猫の手
Jack Torrance
猫の手
ジェロム ジェームスンの祖母マージーは変わっていた。
変わっていたと言う表現は寛容的な言い回しかもしれない。
寧ろ、頭がいっちゃっていた。
こちらの表現がマージーを露見するのには適切な言い回しかと思われる。
彼女は魔女だとか黒魔術、ブードゥーの呪術などに誓いを立てていた。
そんなマージーの日頃の行いが祟ってかは神のみぞ知るだが家は西側に土台から傾いでいた。
彼女の家には皮を剥いだ猫。
黒蜥。
毒蛇。
様々なハーブや薬品。
如何わしい粉末。
針を刺した人形に藁人形。
様々な色のロウソク。
そこかしこに無造作に放置されている常人ならば所有しないであろう異常な物品。
それらの品々を訳の解らない呪文を呟きながら調合していた。
1902年。
彼女はW.W.ジェイコブズの著書『猿の手』を目にしていた。
『猿の手』は右手にそのミイラ化した猿の手を翳し願い事を唱えると三つまでその願い事を叶えてくれるといった代物である。
マージーは、これだ!と思った。
溺愛していた飼い猫のリンジーが死んだ際に彼女の前脚でこれを創ろうと心に決めた。
2年後に黒猫のリンジーが老衰で死んだ。
マージーはリンジーの右前脚を切断し思いつくありとあらゆる黒魔術とブードゥーの呪術を駆使して猿の手さながらの猫の手のミイラを創り出した。
この逸話をマージーは45歳の時に産み落とした娘のマーガレットに白髪の交じった髪を振り乱しながら、さんざん言って聞かせていた。
マーガレットはマージーが悪魔崇拝者の行き擦りの男と一晩を共にした時に授かった子供で父親の詳しい素性は知れない。
父親は田舎を旅して効き目の疑わしい薬や膏薬などを売り歩く行商人だった。
楓で誂えられた玄関の扉は家が傾いでいるので開けるのに力を要した。
扉を開けると男が物珍し気な視線を送っていた。
マージーの家の品々を見て男は惹かれるものを感じたようであった。
そして背徳に染まっていた二人は肉欲に身を任せ内なる快楽と狂気を欲していた。
翌朝には飲みかけのウイスキーと煙草の吸殻。
そして、汗と体液の入り交じった臭気を残して男は姿を消していた。
鳶が鷹を生むと言った形容もマーガレットには当て嵌まらないであろう。
何せ両親は凡人では無く奇抜な部類に属している人種なのだから。
「よくお聞き。この猫の手を右手に翳して願い事を唱えると三つまで叶えてくれる。その際には万物の創造を凌駕する出来事が身に起こるかも知れないよ。もし使うべき日が訪れたならばよく考えてお使いなさい」
だが、マーガレットは利発な子だったのでマージーの言う事など露ほども信じていなかった。
そしてマーガレットが12歳の時にマージーは発狂を加速させ精神病院に収容された。
マーガレットは孤児院に引き取られる事となる。
最期にマーガレットが目撃したマージーは精神病院の職員を嘲笑し汚い言葉で罵声を浴びせていた。
マーガレットは一度も面会する事なくマージーは他界し墓石が何処にあるのかも知らなかった。
そのマーガレットの息子がジェロムになる。
ジェロムは事ある事にマーガレットからよく言い聞かせられていた。
「あなたのお婆さんは変なひとだったのよ。猫の手なんて言う変なミイラ化した猫の手を創ってそれを右手に翳して願い事を唱えると三つまで叶えてくれるなんて言っていたのよ。おかしな話よね」
なので、このミイラ化した猫の手の話もジェロムは聞かされていた。
ジェロムが46の時にマーガレットが癌で死んだ。
ジェロムの父親はジェロムが9歳の時に蒸発して一切音信不通であった。
マーガレットは金欲、物欲といった類には関心が無く質素に暮らしていた。
自身の育った環境を心に刻み同じ境遇の子供や困っている人の為に孤児院や慈善団体などに寄付などをしていた。
なので遺産もほとんど残っていなかった。
ジェロムはマーガレットを弔い母を回想する。
母さんは人に尽くして人に愛された人格者だった。
母さんらしいな…
ジェロムは墓石の前で込み上げてくる涙を気丈に堪えた。
ジェロムはその時妻と11歳と8歳になる子供を抱え冴えない飲食店を経営していた。
母の遺品整理をしていた時に風呂敷に包まれた木箱が箪笥の引き出しの奥から出て来た。
これは何だ?と思いながら風呂敷を解き木箱を開けてみるとミイラ化した猫の手が入っていた。
これが母さんが言っていたマージー婆さんの猫の手かと思ったが、その時は然程気にも留めず自宅に持ち帰り書斎のテーブルの引き出しに仕舞っておいた。
母の死後もジェロムの店の売上は下降の一途を辿り存続か廃業かという悩ましい選択を突き付けられていた。
ジェロムは必死になって新メニューの開発に取り組んだ。
三日三晩ろくすっぽ寝ずに厨房に立ち続けて到頭究極のレシピを考案した。
作り終えて試食した。
う、美味い!
我ながら自画自賛のメキシカンライスとタコスを考案したとジェロムは感無量に浸った。
これは売れると思った。
ジェロムは確かな手応えは感じていたが先行きが不透明な前途に頭を悩ませ家路に就いた。
ジェロムは風呂から上がりコロナを片手に思案していた。
ふと頭の片隅にひっそりと潜んでいた猫の手が脳裏に過った。
この経営状況が続けばどうせ進むも地獄、引くも地獄。
えい、クソッ、これも一興だ。
面白半分、藁にも縋りたい気持ち半分。
引き出しの奥に仕舞っていた猫の手を取り出し右手に翳してこう唱えた。
「我が店を繁盛させたまえ」
すると猫の手が手招きをするようにグニャっと折れ曲がった。
ジェロムははっと驚愕し猫の手を床に落とした。
い、今、手招きするように折れ曲がったよな。
目の錯覚か?
いや、この三日間ほとんど寝ずに厨房に立ってたからな。
それに少し酔いが回ったんだろう。
しかし、そう己に言い聞かせてもあのグニャっと折れ曲がった光景が瞼に焼き付き離れなかった。
ジェロムは身震いしその始終を妻のアイラに伝えたが妻は真に受けなかった。
瞼に焼き付いた光景が閃光のように何度も何度もフラッシュバックして疲れているにも関わらずその日の夜は一睡も出来なかった。
すると、どうであろうか。
その願いが叶った。
翌日から二人、三人と客足が徐々に増え始めメキシカンライスとタコスが口コミで評判を呼び猫の手も借りたいほど店が繁盛仕出したのである。
ジェロムは思った。
日本の置物に商売繁盛を司る招き猫と言う物があるらしいな。
正しく、その招き猫の置物の手みたいにグニャっと折れ曲がって客を招き入れてくれやがった。
猫の手も捨てたもんじゃないな。
ジェロムの店は繁盛に繁盛を重ね2店舗、3店舗と勢力を拡大して行き最終的にはニューメキシコ、オクラホマ、テキサスと三つの州に渡って23店舗を構えるまでになった。
店の経営や経理などを人任せに出来なかったジェロムは多忙を極め贅沢な願いを猫の手を右手に翳して唱えた。
「我に自由な時間を与えたまえ」
ジェロムにとっては軽い口弾みで口走っただけの唯の戯言だった。
しかし、ジェロムは逆境に立たされる事になる。
翌日から仕入れた食材が腸管出血性大腸菌に感染しており全店舗で集団食中毒が発生したのである。
ジェロムはコスト削減を目指して自前の食肉加工工場から全店舗に食肉を搬送していた。
店舗は保健所の立ち入り検査に入られ営業停止。
徹底した消毒と入念な保健所のチェックを受け営業停止期間を終えて営業を再開した。
だが、一度失った信用は取り戻せなかった。
メディアで取り上げられる食肉加工工場での杜撰な管理体制。
全米各地から寄せられるSNSでの誹謗中傷。
全店舗に貼られたくたばれだの潰れろだのと言った容赦無い貼紙。
風評被害で暇を通り越して客足も一斉に遠のいた。
ジェロムは多大な損害賠償と負債を背負う事になった。
ある意味でジェロムは大手飲食チェーン店のオーナーという職務と肩書からは解放されて暇になった。
訴訟も債務整理も弁護士と公認会計士に任せた。
ジェロムは富と名声を手にし己に慢心していたのかも知れないと自身を諌めた。
二度目の願い事を唱えた時には妻も眼前にいたのであの光景を目撃していた。
その時の妻もジェロムが初めて見た時のように驚愕し口をポカンと開けていた。
集団食中毒から一年。
店舗は次々と閉店して行き残り1店舗となり当初の冴えない飲食店に戻っていた。
集団食中毒での死者は最終的には12人にまで達し被害者達は州を跨いで集団訴訟を展開して行き店の運命ももはや風前の灯火となっていた。
不動産や株式などを売却して損害賠償に充てたがそれでも足りなかった。
債権者はハイエナが食い残した腐肉を最後の一遍まで啄む猛禽の如く全てを奪い去って行った。
ジェロムはもはや白骨化した人骨が衣服を纏っている状態と化していた。
自己破産も考えたが被害者への罪の意識からそれを行使せずに踏み止まっていた。
晴れない気持ちが続く日々。
家の梁にロープを渡し首を吊ろうとしてみたが窒息する際の苦しみを想像し決行しきれなかった。
その日の晩にジェロムは寝室のベッドの上で思い詰めた表情で猫の手を手にしていた。
妻はそれを目にした瞬間奇声を上げた。
「そんな物。早く捨ててちょうだい。それが切っ掛けで私達の人生がこんな末路を辿っているのをまだ解ってないの」
ジェロムは妻の声が耳に入らず傍観者のようにじっと猫の手を見つめていた。
「あなた、早く捨ててちょうだい。もう、そんなの見たくないわ。早く処分してちょうだい」
妻のアイラは眼に涙を浮かべて懇願した。
そんな妻の声も虚しくジェロムは惚(ほう)けのように口を半開きにし口角には唾液の気泡が垂れていた。
まるで、何かに取り憑かれたかのように。
ジェロムは満身創痍で自暴自棄に陥っていたので妻の願いを聞き入れようとはしなかった。
ジェロムは猫の手を右手に翳して最後の願い事を唱えた。
「今の状況から一日も速く脱して吾を楽にしたまえ」
猫の手がグニャっと折れ曲がり妻は悲鳴を上げた。
妻はガクガクと身震いした。
次は何が起こるの?
アイラはベッドに入るが中々寝付けなかった。
ジェロムは何事もなかったように身じろぎ一つせずにベッドの一部かとでも見紛う姿勢でマットに深く沈み込んでいた。
暫くしてジェロムの寝息が聞こえ出し何時しかアイラも微睡に落ちて行った。
翌朝。
目を覚ましたアイラが目にしたのは身じろぎ一つせずに血色の悪い顔色で横たわっている夫の姿だった。
顔面蒼白を通り越して葬儀の時に目にする棺の中で横たわっている屍の顔色だった。
し、死んでる。
アイラは我に返り夫が死んでいると思い込みジェロムの身体を揺さぶった。
アイラはヒステリックに叫んだ。
「あなた、起きてちょうだい。死なないで。ねえ、あなたったら…」
アイラの涙がジェロムの頬に落ちた。
我、意に介さずといった按配でジェロムは何事だと言わんばかりに大きな欠伸をしながら起きてきた。
「あ、あなた」
涙して首元に腕を絡ませてくる妻にジェロムは呆気に取られた。
アイラは安心し朝食の準備に取り掛かる。
妻が淹れてくれたブラックコーヒーを啜りながらテーブルの上で新聞を読んでいたジェロムはある記事に目が止まり注意深く読んだ。
自分に訴訟を起こしていた集団食中毒で亡くなった遺族が乗っていた車が事故に遭い遺族全員が死亡したのである。
ジェロムは、このいたたまれない事故を気の毒に思ったがその家族からの訴訟は取り下げられた。
その事故を皮切りに集団食中毒で亡くなった12人の遺族が次から次に悲運な結末を迎えるのである。
飛行機の墜落死。
風呂場での溺死。
家が全焼して焼死。
ビルからの謎の転落死。スキューバダイビング中の事故死。
壁の塗装工事中のアパートの足場が崩壊して下敷きになって圧死。
次から次に起こる遺族達の不可解な死。
到頭、集団食中毒で亡くなった遺族が一人残らずいなくなり全ての訴訟が取り下げられたのである。
FBIは交友関係を調べた結果にジェロムを重要参考人として調べるが真相は闇の中。
ジェロムは容疑者としてマークされるようになった。
暗黒街とのつながり。
マフィアに頼んでヒットマンに遺族達を処刑させたのではないだろうかとFBIは疑ったが裏は取れなかった。
騒ぎ立てるメディア。
書き立てる新聞や雑誌。
「ジェームスンさん、あなたの飲食店で集団食中毒で亡くなられた遺族の方々があなたに損害賠償請求の裁判を起こされていましたね。その遺族の方々が謎めいた不慮の死を遂げられているのですがその件について一言コメントいただけますか?」
「亡くなられた方々には唯お悔やみ申し上げるだけであります。私にも何が起こったのか未だに理解出来てないんです。今の私が申し上げられる事はそれだけです」
ゴシップ雑誌やテレビ番組などでも大々的に取り上げられるようになってジェロムはインタヴュやテレビ出演などを重ね知名度が全国区になって行く。
ジェロムをテレビのモニターや雑誌のフォトで見ない日は無かった。
それに際してギャラが発生しジェロムの懐事情は潤ってきた。
そして飲食チェーン店時代の交友関係を伝ってカタログショッピングの会社を創設した。
これが当たった。
あの不可解な事件とその知名度を利用してジェロムはテレビ業界にも進出した。
テレビショッピングの会社まで立ち上げ司会も自分が務め名物番組となった。
またしても猫の手を借りたいほどの勢いで会社は成長し飲食チェーン店時代の収入を大きく上回り全米の長者番付にもランキングされるようになった。
ジェロムは回顧する。
マージー婆さんの猫の手も捨てたもんじゃないな。
毎週、月曜から金曜までの昼下がり。
「こんにちは、奥様方。今日も始まりました。『キャット ハンド キャッチ ハンド』猫の手も借りたくなるほどのお忙しい奥様方をサポートする便利グッズをこれでもかというくらいご紹介しちゃいます。これ、いいなと思われたグッズがありましたら、その手でしっかりキャッチしてください。これからの2時間、奥様方のサポートを務めさせていただくのは私ジェロム ジェームスンです」
スーツの胸元には猫の手をモチーフにしたピンマイクが付けられている…
猫の手 Jack Torrance @John-D
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