月と目があう
きつね月
第1話 たとえば、紫の月
だいたい六十センチぐらいの草丈。ちょっと尖った感じの葉っぱ。白くて小さな花をちらちらと咲かせるその様子は可憐だが、この植物の特徴はその根っこにある。
昔々、武蔵野の地にはこの紫草がたくさん自生していて、武蔵野を象徴する植物であったらしい。「紫草をたった一本見かけただけで、武蔵野の植物はすべて愛しく思えるよ」なんて和歌が読まれたこともあったとか※。今では絶滅寸前で、自然に咲いているのを見るのはまず不可能である。失われた武蔵野の自然の一つになってしまった。
そんな紫草がたくさん咲いている場所がある。
そこは例えば、国分寺街道を北へ。玉川上水と平行している旧五日市街道と交差する辺りで見上げた月であったり。
そこは例えば、JR武蔵境駅から東小金井駅方面まで歩いている最中。高架の上に浮かぶ月であったり。
そこは例えば、多摩川の、是政橋を通りすぎた辺り。古びたトンネルの中を出たり入ったりする武蔵野南線を見守る月であったり……
何を言っているんだ、とお思いか?
でも仕方ない。この目にはそう見えてしまっているのだから仕方ない。
武蔵野は「すぐれた文学やイマジネーションの舞台」であるという。
それはすなわち、豊かな想像、たゆまぬ妄想の土地である、といえよう。
たくさんの人がこの地で一人。イメージを産み出してはそれを社会に送り出してきた。形ないものに形を与えてきた。そんな人たちが集い、やがて文学やイマジネーションの舞台として知られるようになった。ここはそういう土地なのである。
坂が少ない平坦な武蔵野台地を、時間を忘れて歩き続けてみる。
頭を空っぽにして歩き続けていると、人の脳は自然と思考を始める。なにかを想像し始める。それは時に作品となり社会に影響を与えたり、それは時に妄想として頭の中に溶けて消えたり。その行く末は様々だが、そのどれもが時間を忘れて熱中できるエネルギーである。
そんなエネルギーに浸りながらふと、空を見上げると、ぽっかり浮かんだ月になんだか命が宿っているように見える。
それが、武蔵野の月なのである。
武蔵野の月には人の夢が宿っている。
失われた紫草のことを想う誰かがいれば、それはそこにあるし。
側にいてほしい誰かの物語が浮かんでくれば、それはそこにあるのである。
※「紫の ひともとゆゑに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る」
古今和歌集 867番
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