。くだらない冗談から皮肉っぽい涼しい冗談まで、幅広く言う。そしてそのたびに周りからの評価は下がり、孤独になる。
話が逸れた。過去の話だ。
過去は僕たちの肉体である。過去がなければ今の僕は存在しえない。・・・・・・逆に言えば、タンパク質と水分と過去、それがあれば人間は完成する。
ここから言えるのは、つまりこういうことだ。「過去を語ることは自分を構成するものを説明することである」。原材料名と同じかもしれない。乳化剤、失恋の思い出、両親の死、友人の喪失、ビタミンC・・・・・・エト・セトラ。
だけどもちろん、過去は原材料名のように背中に書かれていない。過去は記憶の中にしかないのだ。さらに付け加えると、記憶とは常に曖昧なもので、その全てを明確に眺めるのは不可能に近い。そういうものだ。
時々僕の目がCANNONの一眼レフで、脳みそがフロッピィだったらいいと思うことがある。もしそうなら、客観的な過去を語ることだって出来るかもしれない。
*
これから語るのは僕の過去のことである。しかも、とてもパーソナルな過去だ。マスターベーションと貶されたとしても、それに反論することはできないだろう。
もちろん、誰かに自らの過去を聞かせる手前、なるべく興味を引くように語る努力はするつもりだ。しかし、その努力がどう結果に作用するのかはわからない。結局、過去を語るとはそういうものだからだ。
もし努力の末、一連の作業が全てただの自己紹介になってしまったのなら・・・・・・それはもう仕方のない事だ。その時は化石として、この文章を残そうと思う。そして、然るべき時に発掘し、磨き上げ、そこに存在するモノから何かを創造しよう。言葉ならそれも可能だ。
ただ、これを読んでくれるあなたは、そんなに気張る必要はない。僕の過去の話はピクサー映画の前に流れる短編アニメーションみたいなものなのだと思ってほしい。――少し自信過剰かもしれない。僕の過去には、しゃべる玩具も動物も出てこない。
しかし、そこから何かを見出すことくらいは出来るはずだ。逆にそれが出来なければ、僕が過去を語る意味はなくなってしまう。
・・・・・・つまり、言いたいのはこういうことだ。
「大事なのは、その後さ」
2
僕が生まれたのは一九九九年の九月十日である。しかし、僕は自分の生年月日に関して、ほとんど話すべきことを持っていない。九が三つ並んでいるが、西暦はパチンコではない。
しかし、一九九九年全体を見渡せば色々なことがあった。スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス が公開され、ノストラダムスの予言の盛り上がりがピークに達し、NATOがユーゴスラヴィアを爆撃した。
一九九九年。・・・・・・多くの命が失われ、僕が生まれた。
3
友人について話す。そうしなければこの話は一向に前に(後ろに?)進まない。
高校時代、僕は一人しか友人をつくらなかった。つまり、「友達の名前を挙げよ」と言われた時に指を折ることができる人間を、ということだ。
ここでは彼の名前をあえて書かず、ただ『友人』と呼ぶことにする。結局のところ、名前に意味なんてないし、意味がない限り書きたくもない。そういうものだ。
それと同じく、見た目についても書かない。彼がどんなに奇怪な顔をしていたところで、話の筋は変わらないのだ。
だから、顔については適当に想像してほしい。今あなたの頭に咄嗟に浮かんだ顔・・・・・・それが『友人』だ。
友人と出会ったのは入学式の次の日だった。僕はその時一人で本を読んでいたのだが、彼はそんな僕の元にやってきて、周りを見渡すように首を回した。第一印象はハトみたいだった。
「お前はあまりこの連中が好きじゃないだろう?」
彼は周りを眺めるのに満足すると、だしぬけにそう言った。顔には人を小ばかにするような色がにじみ出ている。冷笑的、という言葉が似あう男だった。
「なんでそう思う?」
僕は訊き返した。すると彼は呆れるような顔をした。
「目さ」
「目?」僕は訊き返した。
彼は仕方がないから教えてやる、とでも言いたげな顔をした。小さなため息をガス抜きするように行った。
「そう、目だ。目を見れば何を考えているのか、いないのか。何を見ているのか、いないのか、色々なことが分かる」
「まさか」
「ちゃんと目を見ればできるさ。ただやろうとしてないだけだ」そう言い、現実を蔑むように眉をひそめた。「なあ、今の人間は何も見ていない、そう思わないか?」
僕は少し考えた。
「ん・・・・・・見たくないものがあまりに多すぎるんだな、きっと」
彼は満足げに頷いた。そして周りを見渡し、一、二、三・・・・・・と数を唱え始めた。「うん、確かにそうだ・・・・・・」と小さく言い、僕の方に微笑みを向けた。
「どうやらお前の言う通りみたいだ。確かに今の時代、見るに堪えないものが多すぎる」
「何がそれにあたる?」僕は訊いた。
「スマートフォン、女の筆箱、教養のない人間同士の交流」
「辛らつだな」
「そうさせる方が悪い」
その通りだった。
彼はまた周囲を見渡し始めた。何かを探すように、首を左右に動かしている。しかしこの教室に探し物はないようだった。彼は諦めて僕の方へ向き直った。
「なあ」彼は真剣な顔で言った。「俺もここの連中は嫌いなんだ」
「あまり嬉しい共通点じゃないな」
「まったくだ」彼が笑った。「でも、共通の敵は大事さ。それはつまり・・・・・・コンクリートみたいなもんで――」
「友情を固める」僕は彼の言葉を補った。
「わかってるじゃないか」
彼は感心するように頷いた。
「目を見ればわかるさ」
「ふん」と彼は鼻で笑った。不思議と嫌な感じはしない笑い方だった。
「こんなジョークだって言える」
「お前がきちんと物を見るようになった証拠だよ」彼は言った。「それだって、目を見ればわかる」
「なるほどね」
僕はそう言って笑った。その時点で、僕は彼のことが少し好きになっていた。
そのようにして彼は僕の友人となった。
4
友人は皮肉屋だった。彼は拳銃のことを『簡易裁判キット』と言った。時には裁判官自身だ、と言うことさえあった。
彼はその度にこう説明した。
「つまりこうさ。リボルバーの半分に銃弾を込める。カラカラとシリンダーを回す。被疑者のこめかみに銃口を突きつけ、トリガーを引く。パーン。脳天が吹き飛ぶ。そして言うんだ。『ああ、どうやらこいつは有罪だったみたいだ』ってね」
5
本について話そう。
僕は本をよく読む。読むスピードが遅いため生涯で読んだ本はそう多くないが、毎日読んでいる。数文字しか読まない日もあるが、一冊の本を丸々読む日もある。本を読むことは自分の状態を知ることでもあるのだ。
僕は所謂古典的名作を読むのが好きだ。ドストエフスキー、ディケンズ、スタンダール、バルザック、ユゴー・・・・・そんな作家のものだ。プルーストとジョイスは読んだことが無い。この先の人生で幽閉せざるを得なくなった時にでも読もうかと思う。『失われた時を求めて』と『ユリシーズ』は、そういう時のために存在する小説だ。
しかし、僕はその時――確か高校二年生の頃だった――珍しく流行りの小説を読んでいた。可愛らしい女の子が不敵な笑みを浮かべる表紙が特徴的で、タイトルも煽情的なものだった。そしてなにより、意味もなく人がたくさん死ぬ。スティーブン・キングだってこんなに登場人物は殺さないだろう。
「あ、それ今私も丁度読んでいるんだよ」
その子は僕にそう話しかけた。顔を見ると、どうやら別のクラスの子らしかった。話したことも無ければ、今まで同じ授業だったこともない子だ。
「・・・・・・へえ、偶然」
僕は少し言葉に詰まらせながらも、そう答えた。
「どこまで読んだ?」
彼女はそう言いながら、目を輝かせていた。
「ヒロインが死ぬところ」
「え、死ぬの?」
彼女が少し大げさに驚いた。
「嘘さ」
「なあんだ」彼女は安堵の声を漏らした。「私はね、主人公が死ぬところまで読んだよ」
「え?」
「嘘だよ」
彼女はおかしくて堪らない、といった様子だった。
「なんだ」
僕は期待に応えるために、少し大げさに安心する振りをした。
「でもさ、本当に珍しいよね。同じ本を同じ時期に読んでいるって」
そうだろうか、と僕は思った。しかし、口にはしない。女の子が言うことは訂正しない方がいい。これは僕が人生の中で得た数少ない教訓である。
だから僕は、「だね」と言ってその場をやり過ごした。
満足そうにその子は笑った。
「まさに・・・・・・そう、運命ってやつよね」
*
後からわかったことだが、その子は僕のクラスメイトの野球部の男(それも僕が一番煩わしく思っていた人間)と付き合っていた。僕はそれを知った時、人生で初めて裏切りというものを知った気がした。別に彼女を信じていた、というわけではないにせよ。
だがこの話で伝えたいのは、「裏切りの初体験」などという僕の古傷の存在ではない。そんな、自らの傷をまざまざと見せつける趣味は持ち合わせていないつもりだ。
彼女は僕たちが同じ本を読んでいたことを、『運命』と表現した。・・・・・・つまり、こういうことだ。
「僕たちは、ただの偶然を運命という素敵な言葉に置き換えることが出来る。まるでデリヘルだ。言葉を自由に選び、もし気に入らなければチェンジだ」
6
本を読むからだと思うが、僕はよく自分で小説を書く。そして、その度に僕は自分の言葉が見つけられず、暗闇の中を当てもなくグルグルと歩いているような気分になるのだが、とにかく書いてはいる。書かない事には何も始まらないし、終わりもしないのだ。
つまるところ、小説を書くことは、自意識というブラックボックスに光を照らし、中に蠢くグロテスクな言葉を見つけることである。小説が上手く書けない場合、単に照らす光が弱いか、あるいは内面に言葉が存在しないか・・・・・・そのどちらかだ。
もし僕の内側に全く言葉が存在しないとしたら? 時々そう考える。そして、その度に恐ろしくなり寝つきが悪くなる。翌朝、シャツを絞らなくてはならないほどの汗をかいている。
嫌な夢のようなものかもしれない。
しかし、なによりも恐ろしいのは、ほとんどの場合が後者であるという点だ。もしすべての人間が自分の言葉を持っていたら、理解なんてものはこの世から消えてしまうに違いない。そして、そのような世界にあっては、皆が自分の意見を自分の言葉で表現し、その他の全てを否定するだろう。
7
夏休み中、一つの長い小説を完成させた。それは恋愛小説だったが、中々にくだらない代物だった。書いていて何度も投げ出したくなったくらいである。書き終えることが出来たのは一つの奇跡であると言っていい。
僕はその小説で、とある一つのルールを課した。それは、「反吐が出そうな恋愛模様の描写」である。
僕がそのようにこだわったのは、そういった特徴を持たせると、いざ上手く書けなかった時に言い訳が出来るからだった。いや、これはですね、こういうこだわりを持って書いたんですから、面白くなくたって仕方ないんですよ。ね? だからね、僕のせいじゃないわけです。全く。ええ・・・・・・。といった風に。
その結果、僕の書いたものは、ジェイン・オースティンの小説を低俗という鍋で何千時間も煮込んだようなものになった。ドロドロのチョコレートのような内容とべちゃべちゃのケーキのような文章。甘ったるいくせに後に残るものが無い・・・・・・そんな感じだ。
そんな小説に何の価値があるのか、と問われたら、さあね、と言う他ない。そんなのは僕が訊きたいくらいなのだ。
*
僕は友人の家に行き、その小説を見せた。思えば、僕が彼の家に行くのは、それが初めてのことだった。
彼の部屋に入り、僕は適当に床に座った。彼はベッドの端に腰かけ、原稿を読んだ。
僕はその間、目だけを動かして彼の部屋を眺めた。
ポスターの類は全く貼らず、壁は見事な白。灰色っぽい絨毯は埃のような色合いだった。置かれているものが少なく、やけに部屋がだだっ広く感じる。閑散としている、という表現が的確かもしれない。
あまりにも飾り気がない。空気が淀んでいて、死んだ部屋、という印象を受ける。天国でも地獄でもなく、ただ空間が死んでいて、そこに無が風のように通り抜ける・・・・・・。
「ハーレクイン小説の悪意に満ちた模倣って感じだな」
彼は原稿を読み終えると、そう言った。
「意図するところさ」
「それにしてもこれは・・・・・・」彼はそう言い、原稿をペラペラとめくった。「これじゃロマンスを追う小説を馬鹿にしていると取られても仕方がないぜ」
僕は彼が机に置いた原稿をカバンにしまった。その際に紙の角の方が少し折れた。
「それで文壇の変革に寄与できるならいいよ」
「変わらないさ」彼はぴしゃりと言った。「文学を変えるのは時代であって人間じゃない」
空間が静まり返った。彼の部屋は二階だったから、下から彼の母親が見ているテレビの音が聞こえる。硬い沈黙だった。
「お前は小説家になりたいのか?」
その沈黙を彼が破った。ぱりん、という音が聞こえたような気がした。
「なれたらいいな、とは思う」
「なればいいさ」あっけらかんと彼は言った。
思わず僕は友人のことを見つめた。彼は机の隅を指でなぞっていた。指には薄く埃が覆っていた。表情は相変わらず涼しい。
「そう簡単じゃない」
彼は指をこすり合わせた。埃が雪のように絨毯の上に降り注ぐ。絨毯が灰色だったため、どこに落ちたのかは、たちまちわからなくなった。
「確かにね。簡単じゃないだろうね」
「なら・・・・・・」
「書き続けることさ」彼は遮った。「そうしたらいつかはなれるだろ?」
「何を書けばいいのか、わからないんだよな」
友人は人差し指を自分のこめかみに当てて、ぐりぐりと押した。それが何かを考える際の彼の癖だった。
「なあ、これは俺の意見だけどさ。文学の基本的なスタンスは何かの否定なんだ」
「うん」
「お前は学校の連中が嫌い、そうだな?」
「うん」
「連中のことを比喩的に罵倒してみろよ」
教室でいつも見る彼らの顔を思い浮かべながら考えた。そして言った。
「まるで深海魚だ。深海は海の一部なのに、海面で何が起こっているのかを知らない」
友人はわざとらしく指を鳴らした。ぱちん、という音が力強く響き、弱弱しく空気に消えた。
「それが文学さ」
8
それから僕は小説を書く際、友人の言うように、それが「何かの否定」であることを意識した。ある時は政権を寓話的に否定し、ある時は人気の俳優を否定した。自殺を否定したこともあったし、逆に生きることを否定したこともあった。おかげで僕は、短い間に色々なものが嫌いになった。
もちろん、否定だけをしたわけじゃない。否定だけで何十枚もの原稿を埋めたら、僕は偏見でしか物を書けない人間になってしまうだろう。そうはなりたくない。
*
そんなわけで、僕は小説に「嘘」という要素を加えた。・・・・・・嘘、素晴らしい要素だ。誰もが知っている一般的なもので、尚且つ誰もがそれを嫌いながら、同時に愛してさえいる。・・・・・・この世で最も一般的な矛盾である。
*
嘘について話そう。・・・・・・ほんの少しだ。
嘘はとても不思議なものである。何故か嘘が話のウェイトを多く占めるほど、その姿を真実らしいものとするのだ。
例えば、「僕は一日に五〇冊の本を読む」と言ったとする。こんなの嘘に決まっている。
しかし、そこでこの話にいくつかの嘘を上塗りしてみる。
「僕は基本的に速読名人である」・・・・・・嘘だ。「僕は漫画をよく読む」・・・・・・嘘だ、あまり読まない。「僕は生存に必要な行為の時間以外、常に読書をしている」・・・・・・そんなわけがない。全て嘘。あまりに嘘だ。
しかし、これらの嘘を繋ぎ合わせると、不思議なことに話が真実らしく聞こえる。全体としては嘘が増えたのにも関わらず、だ。
この馬鹿げた話は、日常でも確認することが出来る。例えば選挙。
「嘘まみれの現実による素晴らしい公約に、清き一票を」・・・・・・そんな感じだ。
*
こうして僕が小説を書くためのスローガンが決まった。
「嘘をつき、何かを否定する」
悪意という言葉は、こういうもののことを指す。
9
その日は彼が僕の部屋に訪れていた。方向性を定めて書いた小説を読んでもらうために僕が招いたのだ。
とても暑い日だった。僕の部屋は午後の西日がひどいのだ。
僕は彼が原稿に目を通している間、冷蔵庫からコーラを出してコップに注いだ。そして居間から扇風機を持ってきた。
窓を開けた。少し離れた国道から車が大地を揺らす音が聞こえる。おそらく背中に牧草か何かを積んだトラックだろう。
扇風機を窓に向け、風を外へ送る。そうすると、部屋の暑い空気が逃げていくのだ。・・・・・・本当かどうかは知らないが、僕の家族はいつもそうしていた。
「嘘、ね」
友人はデスクを人差し指と薬指の爪で交互に叩いていた。これも、彼が何かを考えている時の癖だ。
「悪くないテーマだろう?」
「良くもないが」
「それを言われると痛いな」
友人は笑い、コップに入ったコーラを飲み干した。
「なに、悪くはないが良くもない。立派なことじゃないか。世間はそういうもので出来上がっているんだ、丁度いいテーマさ」
「悲しくなるね」
僕は少しため息をついた。
「お前が悲しんだところで変わらないさ、これも時代の潮流なんだ」
僕の様子を見てか、彼の口調には励ますような色があった。しかし、彼の励ましはいつも何だかずれていた。今のもそうだ。
「努力すれば変わると思うんだけどな」
「努力?」友人は噴き出して言った。「お前、今時『努力』なんて死語だよ。いずれ広辞苑からも消えるよ」
「昔の偉い人間は色々なことを変えた。ある時は王様を捕まえギロチンにかけ、ある時はテニスコートに集まったりしながら」
顔が赤くなるのを感じながらも、そう反論した。
すると、彼は若く血気盛んな若者を見守る賢人のような目を向けた。
「それは未完成の世界の話さ」彼は言った。「だけど、今はどうだ? くだらないし唾を吐きつけたくなるけど、残念ながら一応のこと完成はしちまってる」
僕は言い返す言葉を思いつけなかった。全く、彼の言うとおりだったからだ。
*
現状維持。・・・・・・素晴らしい言葉だ。停滞的で心地よく響き、何よりも人間を内側から壊す。そんな魔法のコトバ。まるで・・・・・・
「麻薬、さ」友人は吐き捨てるように言った。部屋の真ん中のちゃぶ台を少し拳骨で殴った。「今の人間はそんな快楽を前にして、当たり前みたくラリっているんだ・・・・・・おい、聞いてるか?」
「ああ」
「お前もやられたのか?」
彼は人差し指を鉤のように曲げた。
「まさか」僕は言った。「僕は変わりたいと思っているよ。ただ現実が追い付かないだけさ」
「追い付かない?」
僕は頷いた。そして頭の中で言葉を選んだ。
「ああ、いつもそうさ。理想が先に光って、その後現実が遅れてパンと鳴る。花火みたいなものだよ。・・・・・・違うのは、そのほとんどは湿気っていて、音がいつまで経っても鳴らない事の方がはるかに多いってことかな」
「小説家らしい表現じゃないか。誰かの引用か?」
「さあね」
僕は肩をすくめた。
「その言葉、お前の小説で書くといいよ」
彼は原稿を扇いだ。弱弱しく宙になびいている。
「どんな小説になる?」
「理想と現実のギャップに悩む画家の話、かな」
「くだらないよ」
「ああ。でも、愛すべきくだらなさだ」
「一体誰がそんなものを読む?」
「馬鹿どもさ」
*
そんなわけでその小説を書き、とある新人賞に送った。
結果は一次選考落ち。・・・・・・テーマが月並みすぎたのかもしれない。
10
夏休みが終わり学校が始まった。僕にとっては退屈な日々が幕を開けたわけだ。
クラスメイトはすべからく日焼けをしていて、そこに充実の影を見出したりしていた。日焼けはどうやら大事な要素らしい。くだらなさは相変わらずなのだ。
「俺はさ、夏休み明けに誰か死んでないかなって期待していたんだ」
友人は僕のもとに来てそう言った。
「そこまであいつらのこと嫌いか?」
「別にそういうわけでもないんだけどな。なんとなく、そう思ってたんだ」
彼は涼しい顔をしていた。
「なんとなく、死ぬことを願っていたのか?」
「変か?」
「あまりまともじゃないよ」
「そうは思わないけどな」
彼は僕の机の上にあったシャープペンシルを指で弄っていた。一貫して、なんでもない、という態度を装っていた。
「人が死ぬって結構大変なことだぜ」
彼は肩をすくめた。信じていないらしい。
「どうせ、みんなすぐにわすれちまう」
そんなわけがない、と僕は言おうとした。しかし、言いきれなかった。もしかしたら・・・・・・と半分思ってしまったのだ。
結局僕の口から出たのは中途半端な言葉だった。
「でも、何かしら大変なことはあるだろう」
「例えば?」彼は訊いた。
「感傷的な人間が増える」
「他には?」
「机に置く花の水やり係が追加されるだろうな」
「他には?」
頭の中でクラスメイトが死ぬのを想像してみたが、もうそれ以上は何も思い付けなかった。
「もう思い浮かばないな」
「ほらな」
友人は勝ち誇るように笑った。
11
友人の願いはその翌年の同じ頃に叶った。同じクラスの男子生徒が、夏休み中に死んだのだ。
その生徒はお盆に墓参りに行き、帰り道の途中で熊に遭遇し殺された。爪で腹を掻っ捌かれ、ピンク色の内臓が覗いた死体が道端にごろりと転がっていたのだ。それ以上の話は聞かなかったから、本当はもっと無残だったのかもしれない。
友人の言うように、クラスメイトの死はそこまで大変なものにはならなかった。その悲劇的な死の話は誇張を重ね、やがて怪談話に変わったが、それ以上は何もなかった。一人の人間の死は、あまりにもあっさりと人の意識から零れ落ちていった。
今となっては、その怪談話は覚えていても、彼の名前は思い出せない人間がほとんどだろう。彼は消え、死に様だけが現実に残ったわけだ。
僕は彼を悼む意味を込め、一つの小説を書いた。彼を主人公にした、伝記のようなものだ。生まれてからの事実のみを描写をし、最後に死ぬ。
僕の想像する彼の人生は酷く退屈だったが、ラストシーンは劇的に仕上げた。幼い女の子が熊に襲われているところを命に代えて救う。・・・・・・そんな風に脚色を加えた。
*
友人がその小説にエピグラフを書いた。こんな文章だ。
「親愛なる君と、桃色の内臓に捧げる」
彼は彼なりに悲しんでいたのだ。多分。きっと。
12
僕には昔から信じてきた一つの哲学がある。つまり、回答など存在しないという意味だ。
世の中には絶対に交わらない物がある。
例えば、過去と未来、空と海、あるいは男女の気持ち・・・・・・そんなあれこれだ。それらが交わらないのは、それが自然の摂理であり、バランスを保つために必要なことだからである。その内どれか一つでも交わるようなことがあれば、世界は縦に裂け始めたトイレットペーパーのように、完全なる破滅に突き進んでいくに違いない。
もし過去と未来が交わったら、僕たちはどんな時間の中を生きればいいのかわからなくなるし、空と海が交われば、飛行機が要らなくなりボーイング社は潰れてしまう。もし男女の気持ちが真に交わるようになれば、世界は愛で溢れその意義を失うだろう。
・・・・・・そうやって相互の無理解で、世界はバランスを保っているのかもしれない。
*
その時僕の隣の席に座っていた女の子は、奇麗な髪を耳にかけ、熱心に文庫本を読んでいた。目線が文章に括り付けられてるようにさえ見える。
彼女は肌がよく焼けた子だった。机に置いてあるスマートフォンにはバンカーリングが付けられている。快活な女の子、という肩書が似合う女の子だ。
よく見ると、彼女が読んでいたのはボードレールの『惡の華』だった。僕は内臓の位置が全部あべこべになりそうなくらい驚いた。時間の在り方がひっくり返ったとしてもありえない。あまりに自然の摂理に反している。空が割れてそこから恐怖の魔王でも現れるのかもしれない。
・・・・・・もはやノストラダムスの予言は冗談のネタである。
僕は好奇心をくすぐられ、彼女に話しかけた。
「惡の華、面白い?」
彼女はぱらぱらとページをめくり続けた。先程のように熱心に読んでいる様子ではなかったが、目線は本に固定し続けていた。
「・・・・・・さあ」
「わからないの?」
「そう、よくわからない」
「じゃあ、どうしてボードレールなんて?」
「ボードレールを読むのは変なの?」
僕は汗などの嫌な臭いがする教室を見渡した。皆がスマートフォンでゲームをしたり、くだらない話に花を咲かせている。本を読んでいる人間はいなかった。
「ボードレールを読む高校生はいないみたいだ」
「ここにいるわよ」
彼女は本から目を離さずに言った。
「それくらいわかるさ」
「なら変なことなんてないでしょ」
僕は言い返す言葉が思いつけなかった。
「でも、少し・・・・・・いや、かなり意外だったな」
「何故?」
「そういうタイプには見えなかったぜ」
「心変わりしたの。何もかもね」
彼女はニスを何度も塗られ落書きだらけになった机に本を置いた。そして頬杖を突き、そのままページをめくった。
「ドストエフスキーを読んだ?」
「何?」
「夏休み中にドストエフスキーでも読んだのかと思ったんだ」
「何を言ってるのかさっぱり」
彼女は詩集を閉じて僕の方を見た。
「ドストエフスキーを読んで文学に目覚めたのならなんとなくわかる。それくらい素晴らしい作家だ」
「ふうん」大して興味もなさそうに彼女は言った。「でも残念。わたしはそんなの読んでないよ」
「以前の君に対する評価が勘違いだったのかな?」
「さあ?」
「わからない?」
「あなたがわたしをどう思っていたのか、なんてわからないわよ」
「それはそうだろうな」僕は同意した。
「ならどうして聞くの?」
「他に聞く相手がいないからさ」
「悲しい人」
彼女は小さく息をするように、そう言った。その通りだった。
13
翌日自分の席で本を読んでいると、ボードレールの子がやってくるのがわかった。がやがやとした音で満ちた教室の中、何故か彼女の歩く音ははっきりと聞こえた。かつん、かつん、と、まるで処刑人を待つ死刑囚みたいな気分だった。
彼女は僕の目の前に立ち、「ねえ」と言った。固く、冷たい声だ。
「なに?」
「これ」彼女はそう言って、一冊の文庫本を差し出した。「あなたにあげる」
「なにこれ?」
「『惡の華』よ」
「もう読み終わったの?」
「ええ、実はずっと前から読み終わっていたの」
「いつから?」
「二年前」
彼女は人差し指と中指を立てた。ピース。幸せのサイン。いつかの僕のようだ。
「本当に?」
「嘘よ」
「嘘?」
「あなたは嘘をついたことがないの?」
「人並みにつくさ」
「たくさんつくってことね」
彼女はくすりと笑った。
「まあね」
そう言って僕は、今さっきまで読んでいた本からブックカバーを外し、それを彼女に渡した。『クリスマス・カロル』。「これ。交換にしよう」
「もう読み終わったの?」
「いや」僕は言った。僕はその本を百ページもまだ読んでいなかった。「でも、いいんだ」
「つまらなかったの?」
「つまらない本なんて勧めないさ」
「面白い?」
「今のところは」
「今のところはね」
彼女は真似をするように言った。
その時、午後の昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。耳障りな音が教室に響き、やがて皆が各々の席に戻って行った。彼女は何も言わず自分の席に戻っていった。
貰ったボードレールの『惡の華』を適当に開いてみると、そこにはこんな詩が書かれていた。
「われは、美し、人間よ、あたかも石の夢の如し。」
人の夢の如し、と書かれていたら破り捨てていたところだ。
人の夢なんて大抵は浅ましさと傲慢さで出来た醜いものなのだ。それを美しいと言うのは、道頓堀の水を綺麗だというようなものである。
しかし、石の夢なら仕方がない。
石は人のように嘘をついたりしない。
14
変化というものについて時々考える。そして、そのたびに僕は嫌な汗をかき、水をコップ一杯飲み干す。変化について考えるのは、とても苦しいことである。内臓を自分で取り出すようなものなのだ。
変化というものについて考えるとき、僕たちは必ず過去についてもまた、考えることになる。過去の自分を引っ張り出し、壁の前に立たせ、その背丈に印をつける。その前に自分が立つ。そして。現在と過去の背丈の違いで、『変化』を知ることとなるのだ。
自分の過去を引っ張り出すとき、僕は自分の影がすり減っているように感じることがある。過去の自分は日の光を浴びることを拒み、僕はそれを無理やり引っ張る・・・・・・そんな乱暴をしている内に僕の一部が欠けていく。そんな具合に。
でも、変化について考えずに生きることなど出来ない。変化とは歴史で、歴史とはその人自身なのだ。
僕たちが年を重ねるごとに自分が分からなく感じるのは、それが原因なんじゃないか、と思うことがある。冗談じゃなく、切実に。
もしかしたら、それは一つの人間の機能なのかもしれない、そんな風に感じる。
・・・・・・自身に対して鈍感でいる限り、少なくとも縮こまった自分の姿に気づかずに済むのだ。
15
高校の傍にある定食屋で食事を取った。休みの日で、何か飯でも行こうということになったのだ。珍しいと言えば珍しいかもしれない。僕たちは普段、あまり外出を好まなかった。
奥の方のテーブル席に座った。少し暗く、じめじめとしている位置にあたるから、その辺は常にがらんどうなのだ。穴場と言ってもいい。
席に着くと、友人はまずメニューを眺めた。彼が頼むものはいつも同じだから、メニューを眺める必要なんてないのだが、何故か決まって目を通すのだ。
彼がメニューを眺めるのに満足するまで、本を読んでいた。『惡の華』。ちょうどその本を貰って三か月程経っていた頃だった。
彼がメニューを読み終えたのを確認すると、僕は本を閉じ、水を飲んだ。
「どうしてそんなに何回も読むんだ?」
友人がそう訪ねた。僕が常にその本を持ち歩いていることに疑問を覚えたのかもしれない。僕はコップの結露で濡れた指先をぬぐい、テーブルに置かれた本を手に取った。
「在りし日に思いをはせているんだよ」
僕はあくまで澄ました顔を保った。
「なんだそりゃ」
「あえて陳腐な言葉を使うなら、『思い出の品』ってところさ」
彼はふん、と鼻で笑った。僕は本をテーブルに置いた。
「お前がそんなおセンチなことするとはね」
「これを読むと色々なことを思い出すんだ」
僕は言い訳するように言った。そして、一体何のためにそんな自己弁護を図っているのかわからなくなった。
「くだらないね」
「そういうことってないか?」
「ないね」きっぱり言った。「断じてないよ」
「何故?」
「物を間に挟まなきゃ思い出せないことなんて、くだらないよ。わかるかい?」彼は涼しい顔でそう話し始めた。しかし、それはやがて苦悶の表情に変わっていった。「写真もそうだ。あんなのくだらない。なあ、学校の馬鹿どもはスマートフォンのフォルダに何千枚と写真を入れているだろう? そして、それが大切な思い出の数だと信じて疑わないんだぜ。・・・・・・馬鹿さ。脳がスポンジみたくなってるんだ。狂牛病みたくね。現代にはびこる病気の一つだね」
彼は一通り言い終えると、ふうと息をついた。
「きっと、日々が染みついたお守りみたいなもんなんだ」
「思い出がってことかい?」
「そう」
彼は小さく二往復、首を振った。振り子時計のようだ。
「思い出は物に宿ったりしないよ」
「そうかな?」
「そうさ。だから、物を中々捨てられないやつを見るとムカムカするんだ、俺は」
「なるほどね」
僕は頷いて言った。
「よくわからないか?」
「まあね」
彼は羨むような目で僕のことを見た。
「わからないならそれでいいさ。わざわざ理解することでもない」
「何故?」
「虚しくなるだけだからさ」
彼がそう言った時、注文したあんかけ焼きそばが二つ届いた。
*
確かに彼女のことを思い出すために本を持ち続けるというのは、おセンチなことかもしれない。今なら、それもわかる。
僕は時折海を眺める。海を見て、遠くに浮かぶ船を見て、水平線に吸い込まれていく太陽を見る。しかし、それだけだ。僕はそれ以上を見ない。海の向こう側に過去を見てノスタルジーに染まったりはしない。
本にも海にも、過去は宿らない。今ならそれがわかる。
物質と虚しさ、あるのはそれだけだ。
16
僕はいまでもボードレールの『惡の華』を持っている。これまでで五十回は精読したし、三百回は断片的に読んだ。これからだって読むだろう。
その本はもう表紙がぼろぼろだし、ページには中年に差し掛かった人間の肌に浮かぶシミのようなものが滲んでいる。貰った時は新品同様だったのだが、今ではもう死にかけの老人みたいだ。古本屋に持っていったら跳ね返されるに違いない。
その本のページをめくると、古びた時間の匂いがする。過ぎ去った日々、彼女の名残り、そんな匂いだ。
もちろんそれは経年劣化に伴う匂いであるということくらいは、理解している。僕はそこまで日常を詩的に捉えてはいない。
ただ、なんとなくそんな感じがする。・・・・・・それだけの話だ。
*
高校を卒業してから少し経ったとき、偶然出会った同級生から、彼女が結婚をしたという話を聞いた。ゴールデンウイークに帰省した時、彼女の姿を見たということだった。左の薬指には指輪があって、幸せそうな顔をしていたよ、と彼は言った。
「それ、本当に結婚していたのか?」
僕はそう聞いた。
「え、だって指輪付けてたんだぜ」
「ん・・・・・・、でもさ、彼女がただ指輪を付けているだけかもしれないだろ?」
「そうかな」
「そうさ」
「だとしても、ありゃ結婚した女の顔だぜ。幸せな未来を予見した気にでもなっているあれだよ」
彼は自分の言葉に満足するみたく、何度か頷いた。
*
そんなわけで、彼女が自宅で首を吊ったという話を聞いた時、僕は飲んでいたビールを噴き出すほど驚いた。驚いた後、少しだけ悲しくなった。
その日、僕は大量の酒を飲んだ。そして生まれて初めて泥酔した。
17
その日バルコニーに吹き付けていた風は涼しかった。日はもう暮れていた。太陽は昼間の光を一切残さず、地平線の底に埋もれていた。
風は遠い海から運ばれたものだった。それは山を通り抜け、人々の喧噪の間を通り抜け、バルコニーを通り抜けていく。全てが一瞬のうちに去って行き、あとには夜の匂いだけが残る。
夏も終わりだった。そのうち秋がやってきて、気が付いたら雪がちらつくだろう。季節が廻り、人が廻り、ただ少し配役を変えてこの街の群像劇は続くのだ。僕たちに許されるのは、たまにアドリブを飛ばすことだけ・・・・・・そんなことを考えた。考えた後、そんなことを気にしても無駄だと気が付いた。
僕は友人の部屋に訪れていた。少し話さないか、と彼が誘ったのだ。そういう風に彼が僕を誘うことは稀にあった。
「最近ね、色々なことを思い出すよ」
友人はそう切り出した。
「色々なこと?」
「ああ、色々なことさ。昔贔屓して読んでいたコロコロコミックの漫画のことを思い出すこともあるし、死んだ人のことを思い出すこともある・・・・・・ありきたりな表現だけど、走馬灯みたいにね」
彼が何を伝えたいのかは分からなく、なにも言えなかった。
「アイルトン・セナが死んだ時、俺たちはいくつだった?」
彼は突然言った。
「生まれてもいないよ」
そう答えると、彼は指で自分のこめかみを押した。
「力道山は?」
「五〇年以上前だぜ。大昔さ」
「そうか」
「ああ」
彼はもう一度、こめかみを押して目をつむった。
「・・・・・・なあ、俺たちは若い。だよな?」
「そうらしいね」
「らしい?」
「若さなんて他人に言われて、あぁ、おれは若いのか、って気づくもんさ」
「なるほどな」彼は言った。「確かにその通りだ」
カーテンを閉めた。電気を点けよう、彼はそう言ってリモコンのボタンを押した。ピッという音が鳴り、部屋が明るくなる。
その間僕たちは黙っていた。
「高校を卒業したら、どこか知らない街に行こうと思うよ」
彼はぽつりとそう言った。
「知らない街?」
「そう、知らない街だ」
「ふうん」
「何故だかわかるかい?」
「いや」
「手紙を待つためだよ」
彼はフフッと笑い、両手の人差し指で長方形を作った。手紙のジェスチャーなのだろう。でもそれでは、お弁当箱だった。
「手紙?」僕は訊いた。
「そう、手紙だ。手紙を待つ。・・・・・・俺からは誰にも手紙なんて出さないけどね」
「ちょっと待てよ。ならどうして手紙が届く?」
「宛て先を間違えた手紙が届くかもしれないだろ? 住所か、郵便番号かを勘違いしてさ、なんかの奇跡みたく。そうしたら、俺は返事を出すんだよ。『あなたの手紙は間違ってぼくのところに届いていたようです。これを機にお友達になりませんか。あなたはまだ知らぬ誰かより・・・・・・』ってね。そういうのって馬鹿げていると思うかい?」
「思わないさ」僕は言った。「ただ、そんなこと起こるかな」
「起こらなくたっていいんだ」
「うん?」
「何かを待っている間は、過去にとらわれずに済む」
「うん」
僕は頷いた。彼はその様子を見つめていた。静かに目線を天井に持っていった。そこにはしなびた男性器のようなシミがあった。彼はそれをじっと目で捉えていた。
「俺が望むのはね、こういうことさ」彼はそう話し始めた。「時々ね、郵便受けに何かが差し込まれているんだよ。それを見つけると俺はさ、踊り出したくなるくらい喜ぶんだ。だけどね、それはただチラシなんだ。紙屑さ。当然俺はがっかりする。ぬか喜びさせやがって、と叫ぶ。でも、そうこうしている内に落ち着いてくるんだな。そしてまた待つ。ずっとずっと待つんだ」
僕はそれを黙って聞いていた。彼が饒舌になるタイミングはいつも掴めない。いつも突然始まって、突然終わり、後にはぽっかりと空白が生まれるのだ。
「僕の手紙じゃダメなんだろう?」
「ああ。来るとわかっている手紙じゃダメなんだ」
彼はそう言った後、悪いと思うよ、と付け加えた。
「住むなら、できれば霊園の近くがいいね」
「霊園?」
「ああ」
「何故?」
「死んだときに便利だろ?」
僕は頭を何度か振り、彼に向き直った。
「高校生のセリフじゃないな」
彼はせせら笑った。ふふん、という小さな笑い声が、ちょうどバルコニーに吹く風のように、涼しげな余韻を残して過ぎ去っていった。
「高校生が死を意識するのは変か?」
「そりゃね」僕は言った。
その後彼は息継ぎするみたく黙ったが、やがてまた口を開いた。
「俺はきっとね、長生きしないよ」
「そう?」
「わかるのさ・・・・・・なんとなくだけどね」
僕は何かを言おうとした。しかし、言葉は喉でつかえ、そのまま飲み込んでしまった。不完全な言葉の切れ端のようなものは、腹の中でほどけた。言葉は結局元には戻らなかった。
「何故かは聞かないのかい?」
彼は笑いながら言った。先程の冷笑的なものではなく、本当の笑みだ。
「聞いていいのか?」
「答えられんがね」
「なら聞いても意味がないじゃないか?」
彼は静かに頷いた、何も言わなかった
それからまた、しばらく沈黙に身をゆだねた。三分程経ったとき、突然彼は言った。
「なあ、前に、物に過去は宿らないって言ったよな?」
「ああ」
「それは今でも変わらない」
僕は彼の顔を見た。だけどそこには何も書かれていない。
「何が言いたい?」
「ん・・・・・・」
彼は目をつむり、人差し指でこまかみを押した。
「過去は記憶の中にだけある。・・・・・・そうだよな?」
「ああ」
「でも、記憶は曖昧だ」
「うん?」
彼はそこで立ち上がって、カーテンを開けた。家の窓から漏れる光が遠くにぽつぽつと見えた。彼の目は明滅するチンケな夜景に向いている。
「なあ、自分の記憶の中にある過去が本物であると、自信を持って言えるかい?」
「さあね」
僕は道化を演じるように、肩をすくめて見せた。
「実を言うと。俺はよくわからないんだ。前はよくわかっていたような気がするのにね・・・・・・。いつもそうさ。深く理解していたことほど、忘れていくんだ」
「よくわかるよ」
僕はそう言った。それは本当の気持ちだった。
「時々、時間が逆戻りになればいいのに・・・・・・そう思うんだ。そうしたら過去を知れるからな」彼はそう言って、暗闇に手を伸ばし、何かを掴むふりをした。「そして宇宙が出来上がる前までさかのぼり・・・・・・無に帰るんだ。みんなね」
「壮大な話だ」
「馬鹿げているかい?」
僕は頷きかけたが、そうはしなかった。もし頷けば、彼の信頼を一生失ってしまうような気がしたのだ。
「いいや・・・・・・そうなればいいと僕も思うさ」
僕はそう言って笑いかけた。
「ありがとう」
友人も笑みを浮かべた。そしてそのまま時計の方を見た。
「もうこんな時間だ」
彼は時計を指さした。短針は七を指していた。
「もう帰るよ」
「ん・・・・・・ああ」
「なんだい?」
「いや。・・・・・・送らなくてもいいか?」
「子供じゃあるまいし」
「たしかにそうだな」
「うん」
「玄関までは送るよ」
「ありがとう」僕は言った。
その時にはもう、彼の顔から笑みは消えていた。ざらついた暗闇だけが、窓の外に残った。
19
友人が死んだのは、高校を卒業した年の冬のことだった。
彼は宣言通り、卒業後に本州の「知らない街」に移り、その街の霊園の近くに住んだ。彼はそこで夏を過ごし、秋を見送り、冬にピストルを口に咥えて引き金を引いた。結局そこの霊園には納められなかったが、それ以外は全て計画したように死んでいった。
彼は壁にもたれてピストルを撃ったので、部屋の白い壁には血が広がり、その真ん中には頭を貫通した銃弾がめり込んでいた。冬だと言うのに窓が開いていて、冷たい風が暖かい血を冷ますように吹き付けていた。
使われたのはスミス&ウェッソンのリボルバーだった。彼がどこでそんなものを手に入れたのかは、警察にも突き止められなかった。彼の交友関係に黒い存在は見当たらなかったのである。
僕はその話を、最近仲良くなった交換留学生であるニックに話した。彼はピストルの出所について、こんなジョークを言った。
「きっと、拾ったのさ。デトロイトでね。あそこはポップコーンの代わりに銃弾が落ちていて、それをハトが啄んでいるような街だもの」
それにひとしきり笑った後、案外そんな感じなのかもしれないと思った。
彼は遺書を残さなかった。だから、彼が何故命を絶ったのかはわからない。両親も、そんな兆候はなかったと言った。
しかし、遺書の代わりと言うべきか、彼のベッドには一冊の本が置かれていた。それが、ウィンストン・S・パーカーの『死がわたしを捉える時』である。
それが遺書に当たるのかもしれない、と警察は本に目を通した。だが結局、具体的な何かは浮かんでこなかった。タイトルからして彼の心に翳りが差していたのは明らかだったが、それが何によってもたらされたのかまでは読み取れなかったのだ。
彼がどのページを直前に読んでいたのかはわからなかった。本は開いたまま放置されていたが、窓が開いていたため、風でページがめくれていたのだ。彼は本の存在以外の全てを抱えて死んだのだ。
おそらくは・・・・・・と話すことは、もちろんできる。しかし、結局それはただの憶測にすぎない。そして、そんな憶測にはなんの価値もない。
20
この小説(あえてそう表現させてほしい)を書き始める二週間前、彼の墓を訪れた。言い方を変えるならば、これを書こうと思ったのはその時だった。
僕は始まりの地の話で、この小説にピリオドを打とうと思う。
彼の墓は街の墓場の上らへんにあった。振り返ると、ちょっとした景色を見られるが、所詮は田舎の街並みである。森があり、街があり、森がある・・・・・・たったのそれだけだ。その景色で情動を追い求めることはできまい。
墓自体は首を伸ばした扇風機程度の大きさのものだった。つつましやかではあるが、それなりに幸せそうにも見える・・・・・・という絶妙な大きさとも言える。
でも、そんなのはどうだっていい事なのかもしれない。墓がどれだけ大きかろうが、それはただの見せかけに過ぎないのだ。
「風が吹いた時に飛ばされなきゃいいのさ。墓なんてものはね」
彼ならそんな風に言うかもしれない。なんとなく、そんな気がする。
お盆シーズンを過ぎていたから、周りに人はいなかった。こんなに静かな場所で一人になるのは久しぶりだった。都会にはあまりに多くの音が存在し、静かな場所なんてどこにもないのだ。
そこでしばらくゆっくりしてもよかったのだが、あえてそうはしなかった。それこそ、「失ったものを数える」ことに他ならない気がしたのだ。
そこは色々な過去がいっぺんに集まった場所だった。正確に言うならば、「過去の集積」である記憶を呼び起こす、鍵のような場所だった。友人、ボードレールの子、熊に殺されたクラスメイト・・・・・・僕が一度は手にして、今はもう手元にないものだ。
失ったのではない。少しお預けになっただけだ。僕はそう考えることにしている。そうすれば、少なくとも気持ちの上では、色々なものを失わずに済む。
くだらない。そんなものは精神論だ。と言われてしまえば、何も言い返すことはできない。実際その通りなのだ。
墓場を下りきって振り返ると、もうどれが彼の墓なのかはわからなかった。ぽつんぽつん、と小さな墓が連なっていて、どれも同じに見えた。数十メートル離れただけなのに、随分遠ざかったように感じられた。
いや、実際遠ざかっていたのかもしれない。何故なら、僕の心はもうそこには無かったのだから。
僕はいつまでも過去に生きるわけにはいかないことを知っていた。そして、それを知っている限り死者はどんどん遠のいていく。そういうものなのだ。
*
帰りの特急列車の中で小説を書き始めようとした。しかしダメだった。何も言葉が出てこないのだ。お手上げだ、と言うように僕は目をつむった。
すると、色々な音が鮮やかに聞こえるように感じた。閉じたまぶたの先では何が行われているのだろう、という可能性の音。鮮やか、とはそういう意味だ。
列車が空を切る音が微かに聞こえた。多分それは日々を貫く音だった。過去は紛れもなく記憶にあり、それは日々の名残として空気に溶けている。列車はそれを突き破って、僕を都会の街に運んでいるのだ。
・・・・・・でも、そう気が付いたのは僕がこの小説を書き始めてからだった。大事なことは後になって気が付く。いつものことだ。
僕が座っていたのは知らない人との相席だった。夏に故郷へ帰省していた人が一斉に元の場所に戻ろうと、列車の中はごった返していた。
隣の席の人は、僕と同じくらいの若い女性だった。彼女はつまらなそうにシートの背にある冊子を読んでいた。
「昔は車内販売があったんだけど、今はないみたいですね」
僕は何故かそう話しかけていた。突然の行動に自分自身でも驚いた。
「ええ、そうみたいですね」
「昔ならビールで乾杯していたところですが」
「ビール?」
「ビールが売っていたんです。あとチップスターも」
「・・・・・・へえ。とても残念」
彼女は最初驚いていたが、その後は気が無さそうに返事をするだけだった。きっと昔のことなど興味が無いのだろう。それはそうだよな、と僕は頷いた。
「あの」と、しばらくしてから彼女が言った。「車内販売があったのは一体いつまでだったんでしょう?」
その時の僕がどれほど驚いたかどうかなんて言うまでもないことだ。
「いつまでだったのかな・・・・・・」
僕は腕を組んで、思いを巡らすように目を閉じた。
「気が付いたらなかった?」
「そんな感じです。・・・・・・でも、僕が子供の頃はありました。うんと昔ですが」
「うんと昔?」
「はい」僕は答えた。「もう手が届かないくらいの、遠い昔です」
窓の外では景色が相変わらず流れていた。街はもう遠くにあって、実際より何倍もちっぽけに見えた。いくら手を伸ばしたところで、もう届きはしないだろう。
もし手が届いて何かを掴んだ気になっても、それは幻影に過ぎない。それほどまでに、僕は街から遠ざかってしまっていた。
列車と空気の衝突音はもう聞こえなかった。
時間旅行 青豆 @Aomame1Q84
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