第九層
どん、どん、と、同じ間隔で響く音が聞こえ始めた頃だった。
「理想郷最奥、9層『動力』です。少々足元が湿っているのでお気をつけ下さい」
どん、どん。
螺旋階段が終わり、平面に足を付けた瞬間──ビチャっ、
「何っ、これ」
と何が少々か。足を上げると靴底から、粘り気のある液体が垂れる。しかし『私』は眉間に皺を寄せた理由は他にもあった。
むせ返る何か、嗅ぎ覚えのある匂いが充満していたからだ。
「害のあるものではないのでご安心を」
あるかないかは問題ではないけど……まあいい。声の反響からしてそれなりに広い空間だと思うのだが、明かりもないので真っ暗じゃないか。
「それでは早速、ご覧頂きましょう」
どん、どん。暗闇の中で音が聞こえる。
アリスが軽く指を鳴らすと──音の正体が照らされた。同時に空間の内装も、匂いも、液体が何かさえも『私』は知った。
どん、どん。
「これ、は……」
ドクン、ドクン。
脈打つのは肉の塊。音の正体は鼓動、匂いと液体は血液。
「彼がこの理想郷作り出した創造主であり、わたくし達案内人の主であり──あなたをご招待した張本人の『動力』」
伸縮を繰り返す筋肉からは常に血が垂れ流れている。上部の管には錆びた鉄が幾重にも絡まり、ぶら下がっていた。場違いだ。だってその──心臓があるのは、無数の配管が備え付けられた、工場だったのだから。
「じゃあここは……体内、なの?」
「いえいえ。あれが『彼』なのです」
ここへ来て、一番意味が分からない光景だ。他の層も信じられないけれど、これはあまりにも──
「お客様より頂いた対価を糧に鼓動し、今この瞬間も理想郷を存続させています」
聞き逃せない言葉を耳にした『私』は、アリスに問い掛ける。
「対価? アリス、何を言ってるの? だって、代償なんてないって……」
「わたくしは『ただ楽しんで頂ければそれで充分でありそれが対価で代償』と言いました。契約内容は全て、門をくぐるより事前に提示し、あなたはそれに納得しましたよね?」
対価、代償──なんだ、『私』は、何を差し出した。この鼓動は、何を糧にしてるんだ。ドクン、ドクン、脈打つ音が自分のものか、あの心臓か分からない。
「分かりませんか? わたくしは『時間は待ってくれない』と言いましたよ。『必ず一生に一度の思い出となる』とも言いました。契約しましたよね。お客様の時間と思い出ですよ、楽しい嬉しい、気持ちが良いと感じたそれそのものを対価として、代償として頂いているのです。それはお金よりずーっと価値あるものですから」
アリスの言葉に『私』は、ぽつりと返す。
「現実の私は、今、何をしてるの」
どうしてそんなことを言ったのか分からないけど、アリスの笑みを見るに、恐らく正しいものだったようだ。
「そうですねぇ。現実のあなたはあの信号を渡り、家に帰り、夕食を食べて、今頃は……ああ、自室にいらっしゃいますね」
「そんな、だって私はずっとここに居るよ。それは誰なの?」
「どちらもあなたです」
間髪ない返答。アリスは無邪気な顔をしたままだ。
「……説明して」
「時間の流れは同じですから、お客様が理想にいる間も、現実は進行しています。当然でしょう? まさかこちらにいる間、向こうでは時間が止まっているなんて、都合の良いことはありませんよね? ですが、ご安心ください。現実に帰ったら、その分の記憶はちゃーんと補完されますから」
「10年ここにいたら、現実でも同じように10年経過する、ということね。しかも戻れば記憶はあると?」
「はい! 仮に現実で死んでしまった場合でも、理想には何も影響がありません。ずっとずーっと、この世界を堪能していただけます。実際ここには既に死んでしまったお客様、つまり帰る場所が存在しないお客様も多いのです」
つまり、気が付いたらもう死んでいたと、そういうことか。
「この嘘つき。あなたは詐欺師よ」
「はて? そんなことを言われる筋合いはないと思いますが……だってお客様は皆様ご納得して頂いた上でこの世界にいらっしゃるのですよ?」
まだそんな、なんの罪もない顔をするのか。
「悪気がないとは言わせないわよ。だってこんな、最奥まで来てようやくベラベラ語るのだから、それは悪者の手口。それにあなたは『時間』について何の説明もしていない。きっと他の人にも同じように連れて来たはず。そんなもの、騙しているのと一緒よ」
アリスは口を挟まず、ただ笑っているだけだった。
「それで気が付いた人には『一生に一度』と言っているのでしょう。つまり──帰れば二度とこの世界には来れない。そう脅した」
「脅した、とは怖いことを言いますね。わたくしはただ、オススメしただけです。あなたは映画館に行って『金を払うのは良いが2時間も拘束されるとは聞いていない』と怒るタイプですか? 楽しんだ分、時間を失うのは当然でしょう。それに記憶はちゃんとお返ししますし、どうして怒っているのでしょう?」
もういい。既に答えは出た。これ以上こんな茶番、ごっこ遊びに付き合ってられない。出来ればこの事実を他の人にも伝えたいけれど、多分意味がないことなんだろう。みんな納得して受け入れてしまってるから。
「アリス。今すぐに、私を現実へ──」
「現実のあなたは泣いていますよ」
だが、阻まれる。このカラフルな少女の言葉は一々『私』の口を塞ぐのだ。
「今この瞬間も、部屋で一人涙を流して叫んでいる。心当たりがありますよね。帰ればそれが、あなたの現実です」
「……だからなに?」
「辛いことから逃げてなにが悪いのですか? そろそろ現実から目を背けて、理想と向き合いましょうよ。あなたのいた現実とは違ってここはそれが許される、可能な世界なんです。向こうで死んだって、ここに居ればいいじゃないですか」
アリスは『私』の手を握って、それは理想ではなく現実の感触で、何度も何度もこれが、『私』の心に深く影を刺す。
「ここは作り物。あなたもよ、アリス……私にとって現実は確かにあるの」
本当は分かっている。この子に悪気がないなんてこと。ただ、辛い現実よりこっちが良いって、本心からオススメしてるだけなんだ。アリスがこの世界を、住う人々を愛し、傷を癒そうとしていることは、一緒にここまで来て知っているから。
あくまでも本質は善意。この世界もアリスも、人を思って、人を殺している。
それでも『私』は、これを否定しなきゃならない。だからこそ、否定しなくては。
「いざ帰ってみたら周囲の環境が全て変わっているなんて嫌。記憶が戻ったって、それが自分のものだなんて絶対思えない。それはただの思い出になってしまうから、私が、そこに生きていない」
「そう、ですか」
「……ごめんね」
感触が、温もりが『私』の手を離れていく。
「だから私は──帰るよ」
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