第21話 はい、お茶
覚悟はできていた。
「おじいさん、もうすぐ会いに行きますからね」
仏壇の前で手を合わせた。不思議と涙は出なかった。いつも通院に使っている布のバッグに、梅干しの入ったお握りを一つ忍ばせた。
三途の川を渡っておじいさんに会えた時、食べさせてあげるためだ。
杖をついて家を出た。踏み切りまで歩いて5分。通過する電車の時刻も調べてあった。
玄関を出た時、郵便配達のお兄さんに出くわした。
「ちょうどよかった。これ今日の分です」
市議会議員の票集めの手紙だ。しかも宛名は亡くなったおじいさんになっている。
「あら、ありがとう。暑いのに大変ね。体には気をつけてね」
ついついお別れのような言葉をかけてしまった。お兄さんはちょっと怪訝な表情をしたけれど、私が手に提げていた通院用の布バッグに目をやると、
「あ、これから受診されるんですね、お気をつけて」
と、軽く頭を下げて赤いバイクで走り去って行った。
日傘を差してトコトコ歩いたけれど、踏み切りが見えてくるとさすがに胸がドキドキしてきた。通行人の姿もちらほらと見えた。
(お騒がせしてごめんなさいね)
心の中でひとりひとりに謝った。
あの豪雨災害の日から3年経ち、町は美しく甦った。でも亡くなったあの人は戻っては来ない。なぜあのとき、繋いでいた手を離してしまったのだろう。55年も連れ添って来たのに。あの一瞬さえなければ、今もずっと一緒に暮らしていたのに。
泥水に流されて見えなくなったあの人は、2日後変わり果てた姿で発見された。
私はあまりに突然の出来事に、泣くことも忘れてただ呆然としていた。
私はひとり川に沿ったこの道を歩く。
おじいさんとの思い出がすべて良いものだったわけではない。でもこの川の表面をさらさらと流れる水のように、淀んだものは川底に沈み、美しいものだけが、脳裏に浮かんでくる。
踏み切りはすぐそこだ。もう戻れない。うっすらと額に滲む汗をハンカチで拭いながら、目を凝らす。
線路向こうのコンビニ。代々お世話になった先生のいる医院。いつもの見慣れた風景。これですべて見納めだ。
折しもカンカンカンカンと警報が鳴り始め、遮断機がゆっくりと降りてきた。目の高さまで来ている黄色と黒の棒を掴んでふらふらと線路内に入ろうとしたそのとき、後ろからぐいと強い力で左腕を掴まれた。
「やめて、止めないでください!」
思わず叫んで振り向くと、見慣れたあの郵便屋さんの顔があった。
彼の大きな手がそっと私の肩に置かれた。
「おばあちゃん、落ち着いて」
「いいんです。死なせてください」
「いったん日陰に入りましょう。僕もちょうど休憩したかったんです」
郵便屋さんは黙って私の後をつけてきていたのだ。
「なんで?」
と問う私に彼ははにかんだ笑顔で、
「ずいぶん前のことですけど、雪のちらつく日にかじかんだ手を温めながら配達してたら、おばあちゃんが、はいこれでも飲んでって、あったかいペットボトルのお茶をくれたんです。それからおばあちゃんのことそれとなく見守らせてもらってました。おばあちゃん、このごろ元気なさそうだったから気になってて。あ、そうだ。ちょっと待ってて下さいね。」
そう言い終えると、たったっと駆け出して近くの自動販売機まで行って、キンキンに冷えたお茶のペットボトルを手に引き返してきた。
「おばあちゃん、これあのときのお返しです」
お茶の味はよくわからなかったけれど、冷たい液体がカラカラに乾いた喉を心地よく潤し、心の奥底にまで染み渡っていった。
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