第36話 アイスダンスの相手

 和美は、秋の夕焼けに向かって車を走らせた。

深紅のコスチュームに着替えるのももどかしくリンクに立つ。

 オーダーメイドの白いスケートシューズがやっと足に馴染み始めた気がする。

 氷の状態を確かめに来た支配人が、「今日は少し柔らかいよ」

と和美に耳打ちする。

 北見はまだ現れていない。

和美は軽く一周してから、一度リンクサイドに上がってスマホを確認した。

 「今夜は飲みだけどまたラインするね」

 婚約者の八坂から意味のないラインメッセージが入っていた。

 北見はまだ現れない。

もう一度リンクに立ち、今度は後ろ向きのまま氷を蹴った。その姿勢のままもう一周しても、まだ北見は現れなかった。

 支配人がやって来て

「よろしければ私がお相手を」

と恭しく手を差し出した。

 支配人から勧められて始めたアイスダンスだったが、五十を過ぎた支配人は既に二十三歳の和美のスピードについていけなくなっている。

 

「遅くなってごめん」

上下黒のコンプレッションスーツを来た北見がやっと氷上に降りてきた。

 和美は支配人から紹介されて北見とペアを組むようになった。と言っても小さな町のリンクでは、特に指導者がいるわけでもなく自分たちで動画やアメリカ製のテキストを見て、こつこつと練習を積み重ねていくしかない。

 それでも5月連休最後のリンクがクローズするときに、アイスダンスのショーを観客に披露するだけのために、今シーズンも練習に励むのだ。

 二十五歳の北見はプロのカメラマンを目指しているが、収入と言えば結婚式場での撮影くらいで、普段はコンビニでアルバイトをしているフリーターだ。

 北見が軽くリンクを回って来るのを待って、最初のポジショニングつまり、和美の右肩に置いた和美の右手に北見が右手を添え、和美が左手を北見の背中に回し、体を密着させた状態でステップを踏む。

 フォックストロット、ウィナーワルツ、タンゴといわゆる社交ダンスのパターンと同じなのだけれど、氷上でのステップは少しでもシンクロしないと、たちまち態勢を崩し転倒しかねない。

 このアイスダンスのフィギュアにはない妙味にはまってしまい、OLの和美は週に三度は仕事帰りにこのリンクに通うようになった。

 

 ただ遠距離恋愛中の婚約者、八坂から結婚したらアイスダンスは止めて欲しいと釘を刺されている。

 来年の6月には挙式をすることになっているから、5月連休のリンクがクローズするときが文字通り和美のアイスダンスの最後の演技となる。

 3月の年度末には会社を辞め、6月に結婚して八坂の住む福岡に嫁ぐ。

 そして、子育てを終えてから仕事に有利に就くために、本格的に英語の勉強をする。それが大学時代に英会話サークルで出会った八坂と共に話し合った将来像だった。

 

 ところが、そんな風に描いていた将来像が、いとも簡単に崩れるきっかけとなる出来事が、クリスマスの日に起きた。

 サンタクロースに扮した支配人は、「メリークリスマス、メリークリスマス」と近くにいる子供たちに笑顔で声をかけながら滑っていた。

 この後製氷車が氷上を整えたら、クリスマスのサプライズに一曲だけ、アイスダンスを披露することになっていた。

 「まだ全然仕上がっていないのに」と北見も和美も乗り気ではなかったが、一曲だけと支配人に頼み込まれたのだ。

 そのようにしてフォックストロットの軽快な曲が流れ、北見とステップを踏み始めた和美は、北見のテンポがいつもとはわずかにずれることに気づいた。

 「ごめん、さっきちょっと足を挫いた。でも何とかする」

 中盤に差し掛かったとき、北見が早口でそう告げた。しかし、次の瞬間二人の足がもつれ和美が北見の体の下に潜り込む格好で、氷の上に倒れこんでいた。場内がどよめいた。

 それはまさに一瞬の出来事で、すぐに態勢を立て直した北見に手を引っ張られ、再び何事もなかったように曲に追いついた。

 どくどくと言う心臓の鼓動が耳元で鳴り続ける。それが北見のものなのか、自分自身のものなのかわからないまま、とにかく和美は一心に滑り続けた。

 フィニッシュのポーズまでたどり着きバウを繰り返すふたりを、観客たちは拍手で労ってくれた。

 「さっきはごめん。怪我してない?」

ロビーで和美を待っていた北見が、和美の姿を見つけるなり頭を下げた。

「私は何ともないけど、北見さんこそ足大丈夫?」

「たいしたことないんだけど念のため湿布貼ってもう何ともない。ほんとごめん。それよりここでは言えないことがあるんで、ちょっとだけ僕の車に来てくれないかな?」

 和美の耳に先ほどの鼓動の音がよみがえった。

「何とか就職にこぎつけた。だから思いきって言う。結婚の予定変えてくれる気はない?」

 北見の車に乗るのは初めてだった。エンジンをつけても冷えきった車内はまだ温もりきれてなかった。和美は黙ってコートの襟を深く合わせ、握りしめた両手を震わせていた。


 3月の年度末に予定通り会社を辞めた和美は、スーツケースを引いて歩いていた。

 今を盛りと咲く日本の桜ともしばらくお別れだ。本当にしたかったことはこれ、一度きりの人生回り道してもいいよね?と和美は自分自身に問いかける。カナダで半年ホームステイをしながら語学スクールに通うことになっている。

 迷いながら最終的に選んだ私ひとりでとりあえず生きて行くと言う選択。

 花嵐のエールに見送られ、和美は故郷の町を後にした。 

 

 

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