最終話 はめつのことば




 数週間後。

 地村は担任教師・恩田に付き添われ、病院を訪れていた。

 看護師の厳重な注意と共に入室を許可された病室。そこでは──



 奇崎まい。地村が必死で手を伸ばし、助けようとした彼女が、たった一人で昏々と眠り続けていた。

 彼を極限まで追いつめ、傷つけ、最後の最後まで拒絶し切った彼女が。



 白髪頭を掻きながら、恩田がおもむろに口を開く。

「地村。君のしたことは、決して間違いじゃない。むしろ誇りにしていい。

 君は本当によく頑張った。ろくに泳げないのに、川に飛び込んで彼女を助けようとしたんだものな。

 奇崎君の命だけでも助かったのは、何よりも君のおかげだ」


 包帯の巻かれた地村の手を見ながら、精一杯の労いの言葉をかける恩田。

 それでも地村の表情は晴れない。

 大きな目で、じっとまいを見つめ続ける地村。

 薄く見開かれたまいの目には、全く光がない。どこを見ているのかさえも分からない。


「でも……

 その結果が、人事不省。ほぼ完全な要介護状態……なんですよね。

 彼女のご両親に何と言って詫びていいのか、分かりません。

 僕があの時、彼女の手を離しさえしなければ、こんなことには……」

「地村、もう自分を責めるのはやめるんだ。君は何も悪くない。

 彼女の意識は断続的にだが、戻ってくることもある。その時間は少しずつ長くなって、今じゃある程度言葉を交わすことも出来る。

 その時に、心療内科医が色々調べたんだが──」


 うなだれる地村を前に、恩田は一枚のメモを取り出した。


「奇崎君が、あれだけお前を拒絶したのは──

 ちゃんと理由があったんだよ」

「やっぱり……僕が原因なんですよね。

 僕が根暗で、気持ち悪かったから……」

「違う。言っただろう、君は何も悪くないと。

 担当医が私にも説明してくれてね」


 恩田は地村にメモを指し示した。

 英単語も混じった乱雑な文字がびっしり並んだメモの真ん中に、ひときわ大きな文字で書かれた言葉。何重もの赤丸で囲まれているその単語は──



「……愛情反転……症候群?」



 首を傾げた地村に、恩田は説明した。


「正式な病名ではないが、最近発見された精神病の一種らしくてな。

 簡単に言うと──

 本来ならば愛情を抱いているはずの相手に、逆の感情、つまり嫌悪を抱いてしまう病だそうだ」


 何を言われたのか分からず、地村は一瞬目をぱちくりさせて恩田を凝視してしまった。


「愛情が……嫌悪に?

 ありえません。一体どうして、そんなことが?」


 ごましお頭の老教師は、哀しそうに首を振った。


「私も信じられなかったが──

 思春期の、ちょうど君たちぐらいの年齢の子供には、ごくごくまれに起こる病らしい。

 ヒトの構造というものは非常にデリケートなものだ。例えば、46本ある染色体のたった一本が異常を起こしただけで、それは一生背負い続ける病気となる。

 同じように、感情を司る脳の一部──扁桃体が、ほんの少しエラーを起こしたことで。

 奇崎君の愛情はそのまま、君への憎悪に変化してしまったんだ」


 分からない。理解出来ない。

 あれだけ自分を嫌っていたまいが、本来ならば──

 僕を愛していただと?


「この病の原因は、正確に解明されてはいないようだが──

 過度なストレスによる可能性が非常に高いらしい」


 過度なストレス。

 すぐに思い当たった。間違いない、原因は。


「地村。君は小学校の時、奇崎君と同じクラスだった。

 その時の担任は……生徒への粗暴な振る舞いで、相当問題視されていた人物だ。

 忘れ物は勿論、連絡帳にイタズラ書きをしていた、掃除をさぼっていた、授業中に自分の意にそぐわぬ答えをしたなどのごくごく小さなことで、何十分も授業を潰して生徒を一方的に責め立てる女性教師が、同じ学区内の小学校にいるという噂は聞いていたよ。

 産休明けの女性教師にはよくあることと思っていたが──

 君も奇崎君も、その犠牲者だったんだな」



 まざまざと思い出されたのは──

 まるで空爆にも似た、教師の怒号。

 あのヒステリックな声を思い出すたび、今でも吐き気がする。



「教師から受けた激しいストレスから、奇崎君の幼く柔らかな子供の脳はエラーを起こし。

 本来ならばその愛情を傾けるはずだった君に、激しい生理的嫌悪を抱いてしまった。

 それが、医師の見解だ」

「そんな……

 どうにかして、治せないんですか。ほんの少しずつでも」

「残念だが──

 現在の医学では、完治は難しいそうだ」


 今でも覚えている。

 少し恥ずかしそうにクッキーをくれた時の、彼女の優しい笑顔。

 もう決して、自分に見せてくれることはない笑顔。

 あの笑顔は、一体どこで、ここまで壊れてしまったのか。


「勿論、病だったからといって、彼女が君にした行為の数々が許されるわけではない。

 しかし、彼女の拒絶の激しさから考えて──

 病が起こらず、彼女が君を普通に好きになっていたならば。

 もしかしたら、教師やクラスのいじめから君を守る為、全力で戦っていた可能性もあったかも知れない。私はそう思う」


 今では一切の表情を失い、ただ病院の真っ白な天井を見つめるばかりのまい。

 地村の視界で、まいの姿が涙で滲む。


「じゃあ誰が悪かったのか。原因を探るのは不毛だとも思うんだよ。

 突き詰めれば結局、その女性教師の腹に宿った子供が悪いなどという、ありえない結論になってしまうからね」


 あくまで淡々と話し続ける教師。

 しかし既に地村の耳に、彼の言葉は聞こえていなかった。

 ただただ感情の混乱に呑まれた地村は、まいの上で俯く。

 大きな目から零れ落ちる涙。それはまいがこうなる前、世界で一番嫌悪していたもの。

 ──まいを狂わせてしまった、悪魔のスイッチ。


 その涙が、まいの頬に落ちた瞬間。

 彼女の唇が、ほんの少し、動いた。



「う……

 い……いや……いやぁ……」



 まいの全身が、微かに震えだす。

 じっと自分を見つめる地村に気づいたのか。彼女は歯をカチカチ鳴らしながら、反射的に彼から視線を背けた。殆ど身動きが出来ないはずなのに、それでも視線だけはしっかりと彼から外れる。

 酷い絶望が、ゆっくりと地村の心を満たしていく。


 こんなになってまでも、君は未だに僕を拒絶するのか。

 いや。これは考え方によっては、愛情の裏返しなんだよな。

 実際、文字通り愛情が裏返って、こんなことになってしまってるんだ。

 だから、彼女が僕を拒絶すればするほど、その愛情は──


 まいを一心に見つめ続ける、大きな瞳。

 まいが一番嫌悪し続けた涙が、その瞳から流れ落ち、ひたすらに彼女の頬を濡らす。

 その涙の感触に震え上がりながら──

 少女の乾ききった唇が、微かながら言葉を発した。



「──キモイ」



 ──その一言が。

 こんなになってまでも、まいが放った渾身の一撃が。

 耐えに耐え続けてきた地村の心を、今度こそ完全に破壊した。







「……地村。地村、しっかりするんだ。どうした!?」

「いいよ、奇崎さん。もっと僕を嫌って……もっと僕を拒んでよ……

 君の言葉は全て愛情の裏返し。君が僕を拒絶すればするほど、君は僕を愛してくれている。誰も愛してはくれなかった僕を。僕はそんな君の愛をどこまでも──」

「地村! 奇崎君に何をする、彼女は身動きできないんだぞ!!」



 数分後。

 病室で暴れ出した地村は、老教師恩田と駆け付けた数人の看護師の手で、何とか取り押さえられ。





 それから、僅か数週間後──

 地村は鑑別所に送られていた。

 容疑は、奇崎まいへのストーカー行為。



 






 さらに、それから数か月後。

 ようやく人並の生活が可能になるまで回復したまいは──



 奥原家の前にいた。

 電柱の陰で息を潜め、ひたすら彼の──奥原の帰りを待ちながら。



「奥原君……私、知ってるんだよ。

 貴方もきっと私と同じ、愛情が反転した病気なんだよね?

 だから私のこと、あれだけ嫌ったんだよね?

 大丈夫。どんなに拒絶されても、私、ずっと貴方のそばにいるから。

 貴方が私を嫌うのは、とても大きな愛情の裏返しなんでしょう?

 だったら私、負けないよ。どんなに拒絶されても、それは貴方の愛だから──」



 彼女は呟き続けていた。

 完全に壊れた瞳で、奥原家の窓を見上げて。








****




彼女が彼を嫌悪した理由は、愛情を反転させる病だった。

しかし、では何故彼女は、別の男子を好きになったのでしょうか?

何事もなく地村を愛していたとしたら、今度は奥原にその嫌悪を向けた可能性は、ないでしょうか?



そもそも──

そんな病が、果たして本当に、存在したのでしょうか?



──当事者たちの心が完全に崩壊した今。

答えは、貴方の「嫌悪」の感情の中にしか、ないのかも知れません。






Fin

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だって、悪いの、あいつだもん。 kayako @kayako001

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