第31話 猫の僕とある少女

 僕は猫を飼っている。あざとい猫だ。僕が神経系統の難病で動けないのをいいことに、ベッドの枕元にすり寄って来て、時には僕の顔の上にも乗る。

 苦しくて息ができない。手元のベルを押すと、母親が飛んで来る。

「ミーちゃん、だめでしょ しっしっ」

 母親に追い払われた猫は仕方なく、どこかへ消える。

 僕だってなりたくってこんな病気になった訳じゃない。中2のバレンタインデーに、小学校から同級生の京香から手作りチョコを渡されて、告白されつきあい始めた。

 だけど皮肉にも、その頃から僕の手や足の動きが緩慢になり、中3になった春にALSだと診断された。

 全身の筋力が徐々に奪われ、やがては呼吸もできなくなる難病である。

 高校の入学式は、車椅子で出席した。京香が、寄り添ってくれていた。でも結局僕は、それっきり登校することはなかった。

 担任教師や京香、それに友人たちがひっきりなしに僕を訪ねて来てくれて、それで何とかレポートもパソコンで打ち込んで提出もした。

 それでも1年生から2年生に進級することはできなかった。当然と言えば当然だ。体育など実技のある必修科目の単位を取るなんて不可能だったし、そもそも僕にはもう何の未来も残されてなかった。

 僕は僕の人生をいかに心地よく終えることができるか、そのことに意識を向けることにした。良い音楽を聴く。良い本を読む。

 僕は良い友人に恵まれていたけれど、彼らはそのうち僕から遠ざかって行った。それぞれが忙しくなる理由はたくさんあった。部活にアルバイト、受験勉強、生徒会活動、当たり前だ。    僕だってこんな病気にならなければ、当たり前にそんな高校生活を送っていただろう。

 それでも、京香だけは少なくとも週に一回は必ず僕のところにやって来た。来るたびに大人っぽく、きれいになっていく京香が、眩しくてたまらかった。一方、僕はと言えば、それに反比例するように病状が進んで、痩せ衰えていくばかりだった。

「もう来なくていい」

とある日、京香に告げた。

 京香は、動けない僕とは別の世界に住んでいる。これ以上僕と関わっても、何のいいことも起こらない。

 僕はもうこれ以上、僕が僕でなくなっていく姿を見られたくなかった。

 僕のベッドの傍らに座ったまま、京香は僕の目をじっと見つめた。小学生の頃と同じ、全く汚れのない目だった。そして、意を決したように立ち上がると、黙って部屋を出ていった。

 それが僕自身の体と京香との最後の別れだった。

 動けなくなった僕の回りにやってくるのは、あのあざとい猫だけになった。相変わらず誰もいない時を狙ってやってきては、僕の頬を舐め、僕の顔の上に乗っかってきた。

 息ができなくて苦しくて、そのまま死んでもいい、いやむしろそうなればいいと、僕は本気で考えていた。

 猫はまるでそんな僕の願いを聞き入れたかのように、僕の鼻と口をふさいだ。猫の毛のない部分の柔らかな皮膚が、僕の息の根を止めるのにはうってつけだった。苦しくてももがくことさえできないけど、僕は母親を呼ぶボタンを押さなかった。

 僕の意識が消えかかり、朦朧としたとき、猫はすくっと立ち上がった。

 そして、勢いよくベッドから飛び降りた。

 その時僕を不思議な感覚が襲ってきた。僕は猫の視線で、ベッドの下の埃の塊まで見ることができたのだ。僕はベッドにいながらして、猫の姿で外にも出ることができるようになっていた。僕の意識が、僕と猫の中に半分ずつあるような感覚だった。

 いくら猫の姿で自由に出歩けると言っても、日中あまり出歩くと野良猫に間違われるので、早朝や暗くなった時間帯を狙って外に出て行った。

 クリスマスが近づいたある朝早く、僕は猫の姿で町をうろついていた。まだ空にうっすらと白い月が残っていた。

 のんきに月を眺めていた僕は、遠くから聞こえて来る地響きのような凄まじい音に、ビクッと耳を震わせた。

 次の瞬間、男女2人乗りのバイクが風のように走り去って行った。

 でも、そのバイクはスピードを出しすぎていたせいで、カーブを回りきれず電柱に激突して倒れた。その衝撃で、後ろに乗っていた若い女の子が吹き飛ばされ、アスファルトの道路に叩きつけられた。

 猫になった僕は、嫌な予感にとらわれて咄嗟にその場に駆けつけた。

 血まみれでそこに倒れていたのは、やはり京香だった。バイクの主の男は意識があるらしく、ゆっくりと頭をもたげているのが見えた。京香はうっすらと目を開けたけれど、その目はもはや何もとらえていないようだった。

 そして京香は死んだ。最後に「た、く、や…」と僕の名前を呼んで。

 京香は見えなくなった目で、そこに僕の姿を見たのだろうか。

 僕はまだ生きている。そして猫も生きている。京香だけが別の世界に行ってしまった。僕と猫のどちらが先に死んでしまうのか、僕にはわからないけれど、僕はいつも僕と猫の半分の意識の中で精一杯京香のことを思い、猫の僕は毎朝、京香の亡くなったあの場所を訪れている。

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