第一章 海辺の町、新しい生活(1)

 傾斜の土地に多くの家々がすし詰めになって建てられていて、港には旗を掲げた船が何十隻と泊まっている。岸から海へと伸びている灰色の道は「」と言うらしく、それに寄り添うようにあるあれがテトラポッドで、波止の先の方に見える赤い建造物が灯台であるらしい。遠い海面にはいくつもの畳みたいなものが浮かんでいる。「あれはの養殖をしているんだ」と、これもお父さんに教えてもらった。

 この高台から望める景色は確かに海辺に違いないのだけど、私が想像していたものとは随分と様子が違っている。

 白い砂浜に青い海、道路沿いにはヤシの木なんかが生えていて、どこからともなくレゲエの音楽が聞こえてきている。そんな海辺の町を想像していたから。

 レゲエの代わりに聞こえてくるのはバイクや車の騒音ばかり。すぐ下を通る曲がりくねった道はなんでも走りの名所であるらしく、時折聞こえてくる悲鳴じみたタイヤのスリップ音はそのたびに私の心を不安にさせてくる。

「海辺の町」と言うより「漁港町」と言った方が適当だと思う。私たちの新居──借家──はそんな漁港町の中にある。一体どれがそうなのか、どの辺りにあるのか、まだちゃんと把握できていないけど。

「どうした? なにか面白いものでも見つけたか?」

 そう後方より声を掛けられ振り返る。くすんだ白の建物を背にこちらへと歩み寄ってくるお父さん。その頭にはタオルが巻かれていて、着ているTシャツは汗を吸って薄く地図を浮かせている。

 とてもじゃないけど喫茶店のマスターには見えない。まぁ、今は古びたお店の整理中だから仕方がないのだけど。

「ううん」

 私は首を横に振る。

「なんでもないよ。ちょっとぼぅーっと見てただけ」

「そうか」

 お父さんは私のそばまでやってきて足を止めると、ついさっきまで私がしていたみたいに景色を眺め始めた。私はそんなお父さんの横顔をじぃーっと見やり、なんだか知らない人みたい、なんて思った。

 平日はワイシャツにネクタイを結んで背広を着込み、休日は年相応の落ち着いた身なりでいる。そんなどちらかと言えば地味な方だったお父さんは、今や無精ヒゲなんかまで生やしていてまるで別人みたいだ。

 前の落ち着いた感じのお父さんも別に嫌いじゃなかったけど、今のカッコいい感じのお父さんの方が私としては好みだったりする。どこかき活きしているように見えるし。

「どうした?」

 私の視線に気付いたみたいで、お父さんはこちらを見やり聞いてきた。

「うん。なんだかお父さん、活き活きしてるなって思って」

 私はそう正直に答える。するとお父さんは小さく笑った。

「まぁ、夢だったからな」

 そう言って、お父さんは再び遠い景色を眺める。そして語り始めた。

「定年後に、って考えてた頃もあった。けど、それってどうなんだろうって。本当にやりたいんだったら今すぐやるべきじゃないのか。定年後とか明日からとか次とか今度とか、いまできていないやつがどうしてできると思うのか。できるわけがない。その頃にはもう俺は熱をなくしてしまっていると思う。だから踏み切った。まだ熱があるうちに」

 ある言葉に落ち込む私をに、お父さんはさらに続ける。

「お母さんの実家がこっちにある。そんな理由もあってここを選んだ。まぁ、まなむすめは完全にそとだったけど」

 そう言って、お父さんはこちらを見てくる。

「嫌だったか?」

「え?」

「転校することになって嫌だったか?」

「ううん。全然嫌じゃない」

 私はそう正直に答える。嫌なはずがない。むしろうれしかったくらいだ。だって、あの地獄から逃れられたのだから。

 するとその時、砂利を踏み付ける音が聞こえてきた。その方へと振り返ってみると、そこには坂を上ってきた車が一台あり、その運転席にはお母さんの姿があった。

「ちょっとあっちで休憩しよう。お母さんに飲み物を買ってきてもらったから」

 お父さんはそう私に言って、買い出しから戻ってきたお母さんの許へと歩み寄っていく。そのあとを私は少し遅れてついて歩く。

 そんなこんなでスタートした私たちの新天地での生活。……ううん、違う。私はまだスタートラインに立っていない。明日から転校先の高校に通うことになる。そこが私のスタートラインだ。


 ──いまできていないやつがどうしてできると思うのか。できるわけがない。


 お父さんのその言葉はズキリと来るものがあった。向こうの学校で失敗した私は、今度もまた失敗しちゃうのかなって……。けど、私は決意する。

 もういじめられたくない。もう失敗したくない。だから、もう誰にも逆らわない。友達だっていらない。たった一度断っただけで関係がひっくり返ってしまう友達なんていう危険なものは私には必要ない。

 そう自分に強く言い聞かせる。私はもう失敗しない──。


    ※※※


 真新しいセーラー服を身にまとい、そんな私の心臓はドキドキと落ち着かない。黒板を背に立っている私のことを注視してくる数多あまたの目。こういう見世物みたいなのはやっぱり苦手だ……。

 私の隣に立っている担任の西にしかわ先生は、今日からクラスメイトになる二年二組の生徒たちに私のことを紹介してくれている。お母さんが関西出身なので私にとって関西弁はそれほど珍しい言葉じゃない。けど、こんなに忙しい関西弁は初めて聞く。

 まるで目の前に透明の台本でもあるかのように、西川先生は休むことなく口を動かし続けている。口から先に生まれたような人というのはこういう人のことを言うのかな。

「──ちゅーわけや。みんなおいかわさんと仲良ぉーしたってなぁー」

 ずっと続いていた私の紹介がようやく終わり、私はほっとあんした心持ちになった。やっとこの見世物から解放される。そんなふうに思って気を抜いたわけだけど、そんな心の安らぎはつかのものでしかなかった。

「なんやそれ! 先生しかしやべってへんやんけ!」

「ほんまや! なに一人で悦ってんねん! ええカッコすんな!」

「そっちの子ぉーにも喋らしたりぃーや。ぜんぶ先生が喋ってもうたけど」

「それな。転校生の見せ場、奪ったんなって」

「まぁまぁ、みんなあんまし先生のことイジったんなや。自分が担任してるクラスに転校生が来て浮かれてんねん。ほら見てみ。髪切ってきてるやん。新しいスーツ着てきてるやん。どっちが転校生か分からんくらいピッカピカやん」

「分かるわ! あんなおっさん転校生がおってたまるか!」

 どっ! と沸いた笑い声で教室が揺れる。ワーワーキャーキャー、みんな好き勝手に盛り上がっている。

「それもそうやな。悪い悪い。追川さんの見せ場、完璧に忘れてもうてたわ」

「そこは絶対に忘れたらアカンとこやろ! なにしてんねん、たかし」

「なに呼び捨てしてんねん! ワシは年上やぞ! さん付けせんかい!」

「たかしさん」

「おっ、どないした?」

「変わり身はやッ!」

 ……依然として盛り上がる、ううん、崩壊している教室内。

 テレビとかネット動画で見たことがある。生徒たちが教師に反抗して従わず、教室内は荒れに荒れ、二人乗りをしたバイクが廊下を暴走して窓ガラスを割って回る。あの学級崩壊……学校崩壊……。

 とんでもない学校に来てしまった……。

 そうしてしばしの時間が流れて、騒がしかった教室内はようやく静かになった。するとそれを待っていたかのように、

「ほんなら追川さん、みんなに自己紹介したって」

 そう西川先生が言ってきた。

「……はい」

 私はそう応じてクラスメイトたちに一礼し、みんなに背を向け手に取った白チョークで黒板に自分の名前を記していく。そうしてそれが見えるように横へと移動し振り返り、私はスカートをギュッと握って意を決して口を開いた。

「東京の高校から転校してきました、追川めざしと言います。一日も早くみなさんと仲良くなりたいと思っています。よろしくお願いします」

 そんな自己紹介をなんとか言い終え、私は笑みを作って取り繕う。

 ちょっと早口だったかも……。声もちょっと上ずっちゃったし……。足の震えはバレてないかな……。

 みんなの拍手を耳にしながら、私はそんな心配ばかりしてしまう。

 これをネタにいじめられたらどうしよう……。


 一限目の授業が終わった。授業の方はなんとかなりそう。転校による支障は今のところないと言っていい。そんなふうに思いながら教科書やノートを片付けていると、こちらへと近付いてくる女の子の足が視界の隅の方に映り込んできた。

 途端に緊張が走る。まだ私に用があると決まったわけじゃない……。そう自分に言い聞かせながらその方に意識を集中させていると、小麦色に焼けたその足は私の席のところまでやってきて歩みを止めた。どうやら私に用があるらしい……。

 今朝の自己紹介のことでなにか言われるのかな……。

 そう不安に思いながら、私はおずおずと顔を持ち上げる。すると次の瞬間、「ダンッ!」と机をたたかれ驚いた。

 飛び上がりそうになった勢いそのまま、私は刹那の速度で彼女の方へと顔を向ける。ひどくこわっているだろう私のそれとはえらく違い、その子の顔はどこか興奮しているようでいてまっすぐな目で私のことを見返してきている。

「めざしって名前、あれほんまなん?」

 そう声を掛けてきたその子は恐らく私と同じくらい、もしかすると小柄な私よりもさらに小柄な女の子だった。髪は涼しげなショートカット。花でも果物でもなさそうなオレンジ色の飾りが付いたヘアピンで前髪をピン留めし、れいなおでこをあらわにさせている。

「……はい」

 私は気後れしつつも微笑ほほえんで答える。すると彼女は、

「ほんまに?」

 やや声のテンションを上げて確かめるように聞き返してきた。

「はい」

「ほんまのほんまに?」

「はい」

うそやなくて?」

「はい」

「偽名やなくて?」

「はい」

 私は困惑しつつも笑みを崩さず同じ返事を繰り返す。この子は一体なにが言いたいのかな……。

「で、名字が追川やんね?」

「はい」

 私は引き続き微笑んで答える。これは一体いつまで続くんだろう……。そんなふうに思っていると、

「これは運命やでッ! めざしちゃんッ!」

「ひぃっ!」

 突然その子に手を握られ、私は思わず悲鳴をこぼしてしまった。

 私の目の前には前のめりになったキラキラ輝く顔がある。そんなきらめく彼女の目は私のことをドキドキさせてくる。

「転校してきて早々、また変なのに目ぇ付けられてもうたなぁー」

「あんましビビらせたらんとき。転校生、引いてもうてるやん」

 周りにいるクラスメイトたちが口々に、私に対する同情の言葉を投げ掛けてくる。すると目の前の彼女はムッとした顔付きに変わり、

「変ちゃうし。ビビらせてへんし」

 周囲の声にそう反論し、再びこちらを見やるとニコリと微笑んできた。

「なぁ? めざしちゃん」

「……はい」

 私は笑みを作ってそう答える。本当はビクビクだけど……。

「ほら見てみぃーや。ビビってへんって言うてるやん」

 彼女はそう言って、クラスメイトたちに自分の無実を主張する。対して言われた彼女たちはあきれただけだった。

「そんなもん、あんたがそう言わしてるだけやん」

「ほんまやで。いきなり知らんやつにそんなこと言われて、『ビビってます』なんて言えるわけないやん。もうちょっとお手柔らかにやなぁー」

「そんなことあらへんよ。私は普通に聞いただけや」

 そう言って握っていた私の手から手を離すと、キーキーキャーキャー、言い争いを始める彼女たち。なんだかケンカの様相を呈してきた。

 早く止めないと……。

 そう焦りを覚えるも、こんな私に彼女たちを止められるはずもなく……。代わりに誰か止めてくれる子はいないかと教室内を見回すも、こちらの様子に目をくれている子は誰一人いない。こんな近くでケンカが勃発しているというのに、他のクラスメイトたちはまるで見えていないというように自分たちの休み時間を楽しんでいる。止めなくて大丈夫なの……?

「もうええわ。私のこと、なんやと思てんねん」

 そう不満げに言って、彼女は私の席の方へと歩み戻ってくる。そうして場の空気を改めるよう一つせきばらいをすると、

「これは必然なんや」

 真剣な顔でそう言って、けどすぐに笑みを浮かべて嬉しげに続ける。

「あんたの名前が追川めざし。で、私の名前がしろしい。な? おんなじやろ? 私らは一緒やねん」

 私はどうにも答えようがない。同じ? 一緒?

「普通こんなことあり得へんで。映画かドラマか、ううん違う、もう運命としか思われへん。私らは出会うべくして出会ったんや。ノンフィクションなんや」

 ……やっぱり分からない。として話す彼女はえらく興奮しているようだけど、その思いは少しも私に伝わってこない。

「な? めざしちゃんもそう思うやろ?」

 前のめりになって聞いてくる。

「な?」

 嬉しそうに聞いてくる。

「……はい」

 なに一つ分からないくせに、私はそう笑みを作って同意する。なんだか水を差すのも怖いし……。

 そんな私の返事を受けて、目の前の彼女は白い歯をき嬉しげに笑った。

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