第52話

屈託のない笑顔。何事も許してくれることはなさそうだ。

明らかに怒気を孕んでいる。

「...エッチ」

一言でも発した途端爆発しそうな藍水を前に、藤桜は前で手を組みながらもじもじしている。

藤桜に言われてしまうと心へのダメージが大きい。

「いやよく見てみろ。ここは男子更衣室だ」

「は?もう少し上手い嘘を」

「見てみろ」

指さす方へ二人の視線が向かう。

何度見ようと文字羅列が変わることはない。

「嘘...」

「俺の方が叫びたくなった」

「......」

二人は目を丸くしながら札を注視すると、項垂れながらこちらを向いた。

「...ごめん」

「ごめんなさい」

二人揃って頭を下げてくる。

...藤桜に頭を下げられると心が痛む。変態と罵られた方がまだマシな気がした。

「それよりも拓真君が叫びたくなったってどういうことよ」

「俺が着替えるのを覗きに来たのかと」

「...それは本当にない」

あまりにも冷淡な言動で断ち切られた。

これが本当の拒否というのは否が応でも理解できる。

「第一あたし達が中にいたんだし。覗こうにも覗けないでしょ」

呆れたように嘆息し淡々と言葉を発した。

すると、うかない顔だった藤桜が体を折り曲げる。

「ごめんね、藍水さん。女子更衣室と見間違えちゃった」

「ううん。アタシもよく確認しなかったのがいけないから」

いきなり頭を下げられたことで驚いた様子だったが、優しい微笑みを向けている。

藍水がここまで素直に謝るのは意外だった。最近の様子を見ていると、自分の過ちさえも誰かに押し付けるような、責任転嫁は専売特許のようにも感じていた。

この一件で心変わりでもあったのだろう。

間違いとはいえ、俺も更衣室を使ったことがあるのは一回だけだ。二人は初めてなのだろう。簡易的な札に手書きで書かれており、辺りも暗くなり始め見にくかったのかもしれない。

慎重そうな藤桜がそのような謬見をするとは信じがたいが、先入観で読み違えることもあるほどで、簡単なものこそ間違えやすい。

「思ったんだけどさ」

何か思いついたように目を鋭くさせ俺に尋ねる。

「確かにアタシたちが場所を間違えてしまったというのはあるけど、拓真君は見たんだから同罪、いや割合的に拓真君のほうが問題だよね」

「何を?」

「...アタシたちの...」

「の?」

「下...ぎ...」

「したぎ?あー下着ね」

「うるさい!わざわざ言わなくていい!黙れ!」

再び顔を熱らせたと思うと、暴言を吐き捨て、顔を横に向けた。

言葉くらいでそこまで恥ずかしがることではないだろう。

俺も態と分からぬふりをしたが、藍水がこんなことで羞恥を覚えるとは思わなかった。実は純粋な乙女なのか。

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