第38話

「くそっ!」

 切られた箇所を押さえながら即座に引き返し、脱兎のごとく逃げる。

(なぜ、なぜ?)

 疑問が頭を占め、身体はひたすら本能で逃げる。

「エンキ! 逃げるぞ!」

 気がつけば眼下の二人へヤエは撤退を宣言した。

「ああ!?」「分かりました!」

 弾切れでもナイフで応戦していたエンキは若干怒りを滲ませていたが、オダマキが彼女の腕を引いて車両が突っ込んで穴の空いた住宅から屋根へと上がってきた。

「よし。早くしろ。奴が追いつく前に!」

「奴って誰だ!?」

「変異型だ!」

 ヤエの返答と同時に三人の走っていた場所へ突然影が入る。

 振り返ると、視界の上部に瓦礫が目に入った。

「上だ!伏せろ!」

 ヤエの言葉に即座にしゃがみ込むと、頭上を掠めながら瓦礫は去っていき、少し先で大きな音と土埃を立てて三人の元に衝撃を走らせる。

「変異型って、どのタイプだ?」

「『成体』だ! それも捕食型スパイダーじゃ!」

「チッ、よりによって今かよ」

 オダマキは二人の会話の内容に頭が追いつかず、首を傾げていると突然エンキアンサスに頭を掴まれ、瓦に叩きつけられた。

「ぶっ──何するんですか!」

「また飛んできたんだ。次は無い。しっかり見て避けろ」

 反論しようとしたオダマキの目には顔の上半分が瓦礫に抉られ、口だけが動いて喋っている状態のエンキが映り、絶句する。

 しばらくし、再生しきったエンキアンサスは奥でニタニタと笑っているように見える緑色の蜘蛛のように八本もの手が生えた人間の異形を忌々しそうに睨んだ。

「エンキ、先の容疑を全て不問とする。それより、あれは持ってるか」

「没収されたから持ってねえよ」

 エンキアンサスの回答を聞いたヤエは無言で胸ポケットから注射器を一本取り出して、彼女に投げ渡す。

「ありがとよ。──使うのか? リスク高いぞ」

「持ったまま死んで遺品弄られて嗤われる方が死にきれんわ」

 ヤエの言葉に彼女は無言の同意をし、拳と拳を合わせて化け物と対峙する。

「ならちょっくら戦うか」

「いいや。エンキ、お主はそれを使って逃げろ」

「──は?」

 ヤエの思いもやらぬ言葉に彼女は聞き返した。

「おい、逃げるために使うなんて聞いたことねえぞ」

「前例が無いなら今作れば良い。今回は逃げ戦じゃよ。少なくとも本部に彼女を連れて行かなくてはならぬ。総司令の命令じゃぞ」

「けどよ、お前一人でアレはどうしようもできねえんじゃねえのか?」

 エンキアンサスの指摘にヤエは歯を見せて不敵に笑った。

「誰が一人と言った?」

 その言葉を合図にしたかのように、音も立たずに四人の少女が彼女の周りに姿を現した。

「遅かったの。手こずったか」

「お許しを。市街戦はともかく、下水路に逃げられたりと追いつくのに苦労してしまいました……」

「良い良い。それより、刀は?」

「こちらに」

 ヤエが差し出した右手に"山茶花"は二尺七寸(約14.40cm)の刀身を持つ刀を手渡す。

「ふむ。い業物を選んだな」

 刀を抜き、刀身を見ながら"山茶花"を褒め、彼女の頭を撫でた。

「さて、ここからは死と隣り合わせの戦場ではなく、死を強制された戦場になる。覚悟しろ」

 ヤエの言葉に四人は一瞬だけ身体を小さく震わせた。だが、すぐにその震えを抑え「御意」と答えて剣術と短刀を構える。

「良い良い。陣形は鶴翼。"藤"と"春"は左翼、"牡丹"と"山茶花"は右翼じゃ」

 即座に陣形を取り、真ん中に立つ彼女は鞘を腰に佩きながら髪を結んでいた糸を解く。

「ヤエ、今からでも──」

「エンキ、銃の弾もない主はただの足手まといだ。なれば護衛対象を連れて共に脱兎のごとく逃げろ」

 なおも食い下がるエンキアンサスへヤエは非常な言葉を投げた。言葉を受けた彼女は口を閉じ、歯を食いしばりながら五人に背を向ける。

「──死ぬなよ」

 エンキアンサスの言葉にヤエはふっと笑い「ああ。主も達者でな」と答えた。

「さあ行け!」

 ヤエの鋭い言葉に押され、エンキアンサスは首筋に注射を打ち込み、ポンプを押して中身を注入する。

「強制開花....!」

 彼女の瞳孔は大きく開き、そして収まった直後、オダマキを抱いてその場で一度だけ片足だけで飛んだ。

「行ったか」

 振り返らず、背後から流れる風を感じながら眼帯を外してヤエも同じく首筋に注射を刺して中身を流し込む。

「これは命数を削るからの。手短に済ませようぞ」

 風になびく桃色の髪は黒へと変わり、左目にある蕾はみるみる花を開き、満開となり露わとなった中心部には桜の花を模した模様の入った目があった。

「この姿も慣れないものじゃ」

「私は好きですよ」

「私も私もー」

 黒髪のヤエへ"春"と"山茶花"は肯定的な意見を述べ、"藤"と"牡丹"はうんうんと首を縦に頷く。

「やれやれ。おだて上手もこの状況だと、励みになるの」

 ヤエは困ったような顔で笑いながら抜いていた刀を納め、おもいっきり右足をその場で踏み込んだ。

 踏み込まれた衝撃で手元の高さまで飛んできた瓦を一枚手に取り、それを遠くに立つ『成体』目掛けて投げつける。

 飛んできた一枚の瓦を『成体』はやはり避けようともせず、直前で事前に張り巡らせた糸によって止められ、瓦はところてんのように糸に細かく切られて通過していった。

 何度も同じことをして愚かだと『成体』はこの時思った。

 その時だった。

「ぜえりゃあ!」

 瓦が消えて視界が明るくなった直後、遠くにいたはずのヤエと"人形"の四人は目の前にまで迫り、自身にめがけて刀を振り下ろしてきていた。

 だが、あえなく刀は止められ、その場にキインと何度も聞いた鉄が摩擦で生じる音だけを撒き散らした。

「まだまだあ! 突け!」

 それでもヤエたちは手を止めず、刀で今度は一点を突く。

 今度は摩擦熱で火花が生まれ、彼女はしたり顔を浮かべた。

 阿呆だ、と『成体』は再び思った。

「aaa!!」

「がっ」

「ぐうっ」

 五人は最小限の攻撃と最速でここまで来たため、残っていた『ミント』たちから一斉に攻撃を受け、腹を貫かれた"藤"と"山茶花"は吐血し、雑面を赤く染めながら短刀を突く力も弱まる。

「はあはあ……させ、ない!」

 糸を突いていた二人は標的を変え、尚も三人へ攻撃を敢行する『ミント』たちへ文字通り死力を尽くして斬りかかった。

「あと少し!」

 極細の糸なのに全く歯が立たないながらも、一点集中のおかげで少しずつ削れている様子を左目で確認したヤエは四人を励まし、その手に力を一層込める。

「があ……ああ」

「……あ、るじ……」

 背後で二人が生き絶える声を聞き、彼女たちの肢体がちぎられる音を聞きながらも三人はそれぞれ糸に一点集中で攻撃を仕掛け続けた。

「ぐっ」

「っ!」

 護衛がいなくなり、三人も再び襲われ、腹部や腿などを『ミント』に貫かれながらも歯を食いしばり、その痛みを突くエネルギーへと変えて突き続ける。

 なんだこいつらは、と余裕綽々だったはずの『成体』は思った。

 仲間は殺され、自身も攻撃を受けているというのにひたすらこちらを守る糸を攻撃し続ける。

 意識を自覚し、『ミント』低級位から特に何事もなく『成体』にまで成り上がったの脳裏に混乱とは違う新たな感情を芽生えさせた。

 しかし、それを知るのではなく、実感することが起きる。

「斬った!」

 両足を穴まみれにし、形を保つのがやっとの状態で立って突き続けたヤエがついに糸を貫通し、小さな穴を開けた。

「"春"!"藤"!援護しろ!」

「御意!」「了解!」

 即座に彼女が開けた穴めがけて二人は短刀を突き刺して手前へと引き、小さな穴はそれによって人の指が入るほどになる。

主人あるじ様!」「早く!」

 まずい。どうにかしなければ、と『成体』は焦っていると、ヤエが話しかけた。

「おい、御簾みす越しに垣間見のぞきみとはいい了見だったな」

 見るからに狼狽し、糸を再び生成しようとする『成体』へ彼女は笑顔を浮かべた。

「これはほんの気持ちだ。なに、礼はいらん」

 ヤエは左のホルスターにしまっていた大口径のリボルバーを抜き、その拡大した穴にねじ込んで素早く引き金を引いた。

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