第42話 匂いの記憶
庭師の秋葉は、ポツポツと雨粒を落とし始めた空を見上げた。
黒い雲がみるみる空を覆い尽くしていく。雨はすぐに本降りとなった。
脚立をそのままにして、軽トラの中に避難した。
早朝に家を出て仕事を始めたが、やっと2時間きっかり松に鋏を入れただけだ。
この家の奥さんが10時に縁側にお茶を出してくれたが、それを潮に今日は引き上げることを告げた。
先代からの馴染みで年二回、春と秋にこの家の庭の手入れを任されているが、代替わりをしてからのこの庭の荒れようと言ったらない。
何でも飼っているウサギを毎日遊ばせているとかで、苔やオモトは踏み荒らされ、形良く整えていたはずの楓や椿も細い枝がところどころ折れている。
庭は動物の運動場じゃない。これではあんまりじゃないか、とぼやきたいところだが、裏の庭では隣家の犬に吠えられるとかで、ここしか遊ばせられないのだそうだ。
翌日の朝は9時に行くと行ったが、あの荒れた庭を思うと秋葉は少し早めに家を出た。
軽トラの音を聞きつけて、奥さんが門のところにやって来た。
「すみません。まだウサギを遊ばせてて。すぐ捕まえますので、少しお待ちください」
と言う。
やれやれと思いながら道具を少しずつ庭に運び込もうと庭に踏み入ると、ふわふわとした灰色の毛糸玉のようなものが走り回っている。人間に馴れているのか、秋葉を見ても逃げようともせずに、むしろ寄って来ようとする。
「珍しいんですよ、この子が初めて見る人に近づいて行くなんて」
いつの間にか横に立っていた奥さんが、秋葉でなくウサギに語りかけるように呟いている。
秋葉は枝に鋏を入れながら、遠い昔飼っていたヤギのことを思い出していた。
滅多に牛乳など手に入らない山間部で育った秋葉は、そのヤギの乳を飲んで大きくなったのだ。可愛がっていたあのヤギが死んだとき、三日三晩泣き通した。
昨日の雨で湿った庭の土からは、あの懐かしいヤギの匂いが立ち昇り、照り始めた太陽の光が皺の刻まれた秋葉の手に温もりを注いでいた。
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