第36話 会敵 (前編)
葛西さんのおかげで今後の方針が決まった。時刻は日没直前だ。完全に暗くなる前に行けるところまでは行きたい。
「まぁ、まずは代表のお
「夕子さんには僕から話します。僕がやりたいって言ったんだから」
自分の携帯から夕子さんにかける。僕はさっきまで迫水先輩の家にいた事、そしてこれから堰根を追いたいという気持ちを正直に話した。
「それがあなたの決めたことなのね」
「はい」
「正城、あなたへ1つアドバイスがあるわ。勝負をするなら、勝ちの光景だけを想像しなさい」
凛とした声だった。
「我が夫、
『まずは結果に期待をしろ、それを否定する自分に勝て』
――耳が痛い話ねぇ」
夕子さんは、ふふっと自嘲ぎみに笑った。
「正城、ありがとう。夫の言葉を思い出させてくれて。経営という私の土俵では、ずっとやってきたことなのに、今回は私も弱気になっていたようね」
「夕子さんは、僕にはできるって、信じてくれますか?」
「あなたが未来を
その力強い肯定は、迷いはないが自信は全く無かった僕に勇気を与えてくれた。
「ありがとうございます」
「ええ。だから私はあなたも幹也も帰ってくる明日のために、全力を尽くします。街の避難は任せてね。間に合わせるわ」
「ええ、ではまた!」
「またね。次はいい知らせになるでしょう」
電話は切らずに葛西さんに渡した。
彼はなんて言われているのだろう?でも怒られてはいないはずだ。緊張していた表情が柔らかくなっていく。
通話を終えた彼は呟いた。
「……さすが、男の送り出し方をよく知っているお方だ」
夕子さんは戦前生まれだ。初代はもう少し年上で戦争にも行ったそうだから、送り出すやりとりはあったのかもしれない。
車は上川に向かって走り始めた。
山道に突入前に橋を渡る。下流の八淵大橋は避難水位で通行止めのため、上流の別の橋を使う。
こちらも濁流で河川敷が飲まれていた。
「橋、混んでますね」
「渡った後は空いているでしょう。こんな日に、まともな人間は山に入りません」
「土砂崩れとか大丈夫かな?」
「それも賭けですね。少なくとも最初の目的地までは道路もしっかりしてますが、上川地区はわからない」
「目的地?」
「これから病院に向かいます。ある件の対策で幹也さんがそこに
まさか武器まで用意していたとは。
「結局、僕は助けられてばかりですね」
「正城さんにしかできないことがあります。病院にある宝具は、幹也さんでは敷地内を守る程度にしか調整できなかったんです。
おそらくですが、今のあなたならもっと広範囲に守りが効くよう再起動できるはずです」
車は橋を渡り交差点の渋滞をぬけた。まもなくヘアピンカーブ連続の山道へ入る。
「急ぎます。しっかり掴まっててくださいね」
僕はニーちゃんを片手で抱き、もう片方の手でドアポケットを掴む。
しまったな。ニーちゃんを置いてくるタイミングを逃してしまった……などと後悔していたら、体がぐらりと傾いた。
「!?」
車はすごい勢いでカーブを超えていく。そのたびに右に左にかき混ぜられるのを、肝を冷やしながら必死に耐える。
警察はみんな街の避難で大忙しだ。今は道路交通法なんて猫の餌にもならない。
ニーちゃんが転がらないよう頑張って押えているが、大丈夫だろうか?
「ニー!」
……なんかちょっと楽しそうだね?
連続カーブを抜け、ようやく道は緩やかに登る直線になった。
「う、運転技術すごいですね……。葛西さんって、これまでどんな仕事をしてきたんですか?」
「ありがとうございます。……なかなか、失敗が多すぎて恥ずかしい過去ですよ。都築に拾ってもらわないと、まともな仕事はできないような」
「そんなことなさそうですけど……」
「見た目は普通なのにな、って幹也さんにもよく言われるくらいです」
「あの人はちょっと口が悪いですから」
車はT字路を右折するため減速する。僕は対向車が来ないか左を見た時、違和感に気がついた。
「葛西さん、あっち」
「もう土砂崩れが起きていましたか」
葛西さんも気がついていた。T字路の向こうは壁のような崖になっていて、左側の道路には上から土砂が流れ落ちてきている。
車のライトで照らすと、道路から下の坂、土砂の中に反射するものがあった。
「あれ、車のミラー?」
「巻き込まれてますね……中に人がいるか、たしかめても? 」
「いきましょう。救助くらいは呼ばないと」
「正城さん、後ろに懐中電灯とレインコートが積んであるので取って貰えますか」
急いで探して手渡す。黒いレインコートは僕の分もありそうだったので、袋からとりだして着る。
「正城さんは中にいても」
「そういうわけには。また崩れるかも知れない。周りを警戒しておきます」
車の外に出ると、冷たい雨が体を打ちつけた。僕は傘も持ったが、葛西さんはライトだけを持ってすぐに駆け出した。
何のためらいもなく、泥の上を滑るように走り、斜面の車にあっという間にたどり着く。
「すごい……」
見とれている場合じゃない。葛西さんは声をかけながら、土砂でほぼ埋まった車の中を照らしている。僕もよく見なければ。
「…………!手が!?」
土砂の中、白い腕が生えていることに、ほぼ同時に気がつく。
――不気味だ。なんだこの違和感は。
すでにご遺体かも知れないから、ではない。アレは何かがおかしい。
葛西さんは救助のため近づいて、それに触ろうとしている。
「逃げて!!!」
僕の大声に葛西さんが瞬時に反応し、地面を蹴り後退した瞬間、泥が下に滑りはじめた。
「葛西さん!!!」
その土砂に流されて、葛西さんも夜闇の向こうに見えなくなってしまう。泥が崩れた瞬間に謎の手の根元が見えた。人の体ではなく、木の根のように枝分かれしている赤いブヨブヨがくっついていた。血管の中身が血ではなく、凝結する別の液体に変わり、周りの肉が消えたような。なんだあれは。
葛西さんはあの手に捕まっていなかったから、なんとか受け身を取っていると信じたい。助けに行かなくては。
「おーい、大丈夫か?ボク」
心臓が止まるかと思った。誰だ?
呑気な声に振り向くと後方、僕たちが曲ってきた交差点に、知らない中年男性が立っていた。
――こいつ何だ?
さっきの手モドキはまだ物体として理解の範囲内だ。が、それが完全に人の形をして喋っているのは冗談がきつすぎる。
アレと同じというのは僕の直感だった。人間の直感はニセモノを判断する精度は高い。
「前の車が巻き込まれたかい?」
こっちに歩いてくる。敵意はないのか?やっぱり勘違いで普通のおじさんなのか?
だが、そいつは無遠慮に車に触ろうとした。
判断を保留にする限界だった。僕は手に持っている唯一の獲物……普通の傘を槍にして
「やめろ!」
ただ一点に全体重を乗せた。脇腹を突かれた男は、重心を崩して坂の下へと転がり落ちていく。
ドン!にちゃ
木にぶつかった。体が不自然にパックリと割ける。中身はやはり、ねちゃねちゃとした赤い何かだった。骨も肉もない、白い皮膚に赤い泥の詰まった袋だ。
坂の下の異様なモノを呆然と見つめる。
「なんだ、これは……?」
その時だった。まったく意識がいっていなかった前方、土砂崩れの向こうから声がした。
「まだ人の形をしたものをこうもあっさりと。目覚めて数日にしては思い切りが良すぎないかね?」
白い髪と白いロングコート、色の無い男が傘も差さずに立っている。
「やはり顔だけでなく霊力も生き写しだ、
この男を追いかけて来たが、もう出くわすとは。思い通りに事が運ぶなんて、本当に無いものだと実感する。
僕は堰根と一人きりで
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