第1章 エピローグ1

 カナカナカナと鳴くヒグラシからリーンリーンと響く秋の虫へ鳴き声が変わり始めたにもかかわらず、日中はいまだに汗をかくほどに気温が高い。年々、残暑が厳しくなるが、虫達の季節感に狂いは全くない。さらに水辺に見えるカエルもまだまだ元気に鳴くのだから、何時になったら秋がやってくるのかと不思議に思う事がしばしばある。しかし、何時からか夏は長くなり秋が短くなってしまったのだからそれも当然と受け入れるしかない。


 東京二十四区スポーツセンター体育館。


 威圧感鋭い役所三棟の隣に人工的な自然を作り出したその一角、バスケットボールのコートが二面入る大きさの体育館で八神は汗を流していた。

 この日は二十四区”ニュー・ヒューマン”課が一日借りたので、それならばとこの場で汗を流していたのだ。


 ランニングシャツの下には八神達”ニュー・ヒューマン”の力を抑える為の黒いボディースーツが着こんでいるところが本気度を現していると言ってもいいだろう。


 本来、ボディースーツはバッテリーを使って身体能力を上げる目的で作られている。特に肉体労働では絶大な効果を発揮している。

 しかし、八神達”ニュー・ヒューマン”は人以上の筋力を持っており、そんなボディースーツは邪魔になるほどだ。

 そこで逆の発想でボディースーツを作ってみた。身体能力を上げるのではなく逆に身体動きを阻害させようと考えた。昔ながらに言えば、某アニメで有名になった大リーグ養成ギプスみたいな物と考えても良いだろう。一般向けに能力を落したボディースーツが販売されており、スポーツ選手が簡単に体に負荷を与えられるとこぞって採用されているのも興味深い。

 ただ、生半可な繊維ではすぐに壊れてしまう為に八神達は頑丈な特別製を受け取っている。


「どうだ、少しは慣れたか?」


 体に負荷を掛けて汗まみれになった八神は、きらきらと光る汗をタオルで拭いながらゆっくりと歩いてくる女性に声を向ける。


「何とかね。一か月半も厳しかったわ。うっかりと力を出しちゃうときがまだあるけどね」


 その女性、”ニュー・ヒューマン”に成った染谷明音そめたに あかねは光る汗をそのままに言葉を返す。尤も、体の動きに全神経を注いでいたので少しでも邪魔になる物を排除していたのだからタオルなど持っていないのである。

 そして、彼女も女性特有の起伏を見せるティーシャツの下に黒いボディースーツを着込んでいる。

 明音の場合、八神と違って負荷を掛けた運動では無く、負荷が掛からない様に力を押さえる訓練の為に着ている。そう、ボディースーツを着なくても社会に混じって生活できるように、である。


 あの事件から約一か月半。彼女の夏休みをすべて使い、訓練を行っていた。

 その訓練の仕上げとして、この広いスポーツセンターを借り受けているのである。


「あれから一か月半だもんな・・・。伊央理も元気そうだな」

「おじちゃん、こんにちは」

「オレは無視かい!」


 八神にゆっくりと近付く明音。

 一通り試験が終わったと見て、妹の伊央理がタオルを持って明音に駆けて行く。

 その後ろに保護者の様に立っていた中村には当然の様に声を掛けないのだが、それが不満の様でしかめっ面で八神を睨むのであった。


 ”ニュー・ヒューマン”と成った明音とは違い、妹の伊央理は体の不調も無く、夏休み中も元気に遊びまくっていた。当然、出された宿題はこなしながらである。


 伊央理も一応、被害者である。

 水槽の中で吸気マスクを着けた状態でぷかぷかと浮かべられ、実験の被験者にされていた。しかし、被験者となったのが短期間だったからか、早くに水槽から出され吸気マスクを外されたからか、後遺症が無かったのは幸いだった。

 伊央理の他に三人助けられたが、二人は意識が戻ることなくいまだに植物状態である。


 そして、”成りそこない”の体に成っていた一人は伊央理達から遅れる事半日後に水槽から出されたが、逃げ出したアナトリーが研究所の電源を落としていたらしく、装置が稼働していなかったので、その影響をもろに受けて既に息絶えてしまっていた。

 そう思うと、伊央理を助け出したタイミングはギリギリだった。依頼を完遂できてよかったと今でも思うのだった。


「ここは俺達が使っているんだ、部外者は引っ込んでろい」

「って、誰が部外者だ。オレ達特殊刑事課だって関係者だ。だろ、沢渡。それに飯田だって頷いてるじゃないか?」


 伊央理の保護者として振る舞っている中村には、八神はどうしても辛辣な言葉を向けてしまう。部外者と言うのは冗談としても、何処からどう見ても孫と遊んでいるお爺ちゃん、と見えるからだ。そうなると、どっちが保護されているのかと、この場合は介護されているかわからなくなってしまう。

 まぁ、背筋が曲がっていない姿勢を見てもその年齢とは言えないだろう。


 そして、中村の後ろから彼と同じ職場の沢渡とニュー・ヒューマン特別課の飯田がそんな事を聞くなと言いたげな表情で顔を揃える。

 沢渡と飯田は明音の訓練課程の管理や身体の調子を見てる。研究もしているが。

 中村と違って完全な関係者である。


「伊央理もお姉ちゃんも元気!」

「そう、二人とも不調はない。健康そのものだよ」


 汗を拭いた明音と伊央理も八神達に近づくと、先程の問いかけに伊央理がハニカミながら答える。誰の目から見ても夏休みに全力で遊んで元気一杯だとわかるほどに。そして、その言葉を肯定するように、飯田が言葉を添える。


「なら結構。明日から学校だけど大丈夫か?」


 八神の言葉の通り、夏休み、つまりこの日はは八月の晦日である。今は晦日など言わぬと思いながらもそう脳裏に浮かんだのだから仕方ないと思うのだった。


「う、うぅ。遊び足りない……」


 高校生の明音はともかく、”一か月じゃ足りない”と思う伊央理はずんと一気に気持ちが沈み、情けない言葉を漏らしてしまう。言葉もそうだが、身体で表したその気持ちも本気に遊び足りない、そう思うに十分だった。

 だが、プールで遊びまわった証拠である、こんがりと焼けた素肌を見れば誰でも笑いながら遊び過ぎだと言うだろう。


 そして、検査、訓練で夏休みがほぼなかったと言ってもいい明音は少し可愛そうとは思うが、逆を言えば充実した日々を送った裏返しとも言えよう。その甲斐もあって、良好な結果を出したと飯田から太鼓判を押されていた。


「それだけ焼けてるんだから十分遊んだんだろう?」

「そうだけどぉ……」

「これからの事も少しお話します。お二人に付いているSPは継続されます」


 伊央理のが遊び足りないと落ち込んでいるのはそのままにしておくとして、明音と伊央理の二人は国家から重要人物と認定された。重要人物は八神も同じであるが。

 明音は飯田の研究対象である”ニュー・ヒューマン”と成ったのだから当然の事であるが、伊央理の理由はそれとは全く異なる。

 理由は簡単だ。白衣の男、生きていてもお構いなしに被検体にするアナトリーの手によって、”成りそこない”にされてしまった、かもしれないのだ。三人しかいない貴重なサンプルの一人を何の監視もつけずに解放出来ぬのだ。

 尤も、最低でも途中経過を記録しなければ死んでも死にきれないと飯田が言い放った事が切っ掛けになったのは当人にはナイショであるが。

 さらに明音の妹である事。つまりは近親者である事も理由である。


「仮に伊央理ちゃんが捕まってしまうと明音を脅して、持ってる力をあらぬ方向へと使われる可能性があるからな」

「その通りです」


 口を挟んできたのは眼鏡をきらりと光らせた飯田である。このくそ暑い最中に白衣を羽織っている変り者だが、その指摘は適切である。

 今八神に代表される”ニュー・ヒューマン”となってる者達は、身体能力に特化している。怪力だったり、頑丈だったり、八神の様に身体の組成を変えてしまったりする。しかし、明音は身体能力に特化している訳ではなく、空気中の毒物を中和してしまう能力に目覚めていた。仮に、毒を撒いた部屋に宝石を置いていたとしたら、明音だったら毒を無効化して堂々と盗むことができる。尤も、明音にそんな考えは無いようだが。

 だから、その能力を犯罪組織が持つことを防が無ければならない。


「ですが、明音さんが”ニュー・ヒューマン”に成った事はなるべく公表しないので、狙われる事は少ないと思います」


 念のためのSPであると沢渡は告げる。

 ちなみにであるが、姉妹にSPが付き添う事は両親には説明してあるので、何の問題も無い。


 その姉妹の両親であるが、事件のあった日から十日程で日本に帰って来た。会社からの帰国命令ではあったが、その裏には日本政府の意向があったのは公然の秘密ではある。


 帰国した両親には、事前に事件に巻き込まれたと伝えてあったために無事な二人の姿を見て泣きながら抱きしめていた。そして、そのまま日本に留まって姉妹の傍にいるべきであろうと考えるのは極自然な事であろう。今まで姉妹をほったらかしにして海外に活動の場を求めていただけに。

 しかし、姉妹にSPが付くと聞き、頭を下げて政府での保護を有難く思うのだった。

 当然、明音が”ニュー・ヒューマン”へと成り、重要人物と認定されどうするかと悩んだ。日本へ残ると言い掛けたが、明音と伊央理が今まで通りで大丈夫と伝えた為に再び海外へと旅立つ決心をした。日本への帰国する頻度をもう少し増やそうと決意をして。


「それなら、大丈夫だろう。問題があるとすれば学校の方か?」

「そっちは大丈夫よ。受験勉強もばっちりヨ」


 高校三年生である明音は訓練の間もしっかりと受験に向けた勉強を行っていた。目標としている大学への学力は順調に付き始めておりこのまま推移すれば無事に合格できるところまで来ている。政府から派遣された人材が優秀なのは言うまでもない。

 その途中でも訓練は続けられ、力の加減が上手く行かずに何本もペンを折っていた。その数は三桁では納まらないかもしれないのは内緒である。


「武士の情け!」

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