第30話 制服の少女
人間はその気になりさえすれば、いとも簡単に死ねるものだと、ゆかりは思う。
同じような考えにとらわれ、眠れない日々を過ごしている者がかくも近くに住んでいるとは、この時点では、ゆかりは知る由もなかった。
今年四十歳になったゆかりの三十代後半は、暗黒の時代だった。
夫の卓司が裏庭にあるパティオから、飛び降りたのである。卓司が39歳ゆかりが36歳の秋だった。
下の道路に面した石垣の高さは約5メートル、パティオの手すりを入れても、せいぜい6メートルしかない。
その6メートルが、夫の命を奪うのに充分な距離だなんて、考えたこともなかった。
しかも、その日ゆかりは家にいて、卓司のためにスパゲッティとサラダを作っている最中だったのだ。本当なら卓司が昼食を作る当番だったのに、直前になってやりかけた仕事があるから代わってほしいと頼まれたのだ。
夫婦に子どもはいなくて、かと言ってそれを格段気にはせず、むしろお互いに仕事を持ち、張りのある生活を送っていた、少なくともゆかりは、そう信じて疑わなかった。
夫の死後、遺されたゆかりへの手紙が夫の机の引き出しから見つかり、初めて彼の抱えていた苦悩を知った。
人当たりがよく、何事にも全身全霊をかけて邁進する夫は、営業マンとして社内でも高く評価されていた。死ぬ理由なんてどこにもないはずだった。 遺書にはただ、生きていることに疲れた。誰も悪くはない。悪いのは自分だ。申し訳ない。と繰り返し書かれていた。
葬式の日は、死んだのは夫でなく自分だとさえ思った。夫の身内や友人、同僚、いくつもの目が自分を射る矢を放っているのだ。言葉ではなく、視線と言う武器で。
フリーのヨガインストラクターとしてやっと、安定した収入を得られるようになってきたゆかりは、仕事に打ち込むことで精神の均衡を保とうとした。四十歳を越えて辛くて眠れない夜には、独身のころヨガの修行に行ったインドをもう一度旅しようかとも思った。でもせっかく得た仕事を失くす方が惜しかった。
そんなとき、ネットで自死で大切な人を失った人のための会があることを知った。
『同じ体験をした人たちの中で,安心して気持ちを語り,共にわかちあい,支えあうことによって,これからを生きていくためのつどいがあります』
この文章に惹かれたゆかりは、卓司の4年目の命日が過ぎた日曜日、意を決して会の集いに参加した。
公共施設の一室で集ったその日の参加者は、男性2名と女性4名の6名だった。
仮名でも良いと言う自己紹介を終え、ひとりひとりがポツリポツリと重い口を開いた。進行役は精神福祉士だった。
初めて参加するゆかりに、精神福祉士以上に何かと気を配ってくれたのが、会の世話役をしている45歳の小森だった。小森自身は、3年前に妻を自死で亡くしたと言う。
小森がゆかりと同じ団地に住んでいると偶然知ったのは、その翌月の会に出席したときだった。
帰り際にどちらから来られてるのですか?と声をかけられ、立ち話をしたことがきっかけだった。会の名簿は、連絡先の電話番号だけで住所の記入の必要はなかったのだ。
そして、ゆかりはためらいながらも、小森の車で送られて帰宅した。
小森は夫の卓司とは正反対で、なぜこの人が世話役をしているんだろうと思うほど口下手だし、会の資料を配る時も枚数を間違えるなど、会の運営をこなすことにも向いていなかった。
小森は無口だけれども、車の乗り降りの際もゆかりのためにドアを開け締めをしたり、運転中も信号で停まるたびに、それとなくゆかりの様子を伺うなど、繊細さを併せ持っていた。
何回かそのように行き帰りをともにするうち、ふたりは別の日にドライブに出掛けたり、食事をするようになった。
小森には中学生になったばかりの一人娘がいて、娘のためにも母親が必要だと、季節が2つ進んだ春の日に、唐突に言われた。
彼らしい不器用な精一杯のプロポーズだった。
ゆかりは、口にしたばかりのワインで咳き込みそうになった。
それから1週間、ゆかりは毎晩10分間の瞑想を自分に課した。
最初の三日間は目を閉じると、亡くなった卓司の死に顔ばかりが浮かんだ。ゆかりの意識の中に変化が起きたのは、4日目の夜であった。
その日、朝から3つの会場でヨガのレッスンをしたゆかりは、目を閉じてすぐに、スカーサナのポーズのまま心地よい眠りに落ちてしまっていた。
すると夢の中で見知らぬ女の子がお母さんと呼ぶ声がした。その声に呼び覚まされたゆかりは、真新しい制服に身を包んだ少女の姿を思い返した。
そしてもし彼女が嫌と言わないのなら、会ってみるのも悪くないかな、とぼんやりと考えていた。
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