第32話 雲の上で恋をする

 私ひとりで、まだ人間と言うより動物に近いふたりの子どもたちー5歳になったばかりの息子と、同じく3歳になったばかりの娘ーを連れて、関空からロサンゼルス空港、通称LUXまでの10時間の空の旅をすることなどとても考えられなかった。

 自動車メーカーに勤務する夫は一家4人で住む家を借りるために、一足先にロスに飛んでいた。

「一緒に行ってあげよか?」

と手を挙げたのは、還暦を迎えたばかりの私の母親だった。父は3年前に亡くなって、四国松山市で独り暮らしをしている母は、知人の喫茶店でパートとして働いていたが、その店も春にオーナーの都合で閉店したので暇をもて余していたのだ。

 しかし母は、外国に行ったことなど無論一度もないし、父の生前は父に頼り、父亡き後は友人たちにフォローしてもらわなければ、日本国内でさえもどこにも行けない人であった。

 行きは私たちと一緒に行っても復路はひとりである。それでも飛行機に乗ってしまえば、後はなんとかなる、と本人は至って気楽に考えていた。

 母の同行は、確かに物理的には何かと助かった。ちょこまかと動き目を離せない幼児たちの手を繋いでくれていただけでも、改札や搭乗口をスムーズに通過することができた。

 新幹線の中でもかいがいしく孫たちの相手をしてくれるなど、日本国内での母の活躍は、私の期待以上のものだった。

 しかし、その疲れもあったのだろうか。機上の人となるなり、母は泥のように眠り込んでしまった。

母以外の私たち親子3人は、夫の会社が用意してくれたビジネスクラスに席があり、母だけがエコノミークラスだったのだが、何のことはない。エコノミークラスは空席が目立ち、母は肘掛けを上に跳ね上げて、4席分のシートにのうのうと身を横たえて、爆睡していたのだ。

 ビジネスクラスはほぼ満席で、いくら一つ一つのシートがゆったりして個室感もあるとは言え、ふたりの子どもたちは初めての飛行機に興奮してじっとしていない。離陸して1時間も経つと、ちょっと目を離した隙にふたりで電車ごっこなどを始めて、通路を往き来している。

 関空を夜の9時に出発して、日付変更線をまたぎ、翌朝、と言っても日本を出発した日と同じ日付にロスに着くのだ。いつもならとっくに眠っているはずの幼児たちは、ひとり眠ったかと思うとひとりが目を覚ますと言った具合に交代で起きて、私を眠らせてはくれない。

 辺りは薄暗いとは言え終始ざわざわとしていて、決まった間隔で機内食も出てくる。

 目の下に明らかに見てとれるクマを作った私には、空港で出迎えてくれた夫の姿は、地球を救う正義のヒーローのように頼もしく見えたのだった。

 それからの2週間は、荷ほどきや子どもたちの幼稚園関係の手続きに追われ、瞬く間に過ぎた。

 母だけが日本に帰国する日が来て、一家4人でLUXに送って行った。母は目を赤く泣き腫らし、孫たちをきつく抱き締めた。

「元気でね。おばあちゃんのこと忘れんでね。必ず必ず日本に無事に帰って来てね」

と、きょとんとしている孫たちに向かって、何度も涙声で繰り返す。

 そうして、涙と鼻水を拭ったハンカチを振りながら、母の姿は見えなくなった。

 ところが、母は行きの飛行機とはたぶん別の人格になっていたのだろう。

2週間しか違わないのに、10月末の飛行機のエコノミー席は、ほぼ満席だったのである。

 母は、一睡もしなかった、と電話口で興奮冷めやらぬ口調で、私に言った。

 母の隣に50代のやや太った、でも筋肉質の男性が座っていたのだそうだ。

 旅慣れない母のために、機内食の注文を手伝ってくれて、毛布も余分に借りてくれるなど、何かと親切にしてくれたのだそうだ。

「詐欺やん」

「詐欺師ではない。ちゃんとした真面目なお勤め人や」

「詐欺はお母さんの方や。ぐうぐう高いびきで寝てた行きとは、まるで別人やん」


 それから半年も経たない冬の終わり、母は生まれ育った故郷の高松に引っ越すことにした、と言う。

「はあ?何でまた、住み慣れた松山離れることにしたん?」

「彼がね、高松の彼の家で一緒に住もうって言うてくれてね」

「もしかして結婚?てかその人独身やったん?」

「いえね、バツイチやけど子どもさん独立して、一人住まいなんやて。もうお互いこの年やから、籍とかは入れんけどな。高松には誰っちゃ親戚おらんけど、生まれ故郷やし」


 電話口の母は、もう完全に讃岐弁のイントネーションになってしまっていた。

「好きにしたら。どうせ残り少ない人生や」

憎まれ口を叩きながらも、なぜか私まで空の中にいるような高揚感に包まれて、受話器を置いた。

 窓ガラス越しに異国の空を見上げると、旅客機の影がよぎり、まぶしい雲の中に消えて行った。

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