ようこそワンダーアンダーグラウンドへ!!

「え?」


 突如聞こえた、誰かの声。


 それに殺人鬼の足音も、地鳴りのようなドラゴンの唸りもない。いつまで経っても訪れない終わりに『私』は目を開けた。まるで初めて来た時のような、波のない平穏を取り戻した湖。視界の中には声の主らしきものもない。


「往々にして、湖には殺人鬼がいるそうですよ? ドラゴンはおまけです」


「ひゃっ」


 慣れない悲鳴を上げたのは、声が背後からしたからだ。急いで振り返ると、『私』はその──少女の姿に『ドラゴン』や『殺人鬼』とは違った意味で驚愕する。


 同い年、よりちょっと幼いか?


 いやそんなことより、なんだこの子は。


「いやぁー失礼失礼! 何せ迷い込む方など滅多に居ませんからー、まさかこの場所にお客様がいるとは……ああ、もう彼らは回収致しましたので心配はありませんよ? ちょっとした飛行訓練だったんですが、ほら、あの子はドラゴンでしょう。殺人鬼でしょう。人を見かけたら攻撃するよう作ってあるんです」


 なんというか、カラフルだ。


 カラフルというか、レインボーだ。


「申し遅れました。わたくしは案内人のアリスです。案内人ですよ? 殺人鬼でもドラゴンでもありませんのでご安心下さい!」


 そう言って深々とお辞儀をする──アリスと名乗った少女。絵の具で真っ直ぐ縦に色を付けたみたいに、髪は虹色。右と左で半分に、白と黒で分かれたスーツ。シルクハットに、ステッキ。と、人生で見た中で最も、妙な見た目をした少女。


 警戒して下さいと言わんばかりの、少女だった。


「案内人?」


「はい!」


 朗らかな笑みに、思わず気が緩みそうになる。だが、それはダメだ。元より『私』には危機感が足りていなかったのだ。湖に近付いたせいで殺人鬼と遭遇したし、開けた場所に出たばっかりにドラゴンに焼かれかけた事実がある。


「そんなに怖い顔をしないで下さいよ……と言っても仕方ありませんね。敵意が無い証明は出来ませんが、あなたが最も欲しているであろう状況説明をさせて頂きましょう!」


 アリスは「如何ですか?」と首を傾けた。


 なるほど、確かに説明は喉から手が出る程欲しい。加えて初めてまともに会話が出来そうだ。ここはとりあえず、いつでも逃げられるよう身構えて話を聞こう。


「……分かった。聞かせて」


 暫し考えた後『私』は頷く。するとアリスはまた満面の笑みを浮かべて『はい!』と。これが演技かどうかはまだ判別出来ないが、少女というより子供っぽい印象だ。


「まず第一に、ここはどこ?」


「ここは境界、狭間の世界でございます。何処までも広がる大地、海、自然は動植物の理想郷として設計されました!」


 ああ、頭が痛い。


「質問が悪かったわ。ここは夢じゃないよね。死後の世界なの?」


 聞くとアリスは、腕を組んで『うーん』と短く唸る。


「それは大変難しい質問です。夢に近いと言えなくもありませんが、現実であるとも言える。人によっては死後の世界だとも」


 そうして返って来た答えは、またも要領を得ないものだった。しかし分かった事もある。この場所は『私』には理解不能である、という事だ。加えてきっと理解する必要もない。


「もういい分かった……私は死んでいるのか、元の場所に帰れるか、この二つだけ聞ければ充分。帰り道も教えてくれれば尚良い」


「ええ、もう帰っちゃうんですか!?」


 一々オーバーな子だ。分かり易く驚いて、これまた分かり易くがっくり肩を落としたかと思えば今度は、口先を尖らせて『私』の顔を覗き込んだ。


「もったいない」


「何が?」


「いいですか? この世界はあなたが居た場所とは違って、何もかもに意味があるんです。わたくし達案内人の案内無しにこの森に現れたこと、ドラゴンや殺人鬼と出会したこと、わたくしと出会ったことすら全てに意味がある。必要なことなのです」


 意味なんて知らない。必要もない。迷惑なだけだ。


 呆れたと、溜息を隠そうともしない『私』の顔を、アリスは無表情で覗き込んだ。『私』がアリスの変容に一瞬身を引くと、


「そもそもあなたは望んでこの世界に来た筈」


 ニコリ、アリスは人懐こい微笑みを浮かべる。


「望んだ? 私が? こんな場所知りもしないのに?」


「いえいえ、ここは誰もが知っていて、誰もが望む世界。そうなるように設計された世界です。あなたが招かれた理由も、あなたはちゃんと知っている」


 言うと、アリスは手にしたステッキを地面に軽く突き立てた。


 すると現れたのは──巨大な1枚の扉だ。


 いや、この大きさは門、か?


 素材は分からない、とにかく白い。人間や怪物をモチーフにしたオブジェが至る箇所に施されていて、それが手を取り合ったり戦ったりしている。『私』とアリスの丁度中間に突如出現した。非常識で非現実的な光景にもそろそろ慣れそうなものだが、だけど『私』は目を離せなかった。


「この門をくぐる者、一切の常識を捨てよ」


 アリスが笑って、そう呟いた。


「門? なに、これ?」


「入口です。この先にあるのは、苦悩を抱えた人々が行き着く理想郷。想像、妄想、望み、憧れ。人間が抱えるありとあらゆる欲求を叶えて、傷を癒す世界。喜びは勿論、悲しみも、お望みとあらば苦痛だって自由であります」


 理想郷? なにを言ってるんだ?


「そんなものあるわけ……そもそも私は帰りたいの。これ以上意味不明なものに付き合ってられない」


「ここまで来てそんな頑固を言われたのは初めてですよ。いいじゃないですかちょっと見るだけですって。意味があるのか無いのか、考えるのは後にしませんか? だってほら、理想郷ですよ理想郷!」


「しつこい」


「あなただって元居た世界の全部に満足しているわけじゃないんでしょう? お試しお試し! きっと満足させてみせますから! ね?」


 アリスは『私』の腕をぐいぐい引っ張っていく。これじゃ案内人どころか強引なセールスだ。


 でも……元の世界に満足していない、か。


「お約束、いえ、契約しますから! あなたが『帰りたい』と一言告げればすぐに帰しますから! せっかくリニューアルオープンして名前だって変えたんですからもっと多くの人に知ってもらいたいんですよぉ!」


 それは願ってもない回答だ。


「……分かった」


 とりあえず『私』は帰れるらしい。帰れるという事は、生きている事だろう。それが分かっただけでも随分心が軽くなった。別に信用したわけじゃない。嘘をつかれている可能性もある。だけど、このまま拒んでも状況が何も変わらないのは事実。


 だから、ちょっとだけ。


「帰りたくなったらすぐに帰す。約束ね?」


 ちょっとだけ、付き合っても良いだろう。


「はい! すぐにでも。これは契約です!」


 その理想郷とやらが、本当かどうか。


「ようこそ、ワンダーアンダーグラウンドへ!」


 そうして門が開き、『私』は眩い光に包まれ──


「ちょっと待った」


「むむ、せっかくの旅立ちになんですか? 時は金なり。時間は待ってくれません。もったいないのです!」


危ない危ない。また『私』は不用意に無計画に突っ込んでいくところだった。


「先に聞いておくけど、この門をくぐったら何か代償やら対価やらがあるとかはないよね? 何も危険はないのよね?」


「いえいえ、そんなとんでもない。わたくし達はただ、楽しんで頂ければそれで充分です。強いて言えばそれが対価であり代償ですかね。他には何も要りません。報酬はお客様の笑顔ってやつです! 必ず一生に一度の思い出となる体験をお約束することも、契約に入れましょう!」


 アリスは仰々しい身振り手振りで説明する。そうして最後に、


「ご納得頂けましたかな?」


 と、こくり首を傾げて、締め括った。


 流石にここまで言わせれば後から文句は無いだろう。そう思った『私』はアリスに差し出された手を取る。門から差し込んだ光が徐々に大きくなって、今度こそ『私』は、一歩踏み出した。

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