第37話 ステージの幕が開いても

 先生の奥様がお亡くなりになったのは、お盆の入りの七日前のひどく雨が降り続いた日のことで、まさに広島の原爆忌の日であった。

 奥様の死を私は、その翌日団地のテニスコートにいるとき、先生からのお電話で知った。

 明るい朝の日差しの中のテニスコートにいること自体ひどく不謹慎なことのように思われた。

 病気療養中の奥様からほんの一か月前に達筆のお手紙を受け取っていたので、快方に向かわれていると信じて疑わなかったのだ。

 コートの隅にうずくまり、私は人知れず嗚咽した。サングラスをかけていたのが幸いだった。

 そして、先生のご自宅で奥様のご遺体と対面したとき、一瞬にして世界が壊れた気がした。

 2か月ごとの日曜の午後、文学の会が開催されていたあのお部屋、3時になると奥様がケーキと紅茶を運んできてくださったあのお部屋に物言わぬ奥様が横たわっていた。

 奥様が演奏なさるグランドピアノの音色を聴きながら、温かく香り立つ紅茶を頂いたお部屋だった。

 そして季節は進み、先生から教会で奥様の五十日祭を済まされたとの書状を頂いた。奥様への追悼詩を書いていたら、郵便受けに何か届けられた音がした。

 広島県の文芸祭の詩部門で私の詩「昨日への手紙」が県知事賞を受賞したとの知らせだった。 


 奥様への追悼の詩

「ステージの幕が開いても」

をここに載せます。 

 すべてが見えない糸に手繰り寄せられているような黄金色に沈む秋の夕陽に、神の存在を感じながら。


 「ステージの幕が開いても」


ステージの幕が開いても

そこに立つはずのあなたがいない

ピアノを演奏するはずのあなたがいない


冬の日の紅茶の温もりは

あなたの笑顔を溶かし込んで


あなたが勧めるままに

あなたが焼いたケーキを頬張って


ふと気づくと

外には冬の黄昏が迫っていた


あの冬の陽のはかなさのように

あなたがいなくなるなんて

思ってもみなかった


私は今さらのように悔いて

あの日のあなたの微笑みを

追いかけている


あなたがステージに再び

立つ日が来るのなら

私は客席でいつまでも

待ち続けるのだけど


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