第35話 一音 ツバサ観光にて(2)

塩村は久木野と話しながらパソコンを素早く操作し手続きを進めていく。

「では、こちらに参加者名と代表者の連絡先のご記入をお願いします」

久木野の手元の用紙を見ていた一音は

「ええっ!?」と椅子から立ち上がってしまった。

「ちょっと!どうしたんですか」

「えっ?えっ?川畑先生と行くんですか?」

同行者氏名に川畑光とある。

久木野は困惑した表情で「川畑先生ご存知なんですか」と聞いた。

ご存知も何も好きな人である。


「えっと……娘から聞いたことがありまして」

「そうなんですね。あの、一音さんには内緒にしておいて貰えますか?」

「もちろん守秘義務ですから」状況の飲み込めていない塩村がフォローしてくれる。

「えっ、あのお付き合いしてるんですね」

そういう噂があったが、所詮噂だ、と思っていた。

久木野は恥ずかしそうに頷き「今年中に入籍します」と言った。

終わった、私の恋は始まる前から終わってしまった。


一音は悲しみを堪え久木野に「どうぞお幸せに」と言った。

涙目になる中年男に塩村、久木野とも引いている。

塩村は場を取り繕うために無理に笑顔を浮かべ「おめでとうございます。新婚旅行はぜひ。あ、でも新婚旅行は大手の方が色々コースありますからね」と話を続けている。


その後、しばらくして手続きが完了し、久木野が席を立ったので、一音は涙をぬぐいながら「あの、お伺いしたいことが」と声をかけた。

「はい」

本当は川畑との馴れ初めを聞きたいところだが、傷をえぐるだけなのでやめておく。

一音は声をひそめた。

「あまり思い出したくない話だと思います。その……美理の件で」

「豊さんの」久木野の顔が曇った。

「少しお時間良いですか?」

「あの、何を……」

カウンターで話すわけにもいかないので事務所に通すことにした。


先ほどまでの楽しそうな表情とうって変わって目を伏せて唇をギュッと噛んでいる。

「突然すみません。娘から話を聞きまして」

「いえ……。でも何もお話することはありません」

「あの、事情に間違いがないかだけ確認させてください。」

早奈子から聞いた内容を話すも久木野はうつ向いたままだ。

「確認してどうされるんですか?私は美理さんが学校で変な目で見られるのは避けたいんです。」

美理のせいだ、と告白しているようなものだ。

教師へ圧力をかける、として四つ葉スーパーの弱味になるかと思ったが、久木野はそんなことは望んでいない。

川畑と結婚をし前を向いていこうとしている。

「羽山さんには申し訳ないことをしました。まさか同じクラスになるなんて……すみません。もうお話しすることはないので失礼します」

一音は「あの、娘はこれから羽山さんと仲良くしたいと思っています。許してくれるかは分からないけど普通に話せるようになりたいと思っています。」

久木野は美理とのトラブルの話になって以降初めて微笑んだ。

「羽山さんは優しいですから」

一音は胸がキュッとなった。

もう美理の言うことを聞くのは絶対にやめる、三哉は約束を守って謝らずに過ごせただろうか?


店舗の出口まで久木野を見送り

「嫌なことを話させてすみません」と謝った。

「いえ、こちらこそ態度悪くてすみません」久木野が苦笑いを浮かべた。

「バスツアー楽しんでください」

「はい」背中を向けて歩き出す久木野に

「先生!」と一音は呼びかけた。

振り向いた久木野に

「娘は先生のこと慕ってましたよ。あんな性格だから伝わりにくいと思いますが」


「ありがとうございます。娘さんと仲がよくて羨ましいです」久木野は優しい笑みを浮かべ帰っていった。

将太に学校の出来事なんか話したことない。別に仲良しではない。

でも、これからは少しずつ話していこうかな、と思う。


「先生、私も学校頑張るよ。幸せにね」

一音はそう呟いて店舗へと戻っていった。

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