第40話 見上げた空には
灰色の空が憎かった。
特に、この教室の窓から見える景色は。
自分から学校に行こうとした覚えはない。何かに取り
ただ、こうして自分の教室の、自分の席に馬鹿みたいに座ってるのは意志なんだろう。学校の中で自分が居てもいい場所なんて、この席しか思いつかなかった。
ここは大嫌いだったのに。
大丈夫?なんて心配したふりをして、迷惑そうにする教師も
ひそひそと人の噂話を広めるクラスの奴らも、みんな
他人事だと思って街の事故に無関心な人たちは
自分だってつい最近までそうだった。
そっち側でいられた。
犠牲者の真実を知ってからの日々は、水に落とされて、中から世界を見ているようだった。彼らの普通の日常は、ゆらぐ水面の向こうに
そして病院で、多くの人を呪ってしまった後は、もう二度と、この汚れた水から
祖母の病室に、いや自分の脳裏にもはっきりとこびりつく、赤い痕跡。
その責任からは逃げない。逃げちゃいけない。裏腹な弱さを押さえつけて、自分に言い聞かせてきた。
だがその度に、胸の内から染み出る、どす黒い気持ちは強くなっていく。
もっともっと、罪深いことが何度も起きた街じゃないか。
あいつらは何の責任も取らず、大金持ちの屋敷で暮らしているじゃないか。
みんな、たまの水難事故なんて見向きもせず、毎日楽しそうじゃないか。
気持ち悪い。全てが大嫌い。
こんな所で金稼ぎする企業の看板が、いたるところにある街そのものが憎かった。
だから重荷だって言って欲しかったのに。
『重くはありますが、荷物だとは思ってません』
橋の上、遠くに光る工場を見つめていた。誇らしいものを見る瞳で、そう答えた彼のことだって、もちろん――――
――――嘘。これは俺の感情じゃない。
憎い。嫌い。
自分の感情のスイッチが、それだけになってしまったのなら、まだいい。身から出た
無いものを流し込むのはやめろ。
オレの中に、知らない憎しみを植え付けるな。
あの子を嫌いになったことなんて、ただの一度も無い。それだけは確かなんだ。
ずっと雨ばかりの毎日に、傘を持ってきて微笑んでくれた、大切な友達。
その中に入る資格はなかったけど、嬉しかったよ。君と会う約束の日だけ、悪夢がいつか終わる気がしたよ。
そのいつかは、こなかったけど
せめて君くらいは――
――しばらく意識が沈んでいた。
ひどく体が熱い。熱で溶けた頭の中を、鉄の棒でかき回されるような
気がついた時には食堂にいた。
三面がガラス張りのこの場所は、まるで混迷の街を見下ろして立つようだった。
今夜はとても暗い。工場と民家には灯がなく、道路に車はない。きっと人々はもう逃げて、どこかで震えている。
一台のパトカーが赤色灯をつけて、がらんと広い道路を走り抜けていった。川から遠ざかる方向へ。
八淵川の水量の変化は、自然という神への
八淵川の川幅、堤防から向こうの堤防までの距離は800〜1000メートルほどある。日本有数の広さを誇り、普段は真ん中に少ししか水は流れていない。
市民誰もが広すぎると思っていたその河川敷が今、なみなみと水で埋まっている。
1000メートルの幅の濁流が、
これが八淵の真の姿。
生贄を捧げてでも、
酷いものだ。
この水が流れ込むのと同時に、街には呪いが撒かれる運命なんて。
あとは氾濫のその瞬間に合わせて、オレが呪いを仕上げるだけだった。
ご丁寧に、食堂には病院の時みたいに儀式の準備がしてある。まるで血管のような、今は空っぽで透明な模様が、壁と床に巡っている。
病院と違ってここには今誰もいない。でも水はこの街の至るところに届くのだから関係ない。
オレはみんな嫌いって思うだけ。
こんな街なくなれって、いつものように。
痛い。痛い。痛い。
せめて、せめて彼だけはなんて、誰が許してくれるというのか。
オレが犠牲にしてきた人たちは、地の底からずっと
「………………ぁ」
思わず、天を見上げた。
今、多くの住民がそうして祈り、降り止まない雨に絶望しているように。
「……なん……だ……?」
――見上げた空には、金色の光の柱があった。
星のようにひときわ輝いているのは、山の中腹、ちょうどあの病院だ。光の柱はそこから伸びている。
雲を突き抜ける一筋の光は、天から
「……マサキ…………?」
その金色からは優しい気配がした。よく知っている、心から守りたいと思った、あの子の気配が。
光は次第に細く途切れて、見えなくなった。
消えないで――、そう叫びそうになった時に気がついた。優しい気配は残っていることに。
「雨……!」
降り注ぐ雨粒に、あの金色が宿っている。
ずっと
災厄に
――それは無数の、流れ星のようだった。
星が、雲に
「…………助け…たい……みんな……」
震える唇で
星の雨もまた、すぐに消えてしまった。眼下に見える街も川も、数秒前と同じ混迷の中にいる。あの光が見えない人々は、ずっと怯え続けている。
だが、この街に満ちていた呪われた空気は消えていた。オレの中に流れ込んていた黒い感情も止まった。
何より、体が自由に動く。手の平を握り、開いて確かめる。
あの光を生み出したのは、きっとマサキだ。どんな奇跡を起こしたのか、想像もつかないが、彼は街の危機を救うために頑張ったのだ。
彼が見せてくれた光に、ただ祈って終わりにするわけにはいかない。
動けるなら、やるべき事はひとつだ。
……
…………
………………
「緊急安全確保でてるけど、いまから避難もヤバいかな」
『たっくんの部屋、4階でしょ?なら生き残れるって』
「はぁ……じゃあボートで迎えにきてくれよ」
油断して寝ていたら、逃げ遅れた自分が悪いのだが、彼女に愚痴の電話くらいしたい。
まさかあんなに広い河川敷が、みるみる消えるほど増水するとは思わなかったのだ。
会社で借りたマンションの4階。ベランダから見える八淵大橋は、橋ゲタがほぼ濁流に飲まれていた。いよいよ氾濫が近いのか、封鎖をしていた警察や消防すら川沿いから姿を消している。
決壊がはじまるとしたら、堤防が天井川になっている、この辺りからだ。下の階は電気が消えているから、もう逃げたのだろう。賢明な判断だ。
「氾濫の瞬間、撮ったらテレビ局に売れるかな?」
『馬鹿。ああいうのはお金とれないよ』
「じゃあバズるだけでも…………えっ」
人が走っている。八淵大橋の上。男の制服。高校生?
『なに?』
「いや、人が………………おいおい!?!?」
急いで橋を突っ切る、んじゃない
飛び降りた。ど真ん中で。助走つけて川に飛び込みやがった。
『逃げ遅れてるの?やだー……。あんまり見ないほうがいいよ。今更助けにいけないんだし。撮るのもやめなよ』
「いや……あれは…………。まぁ、そうだな。見ないようにするわ。見てて結果が変わるわけじゃないし」
ゾッとして心臓がバクバクと高鳴る。
落ち着け、彼女の言う通り通りだ。さっきの高校生が本当にいても、見間違えでも、自分には関係ない。飛び込むしかない事情があったのか、助かるかどうかなんて、全然どうでもいいことなんだ。
部屋に戻り、カーテンをしめる。
恐ろしい光景を、視界から隔離する。
次にこれを開く時、街は変わり果てている。
それだけは避けられない予感があった。
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