第19話 月下に咲く
心配事が消えたからか、今日中と言いつけられた仕事はみるみるうちに片付いた。
忌々しいファイルと共に『ご確認お願いいたします』と課長に送りつけたところで業務が完了した。
「夢子さん。手伝ってくださってありがとうございました」
「いいえ~」
沈黙。
終わったことを伝えたら夢子の言っていた『ちょこっと時間が欲しい』要件が始まるのかと思っていたのだが、一向にその気配はない。
彼女の様子を確認するも、帰り支度はとうに終わっていて、時間を持て余しているようだった。
「……夢子さん、あの」
「わかってます、わかってますよぉ。なんで時間をくれって言ったのか気になるって言うんですよねぇ?」
「はい」
「今まとめてるんでぇ」
「わかりました。待ってます」
そういうと夢子はこめかみを抑え、うんうん唸り始めた。
余程話しにくい内容なのだろうか。
首を左右に傾け悩んでいた様子だったが、「考えてても仕方ないし……」という小声が聞こえた。
彼女は息を長く吸って吐き、私の顔を見た。
「先輩って、久慈のこと好きなんですかぁ?」
「えっと、好きでも嫌いでもないですけど」
この手の話題は今週に入ってから三度目である。
裏でどんな噂が広まっているのだろうか。夢子から聴かれるなんて相当だろう。
そんな私の反応がお気に召さなかったのか、彼女はぷくっと頬を膨らませた。
「……だって。……だって! 今日プレゼント、渡してたじゃないですかぁ!」
「いや、この間誕生日聞いたので。プレゼント渡さないのは失礼かな、と思って」
そう弁解してみるも彼女の納得いく答えじゃなかったらしい。
急に怒ったかとかと思えば、彼女は顔を俯かせ、それ以上言及してこなかった。
……と、いうより返答が返ってこない。
不審に思っていると俯いた彼女から鼻を啜る音が聞こえてきた。
「……待ちます、って言ったのに。待てない自分が卑しいって、分かってはいるんです。でも、それは、久慈がここに配属される前の話、だったから」
途切れ途切れでも伝えようとして、彼女は大きく息を吸う。
「先輩が、他の人のこと好きになっちゃったら、どうしようって、思ったら、すごぉく嫌で……」
涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっている彼女にティッシュを渡した。
彼女はそっと受け取ると勢いよく鼻をかむ。
「久慈って最初、嫌な奴なのかと思ったんですよぉ? 私の名前、間違えたりするし! なのに、中身は悪くなくて。……顔だって、まぁ、かっこいいほうじゃあないですかぁ。自分と比べちゃって。……私、性格悪いから」
自分のこと性格悪いと思っていたのか。
夢子から想定外の言葉が出てきたので思わず笑ってしまった。
「な、なんでわらうんですかぁ!!」
「すみません。自分のこと性格悪いって思ってたんですか、と思って」
「だって、人の恋路を邪魔しまくってるのって性格悪くないですかぁ?」
「そうですかね?夢子さんのこと性格悪いって思ったこと……」
そこまで言ってはた、と思い出す。
そういえば彼女が配属になったばかりの頃は、『性格悪いな、なんだこいつ』と思っていたな、と。
「慰めてくれてるんですよねぇ? そうなんですよねぇ? なんでそこで止まるんですかぁ???」
先ほどまでの涙はどこへ飛んで行ったのか、夢子は早口でまくし立てた。
顔もすごい剣幕になっている。
これは変に誤魔化さないほうが自分のためだ。
「いえ、前は思ってましたけど。……夢子さん、猫被ってましたし。でも今はそんな風に思ってませんよ。自分が良いと思ったらしっかり行動に移せるところとか、物をはっきり言うところ、尊敬してますよ。……まぁ前も今も、思ったことをはっきり言うところは変わってないですけれど」
私の返答を聞くなり、彼女は尖らせた口を緩めた。
「……へぇ。へぇー。そんなふうに思っててくれたんですねぇ」
「はい。なので安心してください。性格は……多分、悪くないです」
「そこは言い切ってほしかったですかねぇ」
彼女はそういうとはぁ、と、どこか満足そうなため息をついた。
彼女と話しているうちにずいぶん時間が経ってしまった。
あいにく今日は金曜日ではないし明日も仕事ということで、彼女と一緒に駅へと向かった。
オフィスから駅までの道は閑散としていた。
いつも人通りが多い道ではないが、時間が遅いこともあり、さらに人気がなくなっていた。
駅前の喧騒が近づいてくる中、夢子は足を止め「いのり先輩」と声をかけてきた。
「その。今日聞きたかったことなんですけどぉ……まだ、あるんですよねぇ」
「あれ、そうだったんですね。何でしょうか?」
「ここだとあれなんでぇ。そこの公園、寄ってもいいですかぁ?」
彼女はちょうど通り過ぎようとしていた公園を指さす。
……以前、彼女と冷め切ったコーヒーを飲んだあの公園だ。
「長くはならないんでぇ」
「わかりました」
私の返事を聞くと、彼女は安堵の表情を浮かべた。
「はい。どーぞ」
「ありがとうございます」
夢子からカフェオレの缶コーヒーをもらう。
どこか浮かない表情の彼女が重たい口を開いた。
「その。……返事の件、なんですけどぉ」
返事、という単語を聞いた途端体が硬直した。
鏡で見ていないのに自分が今相当暗い顔をしているのだろうな、と夢子の反応から容易に想像できてしまった。
話そうとして口を開きかけるも、ぐっと口を噤む。
「先輩っていつも何か言おうとして、止めてますよねぇ」
「……そんなこと」
「ぜぇったいあります。ずっと見てきたんですよぉ? 分かりますよぉ」
そんなことはない、と言いたかったけれど、言おうとしてやめたことを彼女に見透かされている。
尚も口を割らない私を見て彼女は言葉を続けた。
「なんで、言おうとしたこと、言ってくれないんですかぁ?」
「私は、……その」
自分の感情を言っていいのかわからない。これが自分の立場で許されていることなのかもわからない。
こういう時、母は決まって私に言った。『いのり。意見しないの』と。
貴女の意見はいらない、と言われ続けてきた。思ったことを言えず、心を押し殺す。
……いつもそうだったから。
そんな私に夢子がそっと話しかける。
「あの、先輩。先輩が『私』自身を見てくれたみたいに、私も『先輩』自身の言葉を聞きたいです」
聞いたこともないような優しい声だった。
迷子の子供に話しかけるような、そんなどこか慈愛に満ちた声。
彼女に返事をしないのは、ずっと引き伸ばし続けることは、失礼だ。
私は決心して彼女に向き合う。
「すみません。気持ちはうれしいのですが……私には、その、夢子さんが言う『好き』が分からないんです」
「……先輩は好きが分からない。別に私のことが嫌いなわけではないってことですかねぇ?」
「はい。嫌いではないです」
「じゃあ、今はそれでいいです」
「それと……」
「それと……? なんですかぁ?」
「えっと」
急にこんなことを言ったら混乱させてしまうかもしれない。『好き』が分からないことだけが理由じゃないということを。
上手く言葉が出てこず、口の開閉を繰り返す私を見て、夢子はふっと笑った。
「『先輩』の言葉がまとまるまで待ってますんでぇ」
「……ありがとうございます」
頭で文章を構築する。
夢子はそんな私を待ってくれた。茶化さず、何も言わず。ただじっと私を見つめながら。
「もし、私が、貴女のことを貴女の言う『好き』になっても、私は貴女と一緒になることはできないです」
「……」
急に話し出した私の言葉に彼女は耳を傾けた。
「その、私は。私には、許婚がいるんです。だから、無理です。」
やっとの思いで吐き出した言葉に対して、夢子はなぜか安心したようなため息をついた。
「そんなの、無理かどうかなんて今決めないでくださいよぉ。許婚がいても、私が勝てばいい話じゃないですかぁ」
「えっ……?」
「そんな理由で諦められるほど、私、さっぱりしてないですよぉ?」
そういうと彼女は大きく背伸びをする。
どうやら私の言葉を緊張して待っていたらしい。肩を軽く揉みながら「あー、よかったぁ!」と声を上げていた。
「…えっ? どうしてですか?」
「だってぇ、先輩が『本当は夢子さんのこと興味ないんです』とか言い出さなかったから。よかったぁって」
「そういう問題なんですか?」
「そういう問題なんです! 先輩、『好き』の反対は『嫌い』じゃあなくて『無関心』なんですよぉ?」
成程、だから彼女はあんなにも私の言葉に警戒を示していたのか。
「だから、先輩が私に興味がないわけじゃないって分かったんで安心しましたぁ! 私のこと、特別な『好き』になってもらえるように頑張りますんでぇ!」
――恋する女性は綺麗だ、とはよく言ったものだ。
月下の元、ほころぶ笑顔を見てふとそう思った。
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