第26話 野球の神様が私に放った直球
「広島市民球場がこの秋で無くなるので、特集番組を企画中なんですが…」
と、声の主は言った。
「は、それで私に何を?」
業界の人にしては珍しく、ゆったりとした口調で話すYディレクターの言葉を遮って尋ねた。
「3日間ほど取材させて頂きたいんです。ご自宅と市民球場と、東京のスタジオでと」
「み、3日間ですか?しかも、自宅って、自宅は無理です。とてもお見せできるような家じゃないし、いえ、家じゃなくて、家の中が…しかも、東京まで行く必要があるんですよね?」
私は、市民球場だけで1日くらいなら、と考えていたのだ。その考えを見通したようにYディレクターは、
「東京のスタジオには、野球解説者の衣笠幸雄さんも来られます」
と、しれっと言った。
「お引き受けます。ぜひ!」
私の声が1オクターブ高くなっていた。
徹夜で家の中を片付けた。
朝早くから、カメラマンさんとアシスタントディレクターさんを引き連れて、Y氏はやって来た。
電話で聞いた声から、初老の男性を想像していたが、40代前半のなかなかのイケメンだったので、私はもう少し普段から部屋を綺麗にしておけば良かった、と今さらながら悔いた。まあ、Y氏から見れば、私などどう見ても田舎もんの中年のおばさんだろうから、そんなことはどうでもよかったのだけど。
翌日は私が昔住んでいたアパートとその周辺まで取材をすると言うので、ますます番組の意図がわからなくなったが、懐かしさも手伝ってしぶしぶ案内した。
広島市の東部を流れる川沿いの古いアパートと、そこに江戸時代からある出迎えの松と呼ばれる木だ。それからやっと、番組メインテーマの市民球場に赴いた。
「ここ、本当にもうすぐ無くなっちゃうんですよね」
と、広島市民の私よりY氏の方がしみじみと言う。聞けば、広島とは縁もゆかりもないのに、カープファンなのだそうだ。
「そう、ここ、このベンチで衣笠選手が2000本安打打ったとき、インタビューしたんです」
そう言う私も既に泣きそうになってしまっている。
しかし、そんな感慨に浸っていたのは、ほんの数分でそこから、Y氏の辣腕ぶりが発揮され、何時間もそれに翻弄されることになる。
「どうしても言わせたいんですよね。この球場が、原爆から復興していく広島の人たちのシンボルだったってことがを」
「そうです。それ言わないと、この番組意味なくなってしまう」
「でもここで、こんな唐突に衣笠選手のインタビューから話持ってくの、わざとらしくないですか?」
「そこはうまく編集しますから」
「って言われたって、私は役者じゃないですから、そんな突然感情移入した言葉とか、すぐには出てこないし」
すったもんだの挙げ句、日も暮れてやっと何とか録り終えるその瞬間、私たちの頭の上でカラスがカアッと鳴いた。
「すみません。録り直しです」
とY氏は非情な口調で言い放った。
それもこれも、すべては東京のスタジオで衣笠幸雄様にお会いするため、と私は腹をくくった。
(こうなったら、何回でも録り直ししようじゃないの)
私たちの殺気を上空で感じたからか、カラスの群れはカアカアと鳴きながら、はるか遠くの赤く燃える空に飛び立っていったのだった。
東京行きの新幹線の中で、もうすぐ幸雄様に会えると思うと、私の口元はだらしなく緩みっぱなしだった。
約束通り、東京駅にY氏が迎えに来てくれていた。ちゃんと私の荷物も持ってくれた。私はとにかく迷子にならないよう、ひたすら彼の後をついて行けばよかった。
まさかあの野球の神様が、豪速球の直球を私の胸に投げつけて来るなんて、その時はまだ想像していなかった。
スタジオで、お会いした衣笠幸雄さんは、選手時代より恰幅がよくなっていたが、低音の渋い声がチャーミングで、物腰柔らかく、私は覚めない夢の中にいるみたいに、終始ぽーっとしていた。
「あのー、当然私のことなど、お忘れになってますよね?」
「いや、覚えてますよ。僕が2000本安打を打った翌日に、広島市民球場でお会いしましたよね」
天にも昇る心地と言うのは、まさにこのことを言うのだろう。
「いや、何と言うか、強烈な印象だったんですよ」
「は?」
「こんなにも野球知らない人がインタビューに来るなんて、珍しいなって」
「あのときは本当に失礼いたしました…」
私は消え入るような声で言って、本当に消えてしまいたかった。
「いや、そんな悪い意味じゃなくて、その分純粋で必死さが伝わってきたから、印象に残ってるんです」
やっぱり私が思っていた通りの、心優しい人だった。あの衣笠幸雄様は。
そして、その年の9月、広島市民球場は、球場としての役目を終えた。
それから8年後の春に衣笠祥雄さんも癌で還らぬ人となった。
今も私は相変わらず野球音痴のまま、この上なく弱い広島カープを応援している。
たぶんあのYディレクターもどこかで。
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