第9話 貞淑な人妻の口紅の色の理由
カリフォルニアの乾いた風の中、
拓人のバットから放たれたボールが
見知らぬ男の方に飛んで行った。
男は犬を連れていた。
「あなたの息子さんは、
20年後にメジャーリーグで
打席に立っているかもね」
男は親しげな口調で言って、
そのボールを拓人の母親である
加奈子に投げ返した。
男の名前はギャリーと言った。
このコミュニティーの公園は
入り口の鍵を所有する
近隣の住民しか入れない。
ギャリーは、バーイと手を振ると
深紅のブーゲンビリアの花で埋まる
フェンスの向こうに消えて行った。
五歳の拓人はコミュニティーの
少年チームに入ったものの、
そのお遊びのような野球の練習にさえ
ついて行くのが精一杯だった。
母親の加奈子が投げるへなちょこボールさえも、まともに打ち返すことができないでいたのだ。
薄紫色にたそがれた公園で、成果のない練習をする加奈子たちを見かねたのか、ギャリーは次の日もブーゲンビリアの花影から姿を現わした。
彼は犬を連れていなかった。
加奈子の手からグローブを取ると
拓人に向かって至近距離からボールを投げて、打つフォームを身振り手振りで根気強く指導するのだった。
ギャリーには子どもがいなくて
その代わりに犬を飼っているのだ、
と加奈子に説明した。
だからもし男の子がいたら、こんな風にキャッチボールをしたり、バットにボールをいかにうまくあてて行くかを毎日でも練習しただろうと言うのだ。
加奈子の夫は典型的な駐在員で
日本にいたときと同じライフスタイル
をアメリカでも貫き通していた。
すなわち朝早くから出勤し、夜遅くに帰宅する日本にいたときのままの生活パターンを続けていたのだ。
毎日のように現れて野球を教えてくれる謎の男のことを拓人の口から聞いた夫は、あからさまに眉をひそめた。
そして、父親としてなすべきことをしていない自分を恥じる気持ちとともに、得体の知れない男への警戒感を口にした。それは至極当然なことだと加奈子も思った。
「今日で最後になります。
私たちは明日から長期の旅行に出るので」
それは半分真実で半分出任せだった。
一家三人はラスベガスに向けて
たかが三日間の旅行に出るだけだった。
加奈子は自分で焼いた何の変哲もない
クッキーをラッピングして、
「これは私たち親子の感謝の気持ちです」
と言ってギャリーに手渡した。
そのようにして加奈子はギャリーと
バーイと言って別れた。
まもなく、加奈子たちが一年ごとの契約で借りていた一軒家をオーナーが手放すことになり、一家は隣町に引っ越すことになった。
それから三年の月日が流れ、加奈子たちは日本に帰国することになった。
空港の免税店でブーゲンビリアの
花の色のリップスティックを手に取ると、加奈子は遠い目をしてそれを買い求めた。
日本に帰国した加奈子は、唇にブーゲンビリアの花を咲かせて、歳を重ねていった。
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