第29話 血吸川

「岡山の後楽園に行きたいんよ。昔、進さんと行った思い出の場所やけん、死ぬまでにいっぺんだけ行ってみたいんよ」

自分の足では歩けなくなった母が、いつもにない真顔で言った。

 いわゆるまだらボケの母は、ある時は天使のように優しく、ある時は悪魔のように恐ろしい存在となる。旅行に行きたい、と言ったのは、もちろん天使の方の母である。


 口では「わかった」と言いながら、いつ天使から悪魔に豹変するかも知れない母を連れて、私ひとりで県境を越えるなんて、到底不可能だった。

「いいよ。運転手くらいやってやろう」

 車好きが高じて、電機メーカーから自動車メーカーに転職をした夫が、軽いノリで言った。


 暑さの残る10月に寒いと訴える母をなだめ、車のエアコンを切った。窓を少しだけ開けて走る。それでもなお母は寒いと言い続けた。

 夫と私はうっすらと汗ばみ、車内には母の老人臭と、私たちの吐息混じりの淀んだ空気が充満していた。


 お目当ての後楽園についても、母は一向に車から降りようとしなかった。

「美味しいものを食べに行こう」

という誘いにもなびかない。


 結局、母と私は車に残り、夫だけが名勝の紅葉を目に焼き付けて来た。それも駆け足であるけれど。

 帰り道、高速から外れた田舎道を通って、桃太郎伝説のある神社を訪れた。

 なぜか母はここで、車から降りてみたいと言い出した。

 あきれ顔の夫は、運転で疲れたので車で待っていると言う。


 桃太郎はここで生まれ、鬼ヶ島に鬼退治に行ったと、木でできた古い看板に炭で書かれていた。

 そこから母の車椅子を押して歩くと、血吸川と言うおどろおどろしい名前の川に行き当たった。

「ここから先は、車椅子では無理だわ」

 進めないと知って、母は恨めしそうに私を見上げた。

「血が流れた川よ、ここは」

母から漏れ出た予期しない言葉に、私は思わず母の顔を覗き込む。

「進さんがそう言った。ここに来たときそう言った。僕たちは、どんなに血の川を渡っても幸せにはなれないんだって」

「進さんには、奥さんも家族もいたんだよね?」

一瞬考えてから、母に投げかけてみた。

「そう。だから、あきらめて他の人と結婚するより他になかった」


 夕焼けに染まる血吸川は、ますます赤みを増して行く。私の体中の血が、夕日に炙られて熱くなっていくのをどうしようもなかった。

 母は、何事も無かったように車椅子に揺られ、何事も無かったように、その数日後に亡くなったのだった。

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