涼さんの鍼仕事

増田朋美

涼さんの鍼仕事

秋が確実にやってきたと思われる、涼しい風が吹いて、気持ちの良い日であった。今日も、製鉄所では、杉ちゃんとブッチャーが、水穂さんにご飯を食べさせようと、躍起になっていた。食欲の秋が来たというのに、水穂さんの食欲はまるで出ず、相変わらずいくら食べろと言っても食べないのであった。その日も、食べさせるにはどうしたらいいかなと、杉ちゃんもブッチャーも顔を突き合わせて考えていると、

「こんにちは。古川です。今日は、応答がないですけど、どうしたんですか?」

と、玄関先から声がした。杉ちゃんもブッチャーも、今日は涼さんが来訪する日であるということを、すっかり忘れていた。ブッチャーが急いで玄関先へ迎えに行った。

「一体どうしたんですか。今日はなにかありましたでしょうか?」

と、涼さんにいわれて、ブッチャーは、恥ずかしそうな顔をした。盲人の涼さんには、ブッチャーの顔が見えなかったから、そんな顔をしているとは、わからなかったけれど。

「いやあ、ですね。水穂さんがどうしても、ご飯を食べてくれませんでね。それで、俺たちも困ってます。」

ブッチャーは大きなため息を付いた。

「食事をしないんですか?」

ブッチャーがそう言うと、涼さんはすぐに聞いた。盲人であるためか、涼さんは相手の反応を見ずに話をしてしまうことが、よくある。

「はい、そうなんですよ。俺たち、どうしたらいいもんでしょうかね。どうしたら、ご飯を食べてくれますかねえ。全く。食欲の秋なのにな。俺たちはどうしたらいいんだろう。」

「わかりました。ブッチャーさんも相当困っていらっしゃることは、口調でわかりますよ。あまり無理をしすぎず、疲れすぎないでくださいね。」

と、涼さんは言った。

「いやあ、俺が励まされても困ります。俺はただ、水穂さんにご飯を食べさせているだけで、一番困るのは、水穂さん何じゃないかな。」

「そうですか。ブッチャーさんは優しいですね。そうやって、他人の事を心配できる方は、そうはいませんよ。」

涼さんに褒められて、ブッチャーはため息をついた。

「いやあ、俺が褒められても困ります。俺、姉ちゃんのことが有るから、そういう事はなれているんだと思うけど、他の人は、こんな進歩のない仕事はできやしませんよ。」

と、ブッチャーは、当たり前の顔でいった。

「なにかできることないですかね。俺たちは、何もできないで、水穂さんの事を、放置しっぱなしじゃ、ほんと、やるせないというか、可哀想でなりませんよ。」

「そうですか。そう思える人は、今の時代貴重ですよ。ブッチャーさんが、できることは、ほんの僅かかもしれないけど、その思いが、水穂さんに届いてくれるといいですけどね。それができれば、苦労はしないですかね。」

涼さんは、ブッチャーを励ました。ブッチャーは、涼さんの手を引っ張って、製鉄所の建物内に入らせた。

「今日は、俺がついていますから、部屋まであと何歩なんて勘定しなくてもいいですからね。」

涼さんの手をつないで、ブッチャーは、製鉄所の廊下を歩いた。それでも涼さんは、四畳半まであと何歩とか、勘定しているのだったが、ブッチャーは、そんな事はしなくていいと言った。

「すみません、癖なんです。盲人として、ずっとやってきたことですから、取り切れない癖です。」

と、涼さんはそういうのであった。ブッチャーは、四畳半のふすまを開けて、

「杉ちゃん、涼さんが来たよ。水穂さんはどうしている?」

と、聞いた。

「ああ、相変わらず、ご飯を食べないで、寝ているよ。」

と、杉ちゃんはそう答えると、

「ああ、眠ってしまわれたんですか。」

と涼さんは、気配でわかってくれたようである。

「毎日毎日、こんな感じです。どうしたら、ご飯食べてくれるのか、僕たちも悩んでいます。いくら作っても、味を良くしても、ご飯を食べてくれませんでね。もう僕たちはどうしたらいいんだか。よくわからないのです。」

杉ちゃんは、困った顔をして言った。

「そうかも知れませんね。確かに、一生懸命作ったものを、何も食べてくれないで、眠ってしまうというのは、作った側にもお辛いと思います。まあ、病気のせいと一言で片付けてしまうのも、お辛いものがありますよね。」

涼さんは、静かに言った。

「いつから、こんなふうに食べない生活が続いているんですか?」

「いつかなんて、それをきくのも忘れるくらい、食べてないよ。」

杉ちゃんの答えが、一番事実に近いような答えだった。もういつから食べなくなったかなんて、勘定するのも忘れてしまうくらい、食べない生活が続いている。

「ご存知だと思いますが、人間は、一日の活動するためのエネルギーを、一日で使い果たしてしまうんです。ですから、一日三食食べるのは、からだを動かすために、必要なことなんです。それを忘れているとなると、良く生きているなということになると、思うんですが?」

「まあ、そうなんだけどねえ。ご飯どころか、おやつも何も食べないしねえ。」

涼さんにいわれて杉ちゃんは、大きなため息を付いた。

「そうですか。それでは、拒食症とか、そういう病名がついてもいいのではないでしょうか。それを、精神科で見てもらうとか、そういう事をすれば、また変わってくるかもしれないですよね。」

涼さんは、話を続けた。

「まあ、そうなんだけどさ。偉い人ってのは、水穂さんみたいな着物を着ている人を嫌うからな。あ、そうか。銘仙の着物って、涼さん知らないのか。実は、人種差別的な事をされていた人が着ていた着物ばかり持っているので。」

「ええ、知ってますよ。実物を見たことはありませんが、そういう着物が流行っている事は知っています。僕のクライエントさんにも、着物が好きな方がいて、着物について説明してくださる方がいました。でも、彼女は、そういう着物を着ても、周りの人に、着物のことについて、ひどい事をいわれた事は、なかったということです。」

杉ちゃんの発言に涼さんはそういった。

「そうなんですか。涼さんも、知っているんですか。そのくらい、アンティーク着物とか、そういうものは、流行っているんですね。俺のネットショップにも注文がよく来るけど、それだけ流行っているということだろうな。」

ブッチャーは、考え込む仕草をする。

「まあ、近頃のアンティーク着物ブームは、昔は悪いとされる着物でも、いい着物になってしまっているのかもしれませんね。それより涼さん、俺たち、どうしたらいいのでしょう。水穂さんが、ご飯を少しでも食べようという気になってくれるには、どうしたらいいのですかね。俺たちが、何を言っても、食べてくれないんですよ。もう、どうしたらいいのやら。困ってしまうほどです。」

「そうですね、僕ができることは、ただ、クライエントさんの話をきくしかできないですけどね。それ以外にできることは、水穂さんのからだに鍼を打つことくらいですかね。」

「鍼を打つ?ああ、盲人にはよくある特技だよな。鍼とか、灸とかあんまみたいなこと。」

と、杉ちゃんが、涼さんの話に相槌を打つ。

「いわゆるあはき師というやつですが、僕も、それで活動していたこともありました。その時は、琵琶丸さんみたいとかいわれた事もあったんですけど。なんだか漫画映画に出てくるキャラクターだそうで。僕は、漫画映画を一度も見たことはありませんが。」

そういう涼さんに、ブッチャーは、子供の頃に読んだ、漫画の内容を思い出した。琵琶丸というのは、その漫画に出てきたキャラクターで、涼さんと同じ様に、盲人のはり師である。

「なるほど、だったら、水穂さんにもやってもらえませんでしょうかね。鍼とか灸とか、そういうもので、水穂さんが少しでも元気になってくれればと思うんです。」

と、ブッチャーが言った。まさしくわらを掴むという態度でそういったのだろう。涼さんには、もちろん、その顔が見えてないけど。

「そうですね、ただ、鍼とか灸は、西洋医学のように、直ぐに効果がどうのこうのというものではないし、水穂さんが、食事をしてくれるように、持っていけるかどうかということはわかりません。それは、保証できることではないということは、覚えていてください。」

涼さんはそう言うが、

「でも、俺、漫画の中で、琵琶丸が施術しているシーンを見ましたが、本当に色んな人を治してました。そういう事が涼さんにもできるということですよね?」

と、ブッチャーは言った。

「そうですけど、漫画映画は、現実にないことを、描いてしまうところもありますよね。もちろん、僕は、漫画映画を見たことは一度もありませんが。」

「いや、やってください。薬は確かに咳を止めてはくれますが、俺たちの悩んでいることを解決させてくれるという事はありません。そういうことだったら、涼さんのような人に、頼るしかありませでんでしょう。もう何をやってもだめなんです。涼さん、お願いできませんか。」

涼さんがそう言うと、ブッチャーはすぐに言った。涼さんは、少し考えて、

「わかりました。じゃあ、明日、鍼を持って、こちらにこさせていただきますから、よろしくおねがいします。」

と言った。みんな不安そうな顔していた。水穂さんだけが、静かに眠っているのだった。

その次の日。杉ちゃんとブッチャーは、水穂さんに、涼さんが鍼をやってくれるからと説明すると、水穂さんは、そうですかとだけ言った。それ以上、彼は、何もいわなかった。

「こんにちは。古川です。」

玄関先でタクシーが停まった音がして、涼さんの声が聞こえて来る。ブッチャーは、急いで涼さんを玄関先へ迎えに行った。

「よろしくおねがいします。水穂さんも、わかってくれたようなので。」

また、ブッチャーは涼さんの手を引っ張って、四畳半に連れて行った。もう四畳半まで、あと何歩とか、勘定しなくていいからと言った。そして、四畳半のふすまを開けると、水穂さんが、布団に座っていた。やっぱり、銘仙の着物を身に着けていた。それを、涼さんが、見られるということはないけれど。

「それでは、水穂さん、着物を脱いで、長襦袢のままでいいですから、うつ伏せに寝てくれませんか。」

と、涼さんは言った。水穂さんはわかりましたと言って、兵児帯を解いて、着物を脱ぎ、長襦袢姿になった。まだ、少し暑い日が有るせいか、長襦袢は透ける素材でできていた。その透ける素材のせいで、水穂さんの背中が実によく見えた。何も食べていないことがよく分かる。げっそりと痩せていて、からだの肋骨が一本一本見えるほど痩せている。水穂さんが、布団の上にねると、涼さんは、持っていた道具箱を開けて、何本かの鍼を取り出す。縫い針のような太い鍼ではなく、からだに刺す鍼は、とても細い針で、指してもあまり痛くないようなそんな鍼であった。涼さんは、じゃあ行きますよと言って、水穂さんの背中にブスブスと鍼を刺していった。げっそり痩せてしまって、こんなからだに鍼を刺すのなんて、晴眼者だったら、とてもできないと思ってしまうのではないかと、思われるくらい、水穂さんは痩せていた。そういうことができるのは、やっぱり盲人なんだなと、ブッチャーは思った。

「水穂さん痛くないですか?」

思わず、ブッチャーは聞いてしまう。

「ええ、大丈夫です。」

そういう水穂さんであるが、きっと、このような痩せ方では、痛いだろうなということが、誰が見てもわかる。わからないのは、盲人の涼さんだけだと思う。

「水穂さん、すごく痩せてますね。骨がすぐ触れることからもわかりますよ。こんなに痩せていては、何もできないでしょう。」

と、涼さんは、鍼を刺しながら、そういう事を言った。

「ここまで、痩せが進んだら、動けないというか、何もする力もなくなってしまうのではないでしょうか。僕は、盲人なので、水穂さんのからだを直に見ることはできませんが、からだに触って、ここまで進んだことは、理解できます。でも、水穂さんは、一人ぼっちではありません。ブッチャーさんも、杉ちゃんも、こうしてそばにいてくださるんですから、もっと、気力を持ってください。」

そう言って、涼さんは、最後の鍼を刺した。水穂さんもこれには少々痛かったらしく、ギャンと言ったが、それ以上何もいわなかった。

「じゃあ、抜いていきますから。」

数分して、涼さんは、刺した鍼を抜いていく。この抜き方にも、ただ抜くのではなく、高度な技術がいるらしい。杉ちゃんたちにはわからないけど、そうなっているようなのだ。

「はい。最後の一本を抜きます。」

涼さんがそう言って、首に近いところにある鍼を抜くと、水穂さんは、疲れてしまったのか、少し咳をした。杉ちゃんに促されて、着物を着直して、兵児帯を結び直したが、もう疲れてしまったのか、布団に横たわってしまった。

「それでは、今日はおしまいです。これで食欲が出てくれるかとか、そういう事はわからないですけど、とりあえず、気が溜まっている箇所に、鍼を刺して、分散させるようにはしました。僕がしたことは、それだけです。じゃあ、今日はこれで。」

と、涼さんは急いで言って、鍼を道具箱の中に戻した。杉ちゃんたちが手伝うこともなく、涼さんは手探りでそれをやり遂げた。

「気が溜まっているというのはどういうことなんですかね?なにか、からだの中に、悪いものでもあったんか。」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ、実在するかどうかは、わかりません。画像で見れるというものでもありませんし。ただ、感じることはできます。そういうのって、信じない人も多いですが、それを、少し動かせばらくになれるということはできると言うことは確かだと思います。」

と、涼さんは言った。

「多分、緊張しすぎというか、そういうことかなあ。俺もよくわからないけどさ。でも、そういうものは、あるんじゃないかとは思うけど、、、。うん、俺はそう思うことにしておこう。」

ブッチャーは、そう解釈したようだ。

「まあいい。また来てくれよ。水穂さんのこと、また違った視点で見てくれるのは、涼さんしかいないもんな。たまには、僕たち以外の視点で見てもらったら、また変わってくるんじゃないの?そういうもんだろうが。」

と、杉ちゃんは言った。

「ええ、またよろしく頼みます。俺、また連絡しますので、空いている日付とか、そういうところ、教えて下さい。こういうものは、定期的にやったほうがいいですよね。また、次回もよろしくおねがいします。」

ブッチャーは、涼さんに言った。道具箱を、風呂敷で包んだ涼さんは、

「じゃあ、これで失礼します。空いている日付はまた連絡くれれば調整しますので、今日はどうもありがとうございました。」

と言って、よいしょと立ち上がった。ブッチャーが、玄関まで送りますと言って、涼さんに付き添った。また、ブッチャーと涼さんは、製鉄所の廊下を有るき始める。

「涼さん、水穂さんの溜まった気を分散させたと言ってましたけど、あれ、どういうことでしたかね?」

ブッチャーは思わず涼さんに聞いてみた。

「さっき、実在するかどうかわからないと言っていたけれど、水穂さんのからだに、そういうものがあったんですかね?」

「ええ、有るとか、ないとか、そういう白黒はっきり着くものではないですよ。それは、なんていうんでしょうね。ただ、鍼を刺すと、感じられるんですよ。この人は、かなり長い間、気をためすぎていたってことをね。」

涼さんはそう答えを出す。そして、玄関に到着した。ブッチャーは、涼さんの靴を履かせてやろうと思ったが、涼さんは、白い杖で探りながら、靴を探し当て、時間をかけながらも、一人で靴を履いた。

「ブッチャーさん、この番号に電話していただけますか?」

と、涼さんに番号が描かれた紙を見せられて、ブッチャーは、はっとする。急いでそれを見ると、それは、先程涼さんがここへ来るときに乗ってきたタクシー会社の領収書だった。それに番号が描いてあるので、そこへ電話してくれということであった。ブッチャーは、は、はいと言って、急いでタクシー会社に電話をかけた。

タクシー会社の人に、盲人で有るから、と話すと、なんだ、付添の人はいないのかなといやそうな顔をして、そういわれてしまった。涼さんは、大丈夫ですよ、そういわれることはなれてますというが、ブッチャーはなにか申し訳ない気がしてしまった。

やがて、二人の前に、障害者用の、介護タクシーがやってきた。運転手が、お待たせいたしましたと言いながら出てきて、涼さんを後部座席に乗せる。ブッチャーは、ありがとうございました!と言って、走り去っていくタクシーに頭を下げた。涼さんには見えないが、それでも良かった。

タクシーが見えなくなって、ブッチャーは製鉄所に戻った。それと同時に昼の十二時の鐘がなった。おう、そろそろ水穂さんにご飯を食べさせなきゃなと、ブッチャーは、食堂へ直行する。

食堂に行くと、杉ちゃんがお粥を作っていた。また水穂さん食べてくれるかなと思うのであるが、ブッチャーは何もいわないことにした。それよりも、涼さんが水穂さんの体をああいうふうに言ってくれなかったら、水穂さんは、変わらないだろうなと思った。

「水穂さん、食べてくれるかな。」

と、杉ちゃんは、お粥を器に盛り付けた。

「そうだね。涼さんがやってくれた施術がうまく言ってくれるといいがな。」

と、ブッチャーはまた言った。

「まあ、そういう事は、僕たちがくよくよ考えることじゃない。僕たちは、涼さんのような、そういう人を、頼るしかないってことも有るんだよ。」

杉ちゃんは、お粥の器をお盆に乗せた。ブッチャーが、それを持った。そして、二人は、水穂さんが寝ているはずの、四畳半に向かってあるき出した。

その日は、秋が深まってきたのか、優しい秋風が吹いていた。もう、ギラギラと日差しが照りつけることもない。季節は確実に、変わってきて、夏は終わって、秋が来たことを示しているようだった。





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涼さんの鍼仕事 増田朋美 @masubuchi4996

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