第35話 猛獣の学校 2

 卒業文集で予告した通り、小学校の教諭となって母校に赴任した私は、とうとう猛獣の正体を突き止めることになる。


「せーんせ、今日のネクタイも素敵な柄ですこと」

と熊に厚化粧を施したような学年副主任が、学年主任に媚を売っている。陰では学年主任の悪口ばかり言っているくせに、本人の前ではおべっかばかりだ。

「今回は必ずすぐに返しますんで、これが最後だと思って、一万円ばかり」

と、同僚にお金を無心しているのは、臨時採用の若い男性教諭だ。親の借金で首が回らなくなった彼は、結局二学期の途中に一家揃って夜逃げを決行した。

 突然の出来事に校長はじめ管理職、同じ四年生の担任たちはたちまち、大騒動となった。

 その他にも、今なら週刊誌ネタになりそうな教諭同士の不倫、揉み消された保護者との不倫など、知れば知るほど世間が抱く聖職のイメージとは程遠いことばかりだった。

 

 マンモス校ならではの試練もあった。一学年七クラスの市内中心部にある学校なので、しょっちゅう研究授業校の候補に挙がる。

 研究授業がなくても、運動会のリレーや合唱コンクールなど、学年内で順位を競う行事が学期ごとに行われる。

 参観日の親たちの中には、廊下に立って隣のクラスとの授業の仕方を比較し、保護者同士で教師の評定をする者もいる。


 私と同じ三年生を受け持った河合と言う男性教諭の家系は教育者ばかりだそうで、彼の父親は市内の別の小学校で校長を務めていた。

 校内での彼に対する期待の大きさは、私に対するそれとは全く訳が違った。新米でありながら、運動会には裏方のリーダー役を任されるなど、教師の世界にも政治家同様の世襲制みたいなものがあることを知った。


「今度と言う今度は、ほとほとやんなったよ」

 運動会が終わった打ち上げの宴席で、河合が私にこっそり耳打ちした。

「どうしたの?運動会も無事終わって、めでたしめでたしじゃない」

「それがそうでもないんだよ。ひとつクリアすればまた次が待ってるんだよな。来月の研究大会の授業やらないかって」

「すごい!さすがサラブレッド」

「サラブレッドとか言われるの、正直辛いんだよな。なりたくて教師とかなったわけじゃないし」

「えっそうなの?知らなかった。教師になるために生まれてきたみたいな人が」

「そんなわけないじゃん、俺ほんとはミュージシャンになりたかったんだよな」

「そっか。そう言えば河合くんピアノとかも抜群にうまいものね。なれば、ミュージシャンに。今からでも全然大丈夫じゃない?」

「いいよな。親からの縛りとかないやつは。俺なんか小さい頃からがんじがらめだよ」

 河合はふうーっと長い溜め息をついて、グラスのビールをぐいっと飲み干した。そして、苦い表情で宴会場の高い天井を遠い目付きで眺めた。

 

 研究授業を難なく終えたものの、三学期の初日から河合は学校に出勤して来なくなった。

 新採仲間の六人で相談して、河合の家を訪ねた。長い白壁と立派な門構えのある家だった。

 河合は、運動会のとき着ていた上下お揃いのトレーナー姿でベッドに寝ていた。

私たちを見ると、小さく手を挙げたけれど、その顔からは全く表情らしきものが消えていた。

「手の震えが止まらなくなってさ、もうチョークなんて持てやしないし、ピアノなんてとてもじゃないけど無理だな」

 私たちは見てはいけないものを見た気がして、淀んだ重い空気に包まれていた。

 部屋の片隅にギターがあるのを見つけたのは、新採仲間の中で二浪して大学に入った一番年長の桑田と言う男性教師だった。

「ちょっとギター聴かせてくんないか」

桑田と河合の視線と視線が沈黙の中で繋がり、私たちは突っ立ったまま無言で頷きあった。

「こんな手で弾けるかな」

河合はゆっくりと起き上がると、桑田が差し出すギターを受け取った。

♪ポロロロロロン♪

ぎこちない音が爪弾かれた。

 河合は楽器を演奏していると言うより、修行僧が託鉢をしているような面持ちで、神妙に弦に指を添えているようだった。

 それでも目を閉じたまま河合は、指先から何かを探り当てるように音を奏で続けた。

 そのとき私たちは、河合の頬に幾筋もの涙が伝うのを見た。まるでギターが泣くように音を紡ぎだし、やがて激しいビートを刻み始めた。

 私はその中に確かに、幼い日の私を脅かしたあの猛獣たちが吠える声を聞いた。


 そのようにして河合は学校を去って行った。その後の彼については、誰も何も知らない。

 

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