第3話 教師

 いってらっしゃい、と妻の声が部屋の向こうから聞こえる。横山は今日も妻の作った弁当を片手に仕事に出かける。

 体育教師の朝は早い。

 運動部は朝練をしに、早くから登校してくるからだ。

 その他、学生よりも早く教師だけでミーティングや早朝礼拝がある。

 とにかく忙しい。そして夜まで仕事だ。

 帰宅時間は22時を過ぎることがほとんどだった。

 それもこれもすべて家庭を守るためであった。

 

 横山の、玄関戸のとってを握る手が震える。

 妻が奥から心配そうに見つめていた。

 横山はなにか重たい石でも身体全体にのしかかっているかのように、なかなか出勤への一歩を踏み出せずにいた。

 

 横山が私立聖心女学校の体育教師として赴任した頃、もっと身軽に通勤していたはずだった。

 あの頃はまだ結婚しておらず、若々しかったこともあるかもしれない。

 生徒たちの覚えも良く、我ながら人気のある体育教師だったと思う。

 スポーツが好きで、プロ選手になることは諦めたが、未来ある学生たちに身体を動かすことの楽しさを伝えるのは楽しかった。

 人生が楽しく、そんなときに当時付き合っていた今の妻と結婚することになった。

 薬指にきらきらと収まっている指輪をみて、これから家庭を持つ覚悟を決めたものだった。

 生徒たちと接することが辛くなったのは、担任をしていたクラスの学生たちが卒業していき、新しく進級してきたクラスの子たちを受けもつようになってからだった。

 その子達にも自分の熱いスポーツ愛が伝わるように、同じように接した。

 きっと前のクラスの子たちのように伝わってくれる、はずだった。

 ところが生徒たちは何も反応を返さない。

 打っても全く響かないとはこのことだった。

 それどころか、思いもしない不協和音が響いた。

 生徒たちは横山の悪口を言い始めたのだ。

 陰で聞いた話によると、暑苦しいだの、不細工だの、奥さんは何であんな男と結婚したのかなどと、ときには聞こえるように陰口を叩くのだった。

 横山は全身を打撲したかのような心地がした。

 前は伝わっていた筈の自分の気持ちが暑苦しいと一蹴され、全く学生に伝わっていなかったことが衝撃だった。

 今思えば怒りが先に来ても良いものだったが、学生たちの二面性に驚愕するばかりだった。

 何故学生がそう反応したのか暫く考えてみたがよく分からなかった。

 他の教師は何も反応が無かった。

 横山は学校では仕事こなしながら、ひとりで考え込むほかなかった。

 あまりにひとりで抱え込み過ぎたあるとき、妻がポツリといった。

「私と結婚したからかな」

 つまり、女子生徒達の感覚では今までチヤホヤしてきたのは体育教師としての横山に魅力を感じていたのではなく、独身であった横山として魅力を感じていたのではないか。

 つまるところ、横山は女のプライドに切って捨てられたのである。

 横山は愕然とした。

 まるで生徒から裏切られたように感じた。

 それまであった生徒への愛情が、一気にふつふつと熱く沸るものへと姿を変えていった。

 横山のなかで、女という生き物に対する黒く濁った溶岩がどろどろと流れ出ていくのだった。

 玄関戸のとってをぎゅっと握って、今日も出勤への一歩を踏み出した。

 


 運動会へ向けて学年ではリレーが行われる。

 その説明のために、体育の授業を利用して実践的に手本を見せる必要があった。

 休みを使って横山自身がちくちく手縫いしたリレーの襷を練習用に使う。

 生徒達を見回しながら説明していると、ある生徒がじっくりと手渡した襷の縫い目を眺めていた。

 横山は咄嗟にその生徒に近づいた。

 中西、なにか文句でもあるのか?とドスの効いた声で尋ねた。

 中西は目をぱちくりと瞬きながら、「いえ。先生、手先が器用なんですね。私、家庭科の成績悪いから…」とモゴモゴ言い出した。

 暫く中西を睨んでやったが、それ以上何も言わないのでそのまま授業に戻った。

 上手く誤魔化されたものだ。

 どうせアイツも後で悪口を言うことだろう。

 放課後、職員会議の大部屋へ向かう途中、中西がもう一人の女子生徒と廊下で立ち話をしているのを見かけた。

 横山は思わず立ち止まって様子を伺った。

 主に話しているのは中西ではなく、もう一人の生徒のようだった。

「今日さ、美術の時間が憂鬱だった…ほら、中西さんも美術選択してるから分かると思うけど、例の美術のTNGがね…」

 美術教師の谷口のことのようだった。

「え?あ、ごめん、内田さんの席と私の席結構遠く離れてるから、ちょっと何があったのか知らないんだけど、何かあったの?」

「うん、もう最悪だよー。今日さ、金槌使ったじゃん?あれ本数少ないから、2人一組になって交代で利用することになってたのに、私と一緒に組んでた小山さんが上手く金槌使えなくて作品できないーっ!って泣き始めたのね」

 内田は教師の前ではかなり大人しめの生徒だったが、友人の前では普通に話すことができたのか。

「そしたらTNGが小山さんだけを別部屋に移してさ、私も使う予定だった金槌も一緒に持って行っちゃったのね。でもそれまで小山さんがずーっと金槌持ってて、一度も使わせて貰って無かった私は作品づくりが一向に進んで無かったの。進捗度0よ!0!」

「うわぁ〜それは成績に響いちゃうね…」

「そう!それで、そりゃあ小山さんは可哀想だとは思うけど、私にも思うところがあるからTNGに小山さんへの愚痴を言ったら、『そんな酷いこと言うなんて!』って怒られたの!で、私の方は他のペアに入れて貰って、三人で金槌シェアして、ゼロからようやく作り始めたの。その頃にはもう皆半分くらいまで終わってるんだよ!?それで他の人は二分の一のペースで進めてるのに、ゼロから作り始めてた私は三分の一のペースで進めてるから、当然期日までには完成しないじゃん?そしたら私の進捗を見たあの女が、『なんでそんなに遅いの!?』って叱ってきたのよ!」

「いや、『そんなのお前の采配のせいだろ!』って思うよね〜。内田さんの方は置いてきぼりじゃん」

「そうだよね!?ホント最悪!」

「私も今日体育の授業で横山がさぁー…」

 きた。いつか来ると思っていた。この手の話は飛び火するのだ。

「手縫いのリレーの襷持ってきてて、それが私よりもずっと上手いのよ!男性なのに、って言ったら問題あるかもしれないけど、私、女なのに裁縫下手だから悔しくてさ。すごいなぁ〜と思って縫い目を眺めてたら、横山が近づいてきてめっちゃ凄むの!それで、『なんか文句あるのか』だってさ。なんか怖かったわ…。

 みんな自分の正義で決め付けて勝手に裁くの、やめて欲しいよね〜。自分が間違ってるのに気付かないんだね…」

「そういえばあの美術教師、前に叱った生徒がツンケンした態度を取ったとき、『的を射た叱られ方をしたとき、思春期の子って不貞腐れるから』とかなんとか言って納得してたわ。いやそれ的を射てないときも普通にあるから!」

 二人の女子生徒の声は、だんだん遠ざかっていった。

 何が悪い。

 横山は立ちすくんだ。

 お前らを警戒して、威圧して、何が悪い。だって最初にお前らが、女子生徒側がみえない拳を振るったんだ。

 お前らが教師を攻撃できて、オレ達教師側が攻撃できないのはおかしいだろ。

 社会的立場に縛られて、メンタルがボロボロになって果てには自殺するまで追い詰められても、教師だから仕方がないのか?

 教師だって人間だ。

 

 横山の中でもうひとりの自分が囁いた。

 −中西は、自分のことを虐めてきた、自分が受け持っているクラスの生徒では、なかった。

 横山は頭を振り、その声から逃れようと会議室へ向かっていった。

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女子校 ただようほこり @tadayou-hokori

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