第32話
───ピチョン
天井から垂れた水滴はレンガとコンクリートが混じる粗悪な通路や水路へ落ちては音を上げて吸収される。
そんな水滴たちの一部が寝ているカルミアの額に落下し、彼女の意識に干渉した。
「うーん……」
眉をひそめながら左へ寝返りを打ち、危うく水路へ落ちかけた彼女を引き止める手が飛び出して掴む。
「!?」
掴まれた衝撃で目が覚めたカルミアは目の前で静かに流れる生活排水と若干中に浮いている自分へ理解が追いつかず、慌てていると引き戻された。
「あ、ありがとう……ございます」
「臭いのは勘弁だからな」
彼女を通路へ引き戻した女性はくぐもった声で答え、カルミアへ朱色の短髪と背中を見せながら焚き火に枝をくべ、ぶっきらぼうに答える。
しばらく無言が続き、段々と意識が覚醒したカルミアは鼻をつく異臭に顔を歪め、声を漏らす。
「うっ」
「起きたのか。カルミア」
「あ、オダマキさん」
背後から頭をポンと撫でられ、その方向を見ると礼服の帽子とジャケットを脱ぎ、シャツとズボンだけで立つオダマキがいた。
「冷えないように被せたはずだが、どこに置いたか覚えてるかい?」
「え?」
慌てて周りを見ると通路壁側に寝ているジャケットがあり、肩には"中尉"を示す階級章が付いていた。
カルミアは立ち上がり、ジャケットを手に取って焚き火の番をしている人物の近くにいるオダマキへ渡す。
「ありがとう。それと、カルミアはいつ頃目覚めたんだい?」
オダマキは渡されたジャケットを受け取りながらこちらへ顔を向けない女性へ質問する。
「ついさっきだ。そろそろ昼食時だし、空腹で目覚めたのかもな」
「ありえる」
そんな会話をしていると本当にカルミアの腹がグウウと鳴り、二人は顔を見合わせ、吹き出した。
「あうう……」
「空腹で目が覚めるのは生きてる証拠だ。──人数分を頼む。私はこれまでの事を軽く話すから」
「おう」
女性は変わらず返事だけをし、オダマキはカルミアへこれまでの一部始終を話し始めた。
目の前で屯所が爆発し、あと少しのところまで迫ってきた二人は熱風を孕んだ爆風をもろに食らい、地面に叩きつけられた。
一瞬うずくまり、即座にオダマキは身体を起こして呼吸しようとした瞬間、胸部に激痛を覚え、苦悶を押し殺す声が漏れる。
「っ──! はあああっ」
息をするのも苦痛で、しかし呼吸をしなければ酸欠で苦しむ二重苦を感じながらも彼女は呼吸を試みていると気道が修復されたのか、楽になった。
周りを見渡すと同じく爆発に巻き込まれた民間人らが地面に伏したり仰向けに寝転がっており、そして無事な通りすがりが駆け寄って安否を確認している。
「カルミア……カルミア!」
煤で汚れながらもそれを払わず瓦礫の山の隙間や割れたアスファルトの間を探していると、後方に駐車されていた車のボンネットに叩きつけられているカルミアを見つけた。
「しっかりしろ! 絶対に生きるんだ!」
オダマキは必死に呼びかけるが、気絶しているのか彼女は何も言わない。
火事の警報と悲鳴、そして車の盗難防止ブザーが鳴り響く中カルミアを抱えて近くのクリニックのドアを蹴破って入る。
直結する待合室へ進むと医者が掃き掃除の手を止め、ずかずかと入ってきた侵入者と彼女が抱える負傷者を交互に見ていた。
「なんだ!?」
「栄養点滴をくれ! たのむ!」
オダマキの鬼気迫る言い方と汚れた礼服、そして外の騒ぎで察した医者は無言で頷き、奥の診察室へ案内する。
「その様子だと花人か? なら、これだ」
「ありがとう。ドクター」
点滴台に"栄養補填葉腋"と書かれたパックを吊るし、ベッドの上に寝かされたカルミアの左手の静脈へ突き刺す。
「しばらくは安静だ。ここは奥の診察室だし、安全は保証する」
「本当にありがとう。でも、どうして見ず知らずの私たちにここまで良くしてくれるのですか?」
医者は近くのラックに掛けていた白衣を纏い、笑顔で答える。
「アンタら混合軍だろ? いつも俺たちを守ってくれてるからさ」
パタンとドアが閉まり、個室に二人残されたオダマキは点滴を受けているカルミアを改めて見る。
所々ガラスや破片などで傷ついていた腕や頬は既に再生しており、表情も少し和らいでいた。
そんな彼女の頭を撫でながらオダマキは突如起きた爆発と食事中に出された毒物の結びつきが出来ないか考える。
「もし、私が仕掛けるなら最初の飲み物にする。だがそうはしなかった。まるで逃げる場所が分かっていたかのように……そして逃げる先が分かっていればそこに罠を仕掛ければいい」非効率的だと分かっていながらもそれは精神的な損耗率は高く、入念に作られた計画だと彼女は考えていたが、無意識に言葉に出した言葉に驚いた。
「カルミアと会ったという事も偶然ではない……?」
その時、診察室の向こうから僅かに物音がした。
オダマキは武器になりそうなものがないか近くを探し、机の上に置いてあったトレーに目が行く。
トレーの上には手術用の器具が並べられており、その中からメスを二本選んで隠し持ちながらドアに耳を近づけて外の状況を伺う。
(音はしない……逆におかしいな)
静かにドアを開き、メスの刃先の反射で廊下を伺い見ながら誰もいない事を確認したオダマキは身を晒して真っ直ぐ待合室まで壁際に沿って進む。
待合室の近くに行くと入り口から差す光で出来た三つの人影があり、壁際で聞き耳を立てる。
「……はない。急いで……」
「待った。……が、……だ」
「……だろ? ……」
オダマキは断片的すぎて理解できない会話を聞き取ろうと一歩進んだ時、足元に転がっていたガラス製の体温計に気づかなかった。
そのまま彼女は体温計に体重をかけていき、パキン、という音は静寂の待合室に大きく響く。
「誰だっ!」
「っ!!」
反射的にカルミアがいる隣の診察室のドアを開けてそこに閉じこもり、ベッドを入り口に倒してバリケード代わりにして時間稼ぎをしながらオダマキは周りを見渡す。
目の前には透明なガラスの扉の向こうに綺麗に整列された瓶やアンプルがあり、近くの机の上には薬品名と個数が書かれたリストが転がっていた。
「なるほど。保管室か」
彼女はリストを見ながら今必要なものを見つけ、薬品棚のガラスを破って取り出したり、時にはロックのかかった引き出しをこじ開けたりしているとドアの向こうから射撃音と共にノブが落ちる。
「早すぎないか?」
オダマキはロックを解除しようとノブのあった場所から伸びて暴れる手に空の注射器を刺し、一気にポンプを押し込む。
すぐに手は引っ込み、向こうで苦悶する声と忌々しげに舌打ちをする音と共に今度は隙間から銃口が飛び出し、無差別に乱射してきた。
「咄嗟の出来事と味方が死んだことに動揺するか。新兵か戦場を知らずにここまで生きてきたのか?」
まあ、どちらでも殺すが、と彼女は息巻きながら床に伏せて銃撃をやり過ごし、カチンと弾の切れる音が聞こえると即座に立ち上がる。
「ふんっ!」
渾身の力でドアを内側から蹴破り、そのドアごと壁に叩きつけられた一人を無視して呆然とこちらを見る人物へオダマキはメスを投げつけた。
「っ、がああ」
首筋に刺さった箇所から赤い噴水を出し、悶絶しながら倒れたのを確認してその手から銃を奪う。
「この!」
ドアを退けて頭に血が上った状態で立ち上がった人物の額へオダマキはサプレッサーが装着された拳銃を突きつけながら淡々と告げた。
「実戦を知ったな。新兵」
彼女は引き立った顔の男へ引き金を引き、額に赤丸を押された状態で男はパタンと倒れた。
オダマキは即死を確認してから死体の身元を特定できる物が無いか探り始めた。そしてポケットの中から見つかったバッヂに目が止まった。
「これは……いやそんなはずが……」
目に見えてオダマキは動揺し、手からバッヂを取り落として金属製の軽い音を響かせて転がる。
フクロウが目隠しをし、短剣を加えている部隊章。
それはオダマキがよく知った部隊であり、二度と見ないと思っていた代物でもあった。
「ならばこれはただのテロではない……綿密に練られた計画的な国家転覆だ」
「その通りだ」
「っ!!」
いつの間にか目の前に立ち、影を作っている人物はカチャリと撃鉄の上がる音と共にオダマキの額にリボルバーを突きつけながら淡々と喋る。
「先の反応を見るに、お前もそこの所属だったのか? なら今からでも遅くない。計画に加担しろ。地位は保証される」
「ああ。たしかに私の古巣だ。だが、同時にあれは後世に残してはならない象徴でもある」
「なんだと?」
男は動揺から僅かに銃口が揺れるが、額への狙いは変わらない。
しかし、オダマキはその一瞬の反応を逃さず、ここぞとばかりにたたみかける。
「そうだと思わないか? あれは設立当初から黒い噂が絶えなかった。そして現に所属する彼らのうちには死んでしまったのもいる。ただの戦死じゃない。それは───」
「黙れっ!」
男は絶叫と共に引き金を引き、オダマキの頬を抉って床に着弾した。
激痛から顔を顰めながらも視線は外さずに彼女は怒りで体を震わす逆光で顔が見えない男を睨みつける。
「あれは……あれは大いなる犠牲だ。適合した者が生き、しなかった者は死ぬ。弱肉強食と自然摂理だ! もしあれで生きていても戦闘で野垂れ死んでいた!」
「戦場で死ぬ方が何倍もマシだ! あの部隊にいたならお前も分かるはずだ。どんなに酷い死に方であろうと、戦場であればここに生きる全員が忘れないと!」
負けじと言い返したオダマキの言葉に男ははっと息を呑み、揺らぎが完全に傾いたと彼女は確信した。
だが、実際は違った。震える手で下げていた狙いをオダマキの額へと戻し、か細い声で告げる。
「綺麗事だけでは生きてはいけない……」
オダマキは万事休すかと諦めかけたが、男の話は続いた。
「だが──」
男は言葉を区切って沈黙し、オダマキは彼の顔を見上げると先程までの憎悪のこもった宙に浮いていた二つの目は柔和になっており、嫌な予感が脳裏をよぎる。
「
「よせっ!」
男は直後に狙いを自身の側頭部に変え、逆光でも分かるほど笑顔で止める彼女の手を払って引き金を引いた。
赤い血液とピンクの欠片が待合室の壁に貼られていた自殺防止を呼びかけるポスターに飛び散り、一部はオダマキの頬にまで飛散した。
自力でクリニックに立つ人物は彼女だけとなり、オダマキは静かに周りに眠る犠牲者たちを見る。
理由も聞かずに栄養点滴を施した善意あふれるドクター。おそらくオダマキと同じ古巣に所属していたらしき兵士三名。
「狂っている……大戦はとうの昔に終わっているんだぞ!」
オダマキは絶叫し、無意識に自身の頬へ指が伸びる。
拳銃に抉られた頬の傷はすでに再生しきっており、触れても撃たれる前と何ら変わらない
「嘆く時間はないぞ。中尉」
「誰だっ!」
突然背後からくぐもった声が聞こえ、オダマキは倒れた兵士の手からリボルバーを拾い上げて入り口の前に立つ逆光で顔が見えない女性に向ける。
「既にここ以外の屯所も爆破されている。正規軍と混合軍問わずに、だ。挙句に教会も。どうやらお前の祖国に相当恨みを持つ人物の犯行らしい」
「それと何の関係が? そして時間がないとは?」
一歩進みながら話す女性にオダマキは狙いを定めながら一歩下がる。
女性は警戒心の満ちた目で自身を睨むオダマキにフッと笑いながら立ち止まり、彼女も同時に静止した。
「直接的な関係は無いかもしれないが、ある。そして時間がないは文字通りさ。中尉」
「私は自分のことを中尉と呼ばれるのはあまり好きではない。どうせならオダマキと呼んで欲しい」
オダマキは中尉と呼ばれ続け、警戒心の満ちた目でありながらも軽く自身の愛称を要請すると女性は苦笑する。
その直後、クリニックの入口から差していた日光に陰りが差して女性の顔が露わになり、オダマキは息を呑んだ。
「エンキアンサス…特務大佐殿ですか?」
「特務大佐はいらない。アンでもエニーでも好きに呼んで。オダマキ」
口元を覆うマスクを装着しているエンキアンサスは目元に笑みを残しながら話していたが、自身の紹介を終えると目つきが変わる。
「ここはお前以外いないか?」
「いえ、カルミア…博士がおります」
「連れて来い。いい場所を知っている」
オダマキは簡略化した敬礼をしてからすぐさま奥の待合室へと向かい、扉を開け放つ。
カルミアは静かに寝息を立てており、刺してあった点滴は四分の一を残していた。
「すまない」
針を抜き、傷口にガーゼを当ててテープで固定してから抱え上げて待合室へ向かうとエンキアンサス以外に二人の浮浪者が立っていた。
「安心しろ。案内人だ」
「こっちだ」
彼女が紹介をすると同時に浮浪者たちはクリニック前のマンホールを開け、その中に入る。
「まさか」
潜伏場所の予想がつき、驚くオダマキにエンキアンサスはニヤリとした。
「その通り。見取り図も消え失せた下水道は『植物』も闊歩する天然の要塞だからな」
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