第45話 龍と薄明の空


 底から湧き上がるあざやかな青い光の中に、僕は飛び込んでいく。なんだか少し涼しくて心地よく、爽やかな香りが鼻をくすぐる。


「マサキ」

 

 迫水先輩?

 その声を聞いた次の瞬間、がくっと体に衝撃が走り、僕は宙の中にいた。

 

「――――!?!?」


 放り出された先も、青。さっきのようなまぶしい鮮やかな青ではなく、深い紺色こんいろのグラデーション。これは空だ。夜明けの直前、ブルーモーメントとも言われる、世界が青に包まれる時間。

 森の木々が眼下に広がるほどの高さで、僕を打ち上げた力と重力が釣り合い、少しだけ宙に浮いたような時間ができた。目の前に広がる空の中、僕と一緒に浮いていたのは透明な水で出来た龍だった。空の青が透ける体に、登りかけた朝日がちらちらとうろこのように反射する。それはあの日見た泉の水面と同じ、宝石にも勝る美しさ。

 その一瞬、水の龍と僕は薄明はくめいの空を泳いだ。


 まばたきする間に落下が始まる。水龍は僕が落ちるより先に、勢いをつけて地面へ降りていった。尾の先が僕をかすめ、冷たい飛沫しぶきが頬にかかる。

 龍が頭から、泉だった穴に飛び込むと、ざぁと水流の音がして、泉に透明な水が張った。


 ――その水面の中心に黒髪の人影をとらえた。

 見間違えるわけない、一番会いたかった人なのだから。


 僕も泉に、その中心の迫水先輩のところへ自由落下していく。再会が嬉しい反面、このままだと叩きつけられるのでは?と不安がよぎる。

 

 彼は上を向いて、僕を見て微笑んだ。

 まかせて、と言っている気がした。

 

 その瞬間、木々がざわめき突風が吹き抜け、泉の水が大きく波だった。その波の上に僕は音もなく着水する。水面に叩きつけられるのではなく、底にもぐり込んでいくでもなく、柔らかな弾力をもった不思議な波が僕を受け止めた。布のような水面に落ち込んだ反動で、もうひと弾みした体を、今度は迫水先輩の両腕が受け止めてくれた。


「大丈夫?」

 

 彼の整った顔が、僕をのぞきこむ。

 奇しくも3年前、僕を水から救い上げた時とまったく同じ構図だ。

 でも今の彼は救われたように泣いてはいなかった。ふっきれたように力強い、救う者としての笑みがそこにあった。


 やっぱり、あなたは泉の神様だったじゃないか――


「どこか痛い?」

「だ、だいじょぶ………」


 本当に体は痛くないのに、うまく伝えられない。薬に加えて急降下と急上昇の影響が大きいのだろう。肝心かんじんなところで、急速に意識が遠くなっていく。


その時、冷たい水が僕の手足を流れる感覚がして、僕を拘束していた重みが溶けるように消えた。先輩の指がそっと、解放された僕の手首に触れている。暖かさが伝わってくる。


「ごめんね、遅くなって」

「う……」


 ぜんぜん気にしなくていいです、と言いたかったのに、もう口がうまく回らない。意識を失う前にせめて、堰根が危険なことをちゃんと伝えなくては。そうだ、あいつは今どこで何をしているんだ。


 視線を泉の方に向けると、迫水さんのちょうど正面に堰根は棒立ちしていた。驚いてこっちを見ている。この形勢逆転の様相にあせっているというよりは、感心しているかのようなほうけた顔をしている。


「あいつは死体をあやつる。きをつけて」

 

 ……と言ったはずだ。でも、ちゃんと言えたのか?

 もうそれもよくわからない。僕の意識は沈み、視界も音もフェードアウトしていく。


 ほとんど暗黒に戻った中、僕はふと気づいてしまった。

 

 ――さすがに非現実的すぎるんじゃない?


 宙に浮く龍、はねる水面、帰ってきた神様の迫水先輩

 

 ――この光景は、さすがに夢じゃない?

 

 現実はそう、きっと僕の脳みそが底に当たってぺしゃっとなる瞬間。


 やだやだそんなの。ほんとに、ほんとやだ。

 なんだよもう。どうせなら気付かないままぺしゃんこになりたかった。走馬灯まで失敗するなんて。そんなのって、


「――――」


 先輩が何かを言って、僕の頭に手が触れた。くすぐったい温もりが僕の前髪を撫でる。気持ちの混乱が落ち着いていく。

 

 もう最後がこれならいいやって思った。

 それなりにがんばった報いには、十分な光景を見れたじゃないか。


 全身の力がぬけていく。いよいよ、思考が途切れていく。


 ねぇ、お願いだから、このあと起きたら貴方だけいないとかは、やめてくださいよ。

 そういうのが一番嫌ですからね。先輩――

 


 

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