第3話 しんぱんのとき




 それから数週間。

 私への無視は一層酷くなり、遂にクラスだけでなく、学年中が私を無視し始めていた。

 殴る蹴るという暴行はない。ドラマでよく見る、トイレに閉じ込められて水をかけられたなんてこともない。

 だけど、知らない間に体操着を盗まれたり、机に卵をぶちまけられていたり。

 一生懸命やったはずの宿題をまるまる盗まれたりして、先生にしょっちゅう怒られるようになってしまった。




 ある日の帰り道。

 気が付くと私は、通学路の途中の大橋。その真ん中あたりで、ぼうっと川を眺めていた。

 日は既に傾きかけ、何台もの車がせわしく背後を通り抜けている。



 私は悪くない。私は悪くない。悪いわけがない。

 だって、悪いのあいつだもん。

 何度もそう呟きながら、川面を見る。

 川はいつも通り何も知らずに、夕陽を反射して穏やかに流れ続けていた。



 ──奥原君が、絶対に私と話をしてくれないなら。

 みんなが私を無視し続けるなら。

 昔のクラスのみんなさえ、私を助けてくれないなら。



 ──ここから飛び降りて、死んじゃおうかな。



 ふっとそんな思考が浮かび。

 私は橋の高欄に両手をかけ、身を乗り出した。



 だって、自分はひとつも悪くないのに、みんなが私を責めるなら。

 それは世界の方が悪いってことだもの。

 そんな世界には思い知らせてやるの。本当に悪いのは誰だったかを。

 私が死ねば、ニュースになる。学校中の問題になる。

 お父さんもお母さんもきっと泣きながら、まいが死んだのはいじめが原因だって、全てを擲って学校を責めてくれる。

 桧山だって私が死んだって聞けば、私を傷つけたことを絶対に後悔するはず。

 奥原君だって、今度こそ私を見てくれる。私と話をしなかったことを悔やみに悔やんで、僕が悪かったって、謝ってくれるはず。

 冷たくなった私の手を取りながら、キスだってしてくれるかも知れない──



 そう思ったら、少し高いと感じた鉄柵を乗り越えるのは簡単だった。

 車はひっきりなしに走り続けていたけど、誰も私を止める人はいない。

 柵の『外側』、ほんの少しだけ柵からはみだした道路の一部。そこに私は両足を下ろす。

 僅かな足場から少しでも前へ出れば、私の身体はそのまま、下まで10メートルはある水面へ真っ逆さまだ。

 ここへ至って、思わぬ高さに心臓が震えた。


 ──でも、これも、みんなに知ってもらう為なんだから。

 私は絶対に悪くないってことを。

 そして、本当に悪いのはあいつなんだってことを。


 そう決意を新たにした瞬間。

 私の身体は背中から風に吹かれ、ゆっくりと、『前』へと倒れた。

 両足が自然と、狭い足場から離れていく。

 あぁ、ごめんねお母さん。でも、悪いのは私じゃないから。

 悪いのは、全部、あいつで──







 だけど、お母さんに謝罪の言葉を放った瞬間。

 私の身体は突然、空中で止まった。



 右手首を何者かに強く掴まれ、そのまま全身が川の上で宙ぶらりんになっている。

 誰だろう。誰か私を助けに来てくれたのかな。

 やっと誰かが、私は悪くないって分かってくれたのかな。

 そっと視線を上げてみると、見慣れた学校指定の運動靴と、男子用の制服のズボンの裾が見えた。

 もしかして、奥原君が──?

 思わずそう期待して、もっと顔を上げてみる。



 次の瞬間。

 私の喉を、酷い悲鳴が切り裂いた。



「ひ……

 い、嫌、嫌、嫌ぁあああぁああぁああぁああああぁああッ!!!

 離して、離して、離せぇええぇえええぇええぇえっ!!!」



 私のすぐ上で、私の手を掴んでいたのは──地村。

 相変わらず気持ち悪い、大きな丸い目が、じっと私を睨みつけていた。



「だ、だって、き、奇崎さん……

 手を離したら、君、死んじゃうよ?」



 嫌だ。あの声、聞きたくない。

 あの丸い目。もう二度と見たくなかったのに。

 それに──

 私の右手首は、思いきり地村に掴まれている。

 それだけで、全身に鳥肌が立った。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、帰ったら手首を消毒しなきゃ、お風呂で全力で洗わなきゃ。

 いや、手首だけじゃ足らない。こいつに息をかけられたんだ、それこそ全身をきっちりキレイに──

 しかもこの手、汗ばんでいるじゃないの。こいつの汗がそのまま私の皮膚にべったりと?

 冗談じゃない、冗談じゃ……!!


「何で!?

 どうしてあんたなんかが、ここにいるのよ!?」


 気づいたらそう叫びながら、私はじたばたと両脚を振り回していた。

 掴まれた手を振りほどこうとして、反対側の手で思い切って地村の手を叩く。

 手を離したら私が死ぬ? 冗談じゃない。

 あんたにこれ以上触られているくらいなら、死んだ方がマシよ。


 そんな私の頭上から降ってきたのは、おどおどした地村の声。


「……だって、僕。

 前、ここで、自殺しようとしたこと、あって。

 今日、何となく気になって、来てみたら……

 奇崎さんが、いて……それで……!」


 柵の上から手を伸ばし、私の手首を執拗に掴んで離そうとしない地村。

 その丸い目はじっと私を見つめている。嫌だ、気持ち悪くてたまらない。


「助けなきゃって……思ったんだ。

 きっと、桧山君に言われたんだろ? 僕を追い詰めたのは、君なんだって」


 そうよ。桧山が根も葉もないことで私を傷つけて、奥原君と私を引き離して、みんなから私を無視させたんでしょう。

 それは全部、あんたのせいじゃない。

 あんたが全部悪い。あんたさえいなければ、あんたさえ私の前に現れなければ、私は今でも──!!


「確かに、奇崎さんに傷つけられたのは事実なんだ。

 でも、それは……」


 聞きたくない。あんたの声なんか、死んでも聞きたくない。

 そう思っても、声は容赦なく上から降ってきた。


「一番最初に、僕に優しくしてくれたのが、奇崎さんだったからなんだよ」



 ──は?



 思いもかけない言葉だった。

 私が、こともあろうに、あんたなんかに優しくした?

 一体いつ?



「君はもう、覚えてないと思うけど……

 僕が転校してきて、間もない頃。

 料理クラブで作ったクッキー、僕にも分けてくれてたよね」


 クッキー?

 あぁ……そんなこともあったっけ。

 そこそこ作ったつもりだったんだけど、とてもクラス全員には行き渡らなくて。

 自分の周りにだけ渡したんだっけ。

 その中には、転校してきたばかりの地村もいて。

 その時はこいつのこと、特に悪くは思ってなかったから──

 でも、さすがに男子にそのまま渡すのは恥ずかしかったから。ハート形のクッキーを半分に割って、渡したんだっけ。


「嬉しかったんだ。

 僕は、前の学校でもいじめられて……転校してきた。

 越してきた先でうまくやっていけるかどうか……すごく不安だったけど。

 君の笑顔で、救われた気持ちになったんだ。すごくふんわりした笑顔の子だなって……

 君がそばにいてくれれば、今度こそ、大丈夫じゃないかって……」



 川の上で宙づりになった状態でありながら──

 それは、初めてまともに聞く、地村の言葉だった。

 嫌だ嫌だと、身体は地村を拒絶しながら。

 頭のどこかで、声がする。



 ──地村も、いじめられて転校してきたんだ。

 だったら、私と同じじゃないか。



「でも……

 ある時突然君が、すごく冷たい目で僕を見始めて。

 僕は……どうしてなのか、さっぱり分からなくて」


 触れられた手を、どうしようもなく気持ち悪いと感じながら。

 それでも、頭の中で静かに声が響く。



 ──地村が、私に一体何をした?

 私にこれほど蔑まれるようなことを、いつ地村がやったというのか?

 居るだけで気持ちが悪い? そんなの、理由にしていいわけがないだろう。



「何かの誤解だと思った。

 きっと君は、僕が何か悪いことをしたんだと誤解して、それで僕を酷い目で見ているんだって……ちゃんと話せば、分かってくれると思った。

 でも君は、僕が話そうとしたらすぐに逃げてしまって。みんなも、君を追おうとする僕を全力で止めてきて……時には殴られて、先生には死ぬほど怒られた。

 だけど、やっとこうやって……まともに話が出来るね」


 大きな目が、眼前でニタリと笑う。

 悪魔の微笑みにしか見えなくて、全身に震えが走った。

 それでも、頭の中で囁く声は消えない。



 ──私が奥原君と話をしたかったように。

 地村も、私と話をしたかったんだ。



 同時に蘇ってきたのは、クッキーを渡した時の記憶。

 あの時私は──転校してきたばかりの地村と、仲良くなりたかった。

 どうして今まで思い出せなかったんだろう。確かに私は、地村と仲良くなりたかったんだ。

 その時には既に、地村に対するクラスの風当たりは強くなってはいたけど。

 先生も地村に対する苛立ちを隠さず、毎日のように彼を怒鳴っていたけど。

 でも、転校してきたばかりの彼を放っておけない。確かに目はちょっと大きいかも知れないけど、見ようによってはちょっと可愛いし。

 自分はいじめられて転校してきた。その痛みを知っているからきっと、地村のことだって少しは分かるはず。みんなが地村をいじめても、先生がどれだけ彼をいたぶっても、私はほんの少しでも──

 確かにあの時、私はそう思っていたんだ。



 ──なのに私は、彼に一体、何をした?



 先生に怒られて、地村が涙を流す姿が蘇ってくる。

 教室中に響く先生の罵声、しんとして地村を眺めるクラスのみんな、その冷たい目。

 教室の中心で、たった一人で俯いて耐える地村。床に落ちていく涙──

 その涙を見た瞬間、私の中で、何かが狂った。

 その時からだ。私の中で、地村への拒絶が始まったのは。



 つまり──

 涙が気持ち悪かった、ただそれだけの理不尽な理由で。

 私は彼を徹底的に無視し、傷つけ、あまつさえ、自分は悪くないと居直った。

 奥原君から拒絶されて当たり前じゃないか。

 一体何故、私はここまで、地村を嫌った?

 あの涙を見る直前まで、私は彼に、好意すら抱きかけていたのに。

 今も全身を襲う気持ち悪さはどういうことだ。彼に触れられているだけで、どうしてここまで嫌悪の感情が湧いてくる?



 自分だって、いじめられる痛みは分かっていたはずなのに。何故ここまで、地村を嫌った?

 地村に手を握られるくらいなら、死んだ方がマシだとまで──

 何故、死の間際に至るまで、そんなことを考えている!?



「……ごめんなさい。

 だけど、地村君。これだけは信じてほしい。

 私は貴方が嫌いで嫌いで仕方ない。でも、その理由が自分でも分からない!」


 自分勝手すぎる言いぐさだ。

 今それを言って、彼にどう思えというのか。

 それでも言葉は、次から次へと溢れ出る。涙と共に。


「今でもこうして手首を握られているの、滅茶苦茶気持ち悪いの。

 すぐにでも離してほしいと思ってる。そうすれば多分死ぬけど、その方がマシってレベルに──

 でも、その理由が全然、自分でも分からないの!!」


 ただでさえ大きかった地村の目が、さらに大きく見開かれる。

 駄目だ。私の言葉はどんどん彼を傷つけていくばかりなのに、それでも喉から叫びが溢れ出る。


「何が原因か分からないけど、私多分、心のどこかが壊れたんだと思う。

 だから地村君。お願いだからもう、私に近づかないで。

 貴方に近づかれると吐き気が止まらない。震えが止まらない。どうしようもないの!」


 それでも地村は汗だくになりながら、私の手を離そうとしない。

 恐らくもう、男子一人の手で橋まで引っ張り上げるのは不可能というレベルまで、私の身体は重力に引かれつつある。

 でも、地村は絶対に諦めようとしなかった。

 私の重みを必死で支えている右手。その肩あたりが鉄柵に挟まれ押しつぶされかけているのか、白いワイシャツに僅かに血が滲み始めていた。

 その必死な顔にまでも、血にすらも、私は酷い気持ち悪さを感じていた。

 だけど──

 今、やっと気づいた。

 一番嫌だったのは……そんな自分の、醜い感情。



 私は一体今まで、何を見ていたのか。

 これほどまでに必死で、私なんかを助けようとしている男子に。

 これほどまでに傷つけても、私を助けようとしてくれている男子に。

 どうして私は、ここまでの嫌悪を──



 掴まれた手首から、悪寒が止まらない。

 どうしても離れてくれない彼の手を、強引にでも引き剥がす為に。

 私は掴まれている方とは反対側の手で、思いきり彼の手首を引っ搔いた。


 嫌。そんなことをすれば地村の体液が、皮膚が、自分の爪に残ってしまう──

 そんなの絶対に、嫌!


 一瞬そんな思考に至った自分を振り払いながら、私はがむしゃらに地村の手首に、自分の爪を食い込ませていた。嫌がる自分の手を、力づくで。

 何を考えていた、私は。

 何故、どうして、これほどまでに私は、彼を嫌った!?

 まるで蜥蜴みたいに──いや、蜥蜴だろうとこれほど拒みはしないというレベルで。

 自分の頭が分からない。自分の心が分からない。

 なら──これ以上、彼を傷つけないようにする方法は、一つしかない。



 地村の皮膚に刺さった私の爪の間から、鮮血が噴き出す。

 それでも私は構わず、憎悪をいっぱいに籠めて、そのまま地村の皮膚を引き裂いた。

 それは自分への憎しみなのか、地村への嫌悪なのか。それすらも、分からない。



 もうこれ以上、貴方は私に関わっては駄目。

 どうしてか分からないけど、私は貴方を拒絶することしか出来ない。

 貴方がどれほど私と話そうとしたところで、私は貴方を傷つけてしまうだけ。

 だから──こうするしかないの。

 これ以上、私が貴方を傷つけない為に。

 貴方が私から、傷つけられない為に。



 激痛のあまり、酷く顔をしかめる地村。

 その腕から、遂に、力が抜ける。

 当然その瞬間、私の腕は地村の手から滑り落ちて──

 遥か下、夕陽輝く水面へと落下していった。



「──貴方が嫌いだっていう気持ちが、逆だったら。

 私も貴方も、これほど傷つかずにすんだのにね」



 その言葉が地村に届いたかどうかも分からないまま。

 私の意識は、衝撃と共に消失した。






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