第10話 ハルキの森に迷い込んで

テニスから帰った母が

玄関に転がり込むように入って来て

そのまま意識を失ってしまった


私はちょうどバイトに出かけるところで母に

「お帰り」と声をかけようとしたのに

突然の出来事に声を失っていた


救急車を呼んでバイト先のケーキ屋さんにことの次第を話した

そこから私の記憶が途切れている


母は意識のないまま病室に寝かされていた

白い壁とカーテンに囲まれた1点の汚れもない清潔な部屋で私は まるで私自身がそこに横たわっているかのような 茫然自失とした状態で パイプ椅子に座っていた


早くに父を亡くし 幸い父の遺した十分な資産で 生活には不自由はしなかったけれど 母ひとり子ひとりの暮らしがこんなにも脆く崩れることは 全くの想定外だった


三十路を迎えても このぬるま湯的な生活から抜け出すことなど なるべく考えないようにしていた

ケーキ屋さんのバイトが ほどよい刺激程度で母と家事を分担しあって暮らす日々は 平穏以外のなにものでもなく それが半永久的に続くとさえ思えていたのだ


病院から家までの帰り道に 少しだけ回り道をすると こじゃれた図書館があるのを発見したのは 母が入院して3日めのことだった


事業に成功した地元の名士が 趣味で収集した蔵書を保存するために 所有する森の中に建てた図書館らしかった


「初めてのご利用なんですね ではここにお名前をご記入ください」

受付には母くらいの年齢の感じのよい女性が座っていて 区立図書館のようなカードではなく 名刺のような厚い紙のカードを手渡してくれた 

これさえあれば何冊でも本を借りることができると言う


私は書架で何気なくそれまで読んだことのなかった「ノルウェーの森」と言う2冊の本を手にした 1冊ずつのそれぞれが赤と緑と言う変わった装丁を目にして 妙に心がざわざわしたのだ


昏睡状態の母の傍らで 私はただ本を読むことしかできなかった

「ノルウェーの森」を皮切りに 私は次々とハルキの著書を読破していった


そしてあの不思議な図書館の書架にあったハルキの著書の最後の一冊を読み終えた日 母が亡くなった


母の骨とともに家に帰った私は それまで体の中に溜め込んでいた悲しみをすべて出しきるように 声をあげておんおん泣いた


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