第一層 混沌
眩い光の中を、目を瞑ったままで、『私』はアリスに手を引かれながらで進んでいく。そうして次の一歩を地面に付けようとした瞬間、『私』は盛大に足場を踏み外した。
「うわっ!!」
転ぶ、とそう思ったのだが、
しかし不思議なことに、前傾姿勢を通り越しても地面に衝突することはなかった。それどころか『私』の体は、そのまま空中でくるくる、回転を始めていたのだ。
堪らず瞼を開くと広がっていたのは──満天の星空だ。
上も下も右も左も、深い闇の中にキラキラと輝くものがあちこちにある。まるでプラネタリウムの中を自由に飛び回っているような……いや違う。
「もしかしてここ、宇宙なの?」
上下左右の感覚がない。足場がない。重力がない。まあ呼吸は出来ているので酸素はあるのだが、それでも『私』のこの回転を考えれば、ここがそうであると思うのは自然なことだった。
「ご明察!」
くるくる回る『私』をよそに、アリスは──しっかりと地に足を付けているが如く直立して感嘆の声を上げていた。
「当理想郷は全9階層に分かれており、ここはその1階層目である『混沌』の宇宙空間です。その様子だと既に気に入って頂けたようですね?」
確かに、この景観は悪くない。この世界にもこの子の非常識にももう慣れたし、ツッコミどころを除けば純粋に綺麗と思う。それに何より、今は宇宙空間なんだから落ちる心配もないしね!
「9階層? 混沌?」
アリスは『私』の手を引いて歩き出す。無論『私』は浮かんだままだ。
「混沌、平和、主題、快楽、感情、睡眠、監視、創造、動力。わたくし達の理想郷はこの9つに分かれていましてね、『混沌』というのは階層の名前ですよ。ちなみに睡眠より上の階層は移動も自由で、お好きなものをお選び頂けます」
「ふーん。理想郷のくせに、随分と重々しい名前」
そう『私』が言うと、アリスは苦笑いと一緒に溜息を吐き出した。
「わたくしも、もっとプリティでポップな名前が良かったんですが、何せ変える権利など持っていないもので。では──そろそろ大気圏に突入しますよ? 準備は宜しいですか?」
「は?」
なんだ、なんかまずい言葉が聞こえたような。大気圏?
「ちょ、ちょっ」
「それでは急転直下スターダスト! 発射!」
「いやいやいやいや待っ──」
制止しようと腕を引っ張ったり何なり試みたが、
「アリス行っきまーす!」
健闘むなしく、アリスは笑顔一杯元気一杯に声を上げると『私』の体をぐんと引いた。みるみる内に星々が、夜の高速道路を走る車以上の速度で視界を過ぎていく。
まさか日に二度も、落下することになろうとは。
そうしてある一つ、青い惑星に近付いた時、『私』の目の前は真っ赤に染まっていった。
熱は感じないし、多分何の害も無いのだろう。
だけど恐怖が勝った。『私』はアリスの体にしがみ付いて、門をくぐる時よりもずっと硬く瞼を閉じて、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかったのである。
暫くすると、頬に風を感じた。全身を叩いていた突風は徐々に、『私』の髪の合間をすり抜ける穏やかなものへ変わる。
瞼の上から、強い光を感じてゆっくりと開く。
「いかがでした? これがわたくし自慢のアトラクション、急転直下スターダストです!」
急激に落ちた速度の中、アリスは満面の笑みで聞いた。
如何も何もない。『私』は文句の一つでも言ってやろうかと、そう思ったけど──太陽の光を反射する一面の、青に心を奪われてしまって、それどころではなかった。
「海……海だ」
しかもその上を、飛んでいる。こんな光景、想像は出来るだろう。写真で見る事もあっただろう。でも、実際に経験するのは話が違う。隣を並行する渡鳥の群れ。無限にも思える水平線。鯨の潮と水面で跳ねるイルカ。どれもこれもが今、『私』の目の前なのだ。
「ほら、そろそろ見えてきますよ」
アリスが指差す方へ視線を向けると、僅かに建造物や陸地が覗いている。近づくにつれ、その全貌が明らかになっていった。
「あの大陸には、主に5つの勢力が存在しています! ではまず──」
砂浜が波の終わりを告げる。沖には無数の帆船、発着の為の港には無数の人影が見え始めた。
「正面に位置するのは交易都市アンブローズ!! 自由と中立を主義に、各勢力の架け橋と交易を担っています! そしてご覧の通り領域の殆どが海に面している為、漁業がとても盛んなんで、海鮮料理はもう絶品!」
白を基調とした建物群。海から水路が引かれているのか、街の中でも船が幾つか。人通りが多く、この高度でも活気が聞こえてきそうなほど。ずらっと立ち並ぶ露店は何を売っているのやら、とにかく美味しそうで、
「あの人達も、私みたいに迷い込んだの?」
美しい街だと、我ながら素直に思った。
「迷い込んだのではなく、わたくし達がご案内したのですよ」
アリスは行き交う人々を見て、微笑みを浮かべた。内心を悟ることは出来ないが、どこか満足げで慈しみを含んだものだった。
「そう……あの街は、ベネチアに少し似てるね」
「いえいえ全然違います! だってそこには『魔法』がないでしょう?」
「魔、法?」
「さ、どんどん行きますよー!!」
「うわ、ちょっ」
ぐん、と一度腕を引かれ、視界が突如切り替わる。
「続きましてご紹介するのは、魔法国家『イユンクス』!」
ゴツゴツとした岩肌に、聳える山々。先程と打って変わって、今はどこもかしこも灰色だ。そんな寒々しい景色の中、というか上に、それは有った。
「ここはその名の通り魔法を主体とする国家です! 探求に気を取られ過ぎて少々内気ですが、舐めてかかると痛い目に遭いますよ? 何せ彼らは『そんなものありえない』そのものなのですから!」
山の頂上が、まるでそこだけ切り取られたように平面になっていて、これまた奇妙な形の建物がひしめき合っていた。1階より2階が、2階より3階が巨大な塔。やたらと左に湾曲した城。真っ赤なまん丸屋根の建物からは紫色の煙、緑やら赤やらの怪しげな光源が街のあちこちに。鳥、かと思ったら違った。あれは箒に乗って飛んでるのか。なんて非常識な。
「ごゆっくり鑑賞するのはまた後ほど」
パン、とアリスはステッキを脇に抱えて両手を鳴らす。
またまた景色が変わった。しかし、今度は見上げる側だった。
「血の滲むような研究と歳月、その成果は天にも届く。この大陸のテクノロジー最先端を行くのはコイツらだ!!」
巨大な湖に囲まれ、その巨大さすら上回る、山と見紛う程の漆黒の塔。ひっくり返したプリンと例えるにはあまりに無機質過ぎる鉄。塔のもっとも下から天辺まで等間隔にぐるっと空いた窪みから、黄色い閃光が辺りを照らしていた。
「機械城砦都市『バベル』!! 塔の中にゃあイカれたマッドサイエンティストが跳梁跋扈! 変人だらけの陽キャラ集団! 危険な人体実験? なら俺の体でやりな!! ってな具合だぜ!」
「何その謎テンション」
「すみません。ちょっと個人的に推してる都市でして……」
アリスは「ごっほん」と咳払いをして説明を続けた。
「他にも軍事国家『アルス』や自然共生都市『オープ』、大陸を股にかける犯罪者集団、放浪民族などの多数が交流や資源の奪い合い、法なんか有って無いようなものなので、戦争なんかも楽しんで頂ける、それがこの『混沌』というわけです!」
物騒な言葉が聞こえて思わず眉間を顰めた『私』を見て、アリスは微笑む。
「なーに、死にはしませんからご安心を」
「死なない? どういうこと?」
「この階層を選んだ人にはまず、新しい名前と容姿、希望する所属勢力に応じて魔法や機械知識などの才能が与えられます」
戦いなどには一切興味が無いが、なるほど……つまり『私』でも魔法が使える、ということか。うーむ、それにあの美しい水の街を直に体験出来るし、機械都市とやらも楽しそう。
いやダメダメ、『私』は帰るんだろうが!
「例えるならば誰もが物語の主人公足り得る世界。そうして戦いやら研究やら交流を楽しんで頂いて、惜しくも死亡してしまった場合は残念ながら──初めからやり直して頂きます」
アリスがステッキを振りかざすと、『私』達の高度はどんどん降下していった。バベルの頂上が遥か上になっても、木の高さと並んでも尚も降下を続け、遂には地面に接着してそれでも下がって、沈んでいく。
「名前、容姿、才能、そして記憶を剥奪して文字通りの初めから。勿論、ここにいる皆様は兵士ではなく、あなたのように案内されたお客様ですから、痛みも苦痛もこちらで調整した安全設計! 安心かつ、失う緊迫感もある」
地面の中、お互いの姿だけが見える真っ暗な空間だ。
「ね? この『混沌』はスリリングで最高でしょう?」
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