喋る蚊!!

 ぷぅーん、ぷーん、ぷ。


「……んっ」


 目を覚ますよりも先に、目を閉じたままで『私』は自らの頬を軽く叩いた。そうした理由は反射的だ。だって不快な音が聞こえたんだ。


 蚊が飛び回っている事には、寝てようが起きてようが関係ないのである。


「うわっ、ひどいじゃないかよ!!」


 そして聞こえて来た声に、意識は完全に覚醒する。


「え」


 まず視界に入ったのは、生い茂る草木。重たい身を起こすと、そこは──森だ。うん。そうとしか表現出来ない。木と草と土だけの光景。しかし普段目にしているような山々とも少し違う。


「どこなの、ここ……」


 思わず『私』は言った。


 だってまず、木があまりにも巨大過ぎる。一体どれだけの年月が経てばこれほどに成長するのだろうか。それに根っこが、くるくると曲がって地面のあちこちから顔を出しているし、見たこともない色をした、色とりどりの果実がそこら中に成っている。それになんだか、光ってるのもあるし。とにかく、現実とは思えない、一言で言えば幻想的だ。映画やアニメでしか観たことがないような、ユニコーンやドラゴンが出て来たって、不思議じゃないような、そんな森だった。


 自然が、生きているんだ。


 体の至る所に付いた、色々なものを払い落として立ち上がる。


 所狭しと並ぶ木々。しかし真上を見れば、枝や葉が押しのけられるように、一箇所だけぽっかり穴が空いていた。


「落ちてきたの、私?」


 暴風に晒された感覚は、今でも残っている。いつもと同じように家に帰ろうとして、そしたら空に浮かんで、落ちて、気が付いたらこんな森の中?


 わけがわからない。


「おい無視すんな!」


 疑問は尽きない。それにさっきのは幻聴ではなかったようだ。どうやらすぐ近くに何かいるらしいのだが、いくら見渡しても、声の主はどこにもいない。


 ぷぅーん。ぷぅーん。


「な、なんなのもうっ、誰!? どこにいるの!?」


 堪らず『私』は声を荒げた。突然の状況、得体の知れない森に得体の知れない声が響いている。こんなの、まだ包丁を持った殺人鬼が目の前にいた方が恐怖が少ないかもしれない。


「はぁ? 目の前にいるじゃないか? もしかしてお前さん目が見えないのかい? ここだよここ!!」


 ぷーん。ぷぅーん。ぷん。


 当然、目の前には誰もいない。居るのは精々さっきから『私』の周りを飛び回っている、この忌々しいっ、蚊くらいだ!


「あぶなっ、っておい、だからいきなり潰そうとすんなよ!!」


 潰す? 何をそんな、まるで蚊みたいなことを。


「まったくこれだから人間ってヤツは。いいじゃないかよちょっとくらい血を吸わせてくれたって。このケチ」


 ぷぅーん。血を吸う、か。なるほど。この声の主はあくまで自分を「蚊」だと言い張るらしい。


 これを夢だと思える程、自分は馬鹿ではない。感覚がはっきりし過ぎている。それにドッキリの類でもないだろう。『私』のような一般人に掛けるモノにしてはいくらなんでも規模が壮大過ぎる。現実的に考えられるとすれば、きっと『私』の頭がおかしくなったか、帰宅途中に、テロリストかなんかに催眠ガスを嗅がされて幻覚を見ているか。


 実感は無いけど最も可能性が高いのは──死、だろうか。クラクションも、悲鳴も聞いた覚えはないけど、例えば信号待ちをしていたあの時、車に轢かれたのかもしれない。仮に死後の世界だとすれば、常識的で無いのは当然。


 当然、だけど。


「……うん。そっか。そうだよね」


 もう、会えないのかな。誰とも。


「ごめんなさい、蚊、さん? で良いのかな。ここはどこなの?」  


 考えても仕方ない。とりあえず、今は『私』のあたまがおかしくなった、と仮定して前に進もう。このままこんな場所にいるのは嫌だし。適当に話を合わせて何が起こっているのか、状況と現在地を知らないと。


 そう思わないと、蚊に話しかけるなんて馬鹿らしいこと出来るわけない。


「お前さん狂ってるのか? どうしていきなり潰そうとしてきたヤツの質問に答えなきゃいけないのさ。オイラはもう行くぜ」


「いや、さ、さっきのは違うの!」


「違うもんか。でもオイラは心が広いから教えといてやるよ。さっき『木々の連中が噂してた』んだが、どっかの馬鹿が『ドラゴン』をこの森に放ったらしいぜ。それに、『殺人鬼』が一匹逃げ出したってよ。燃やされるか刺されたくなかったら、さっさと街に戻るんだな」


 だめだ。蚊が話しているだけでも手一杯なのに、彼の話には許容出来ないものがあまりに多い。


「そいじゃオイラはもう行くぜ」


「ま、待って!! 私、なんのことかさっぱり──」


 別れの言葉を最後に、彼は本当に行ってしまったようだ。それにもし、行ってなかったとしてもあんな小さなモノを探し出せるわけがない。


 シーン。


 そうして『私』は一人、こんな奇妙な森と状況に取り残されてしまった。全身を包む静寂、葉や枝が擦れる音で鼓動が早まる。だって彼の言葉を信じるなら、何か途方もない脅威が迫っているらしいから。


「分からない……もう」


 あれだけ耳障りだった羽音も、今は恋しい。

 

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