第22話 令和の空を飛ぶ敵機

「ああ、はよう逃げんと、ほらほら敵機があんなに列を組んで来とる!」

 灼熱の太陽が照りつける真夏の正午過ぎ、調剤薬局のアスファルトの駐車場で、母と私は汗まみれで地べたにへたり込んでいた。

 母はボーッと空を眺めていた。私は母を車椅子からミニバンに移乗させようとして、力尽きたのだった。

 すると母が、空を見上げた姿勢のまま突然叫んだのだ。


 私が眩しすぎる空を仰いでも、そこはただ白い雲とどこまでも青い夏空が広がっているだけだった。

 母の目に見えて、私の目には見えない敵機が来襲しているのだ。

「じゃあ、立って逃げようや。頼むけん、自分の足で立ってみて」

 私は母に懇願した。

「無理じゃ。立てんけん、お母さんのことは置いて逃げて」

 照りつける太陽に見守られ、私と母のみがこの令和の時代に、敵機襲来のバーチャルの世界にいた。

 母に存在するのは、強烈な過去の記憶のみで、これから起こる未来の出来事も、今この時でさえもこれっぽっちも存在しないのだ。

「何しとん。はよ逃げんと。このままこんなとこに座り込んどったら、撃たれて死んでしまう」

 母はなおも私に語りかける。その目には本当に敵機が映っているのかも知れない。

 私の体は震えた。お腹の底から笑いが込み上げてきたのだ。母が真剣になればなるほど、おかしみが増していく。こらえきれなくなった私の口から、クックックと言う笑い声が漏れた。

 しかし、その笑いとは裏腹に私の頬には幾筋もの涙が伝い落ちていた。

私にとっての敵は紛れもなく、目の前にいる母その人であった。


 深夜であろうと真夜中であろうと、母の排泄は待ってくれない。一人ではトイレに行くことはおろか、ベッド脇のポータブルトイレに座ることもできない。

 しかし便意や尿意は告げることができるので、紙オムツをあてていてもそこに失禁することはない。

「オムツの中にしてもええんよ」

「オムツ?何を失礼な!オムツなんかしておらんわ!はよ、はよ起こさんと!」

 母の怒声に仕方なく眠い目をこすって、私は起き上がる。電灯のスイッチをつけ、母をベッドに横座りさせてから、私の首に手を回させる。

 母が何とか自分の足で立った瞬間に、阿吽の呼吸でパジャマのズボンと紙パンツを下ろし、ポータブルトイレに座らせる。

 母が排尿を済ませると、今度は逆の流れで立ち上がらせ、パジャマと紙パンツを持ち上げ、ベッドに戻す。

 私はいつこんな大きな赤ん坊を産み落としてしまったのだろう。私よりはるかに重い母の体を支えて、私の身体の骨と言う骨がミシミシと悲鳴をあげている。そんな真夜中のトイレ介助を済ませると必ず言う一言。

「なんやお腹すいたのう。晩御飯食べたかいのう」

 充分に予測していたから、私はもう驚かない。無言で頷く。それからおもむろに、用意しておいた言葉で母をなだめる。

「んー。ちょっと待って。何かないか見てくる」

 冷蔵庫に冷やしておいたゼロキロカロリーのこんにゃく入りドリンクをグラスについで、お盆に載せて母の寝室に戻ると、

「これしかないん?」

 糖尿病で食事制限をしている母は、恨めしそうに私を見上げるが、仕方なくそれを口にする。そして大きな溜め息をつき、固く目を閉じる。

 私は枕元に置いてある寝つきが良くなると言うサプリを、まじないのように口に放り込み、暗闇の中で同じ眠りにつく。


 あの夏は何だったのだろう。カイゴにキセキなんて起きない。私の脳内物質は沸々と沸騰して沸点に達し、それから満ちた潮が引くように、冷えて固まったままだ。

 同じ荷物を抱える誰かのうめき声を聞く。

─生きることはしんどいね─

─自分の人生を誰かのために捧げるなんて馬鹿げてるよね─ 

─いくら全身全霊で育ててくれた恩があっても、無理なものは無理だよ─

─自分の人生を生きてくことも、辛くて泣く暇もないなんて、これはもう限界かもね─

 逃げたくても逃げ切れない日々、私は私自身がつぶれるまでそこに身を置いていた。

 食べても食べても食べたりない母を介護しながら、私自身はろくにご飯が喉に通らなくなり、みるみる頬が削げていき、夫と言い争うようになった。


─もうこんな生活耐えられないよ─

─やりすぎじゃないか─

─少しは冷静になれよ─

─このままじゃあなたまで いや家族みんなが 共倒れになってしまう─


 そんな日々は、母の死とともに嘘のように消えた。

 私は、体中の水分のすべてを絞り尽くすように泣いた後、令和の空に現れた敵機を思い浮かべて思い切り笑った。

 今日は母の命日である。

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