第15話 実家の消滅

 実家と呼ぶには、あまりにも心もとない場所だった。

父が還暦で亡くなってから、母は小さな古いアパートに移り住んだ。

 安普請の木造アパートで、お隣からの声も駄々漏れである。

「何でまたこんなところに…」

とあきれる私に、母は澄まし顔で答えた。


「両側のお隣さんの生活する音が、聞こえるんがええんよ。ひとりでおると寂しいけんね」


 私は返す言葉を失った。

(ごめんね。一人娘の私が、海を越えた町に嫁いでしまって)

と、心の中で詫びるのが精一杯だった。


 だが、口では寂しいと言いながら、母はほとんど家にいなかった。

 昔の恋人と再会したとかで、お互いに伴侶を失くして寂しい者同士、しかも親の反対で結ばれなかった相手とあって、まるで失われた時の流れを取り戻すかのように、会瀬を重ねていたのだ。


 ところが、母が八十の坂を越えてまもなく、相手の男性が病に倒れた。

母は毎日熱心に病室に通い、家族に煙たがられながらも、身の回りの世話を焼いていたようだ。


 やがて母の恋人の老人は亡くなった。それからの母ときたら、まるで廃人のようだった。

 私が電話をして、様子を尋ねても

「もういつ死んでもいい。いや、もう今すぐにでも死にたい」

と、生気のない声で弱々しく訴える。

 私はなす術もなく、溜め息をつくばかりだ。


 そして私は、やっと気がついた。

あのアパートに母が移り住んだのは、還暦を迎える直前だった母が、夫の遺品を整理して、身軽になって人生を再スタートするためだったと言うことに。


 母は言葉通り、恋人の後を追うように、それから数日後に誰にも知られず、入浴中に心臓発作を起こして亡くなった。


 いつ私が電話をかけても、母が電話に出なくなったので、地区の民生委員さんにお願いして、様子を見に行ってもらったのだ。


 ひっそりと母のお葬儀を済ませた後に、民生委員さんやアパートの大家さんに、手土産を持って挨拶に行った。

「いえいえ、これが私の仕事ですから。それにしても、本当にお気の毒なことでした」

 民生委員さんは反対に恐縮し、

「もっとお声かけをしておけば良かったのに、すぐに気がつかなくてごめんなさいね」

と、頭を下げられるのだった。

 高齢の大家さんはと言うと、

「いえね、実を申しますとね、私ももう年だし、息子たちにここの管理を任せることにしたら、このアパートを壊してマンションを建てるなんて、言い出したものですからね。入居中の方々に、まあ申し訳のないことで。それより、あなたのお母さん、あんな亡くなり方をなさって、とても他人事とは思えませんのよ。あなたもさぞかし心労がおありでしょうに」

と、やはり母への悔やみや私への配慮の言葉を口にした。


 そのようにして、アパートは瞬く間に重機で取り壊されて、更地となった。

 母の銀行口座などの解約手続きのために、たまたまその日そこに立ち寄っていた私は、壁や柱が崩れ落ちる音に混じって、どこかで聞いたことのある笑い声を耳にした。

 そう、それはまぎれもなく母の笑い声だった。埃や粉塵の舞う風の中で、母は高らかな声を響かせて、笑っているのだった。

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