壁
ティアが弟子入りしてから一か月が経過した。陽が上り始めた時、すでにキッチンに立っていた。慣れた手つきで包丁や火を用いて料理をし始める。出来上がったものは村では使えなかった卵や野菜をふんだんに使ったスープやトースト。
配膳するとタイミングよくサラ、少し遅れて先生のメルクがやってくる。サラはすでに外に出ていたようだが、メルクは寝間着姿であり視線からもまだ眠いというのが伝わる。そんな三人がテーブルを囲み食事を始めた。
その後食事を終えて片づけをすると、先生であるメルクが
「ティア、リハビリを初めて一週間となりますがそろそろ大丈夫ですか?」
「はい。そろそろ魔法の練習も行えると思えます」
さり気に……ではなく、露骨に魔法の練習をしたいとアピールしていた。なぜなら、弟子入りしてからまだ一度も魔法を習っていないからだ。
現に魔法とは何か、という概念的なことも習っていない。サラたちが戦ったときに見せた超人的な能力や白い弾が魔法だろう、というざっくりとした理解があるだけ。それが彼にとって相当不満だったわけである。
最初の三週間は仕方ないと割り切れた。なんせ、寝ている時間のほうが長かった。メルク先生曰く、「あの時会話できたことが奇跡です」というほどの重傷だったそうで、寝たり起きたりを繰り返してようやく立ち上がれるぐらいにはなった。
そんな病療の末立ち上がれた時は、ついに魔法を習うことができると張り切っていた。結論から言うと、そんなことは全くなかった。家の紹介や家事の役割分担の説明、およびその練習に丸ごと一週間費やした。
何故新参者の自分が家事を……と思ったティアだったが、その理由はすぐにわかった。なぜなら、二人とも劇的に家事が下手だったから。
最初こそは家事とかはメルクがやっていた。しかし、食事がそこらへんで取った果物をそのまま出すわ、まともに食器を洗わないため汚いわ、挙句の果てに臭いにおいのする服を着るなど家事とは何かを理解していなかった。
ちなみにサラはもっとひどいというのがメルク談。普通の料理が黒焦げの炭か生肉そのものだ。そんなもの料理とは言わない。片づけ洗濯などもってのほかで、よくそんなぐうたらで今まで生活できていたとティアに思わせたほどだがそれはともかく。
要は二人とも生活力皆無。二人の家事に不満しかなかったティアが家事を行う、という帰結になってしまった。おかげで生活水準は劇的に向上してこの一週間二人は満足した日々を送っていたが、彼にとってはそんなことは全く重要ではない。
以上の理由のせいで、家事を覚える方が忙しく魔法の勉強をするだけの時間が確保できなかったわけである。結局、この一週間は家事しかできなかったというわけだ。
ちなみにだが、例の剣についても没収された。
暇なときはあれの練習をして、戦闘力でも養おうというティアの目論見は破綻したわけだ。その理由は「今のあなたが使うとまた一か月近く寝込むから」とメルクは語る。
なんでも魔剣と言われるものらしく、自分の魔力を使って発動する剣らしい。だが、まともに魔力を使えない人が使うと、使ってはいけない魔力まで吸い取られて剣が発動するとのこと。
事実、ティアがあれだけ長い間寝込んだのも上の要因が原因だ。そのため、貴方が魔法をきちんと使えるようになるまで、私が預かっておくということだった。結果、訓練するものがなくなり手持ち無沙汰になった。
そういう理由もあり、この一週間苛立ちを順調に溜め続けていたティア。
早く魔法を教えろという催促を受けた彼女の表情はやれやれ、と呆れた表情へ切り替わっていた。その表情が再び苛立ちの貯金になる。
「私に魔法を教わるときの条件を覚えていますか? 私の言うことにきちんと従うように、と言いましたよね。今のあなたがやるべきことはその家事ですよ」
そういわれてうっ、と言葉を詰まらせていた。確かに一か月前にそういう約束をしたため、これについて文句を言う資格はない。
それでも停滞しているのが嫌だった。弱いままでいることに嫌悪感さえ覚えているティアからすると、生殺しだ。手を握りしめながら、必死にいいたいことを我慢しているとメルクが補足説明を加える。
「それに、家事をすることも修行の一環ですよ」
「え……? それはどういう理屈ですか?」
「簡単です。こうやって家事をしていると、体力がつくでしょう? 魔法を使うにはある程度体力が必要です。なので、今はあなたに家事をさせることで体力をつけさせています。
さ、これが終わったら食器洗いに洗濯、掃除、収穫等頑張ってください♪」
「……ふざけないでください! 俺を家政夫として雇うために弟子入りさせたのですか? これぐらいのことは村でもやっていました! もっとちゃんとした修行をしてください!」
メルクの無神経な発言と口調についに苛立ちを爆発させ怒りをぶつける。家事ごとき、自分が村にいた時もやっていた。やっていたが、あの獣に全く歯が立たなかったのだ。それは理屈が通らない。
もっと劇的に強くなる方法……とまではいわないものの、何をすればあの獣へ対抗できるようになるのか、より具体的には魔法について教わりたかった。それなのにこの仕打ちはあんまりだ。もっと、自分の成長を実感したいのだ。
まだ実質一週間しかたっていないのに成長したい、実感したいというのは正直短気と言わざるを得ないが、それだけ焦っているのだ。
そんなティアの様子を見てはぁ、とため息をつきながら先ほどの笑顔を消し、真剣なまなざしをティアへ向ける。
「体が未発達だからこそ無理な修行ではなくじっくりと体力をつけることが重要です。貴方の場合、年齢を重ねれば必ず魔法を使えるようになります。ですが、今のうちから難しいことをすれば最悪の場合一生戦えなくなります。それでもいいですか?」
「……ですが、あのサラさんは先生に修行をつけてもらっているじゃないですか? 俺と同じぐらいの体格にもかかわらず……だったら俺にもできるはずです!」
いきなり自分の名前が出てきたため、黒い瞳を細めてティアを見るサラ。自分を比較対象にするな、と言いたげな瞳だったが、そんな視線どころではなく前のめりになっていた。
確かに彼とサラの体格に大きな違いはない。確かにティアのほうが若干身長は小さいものの、大きな差とはいえない。その理屈にメルクはふむ、とその白い顔に手を当てる。すると、すぐに手と手を合わせて笑顔でティアを見た。
「そこまで言うならティア、あなたに課題を出します。今日からサラの走り込みについていきなさい」
そんな突拍子もない提案は、とどろく声を響き渡せた。
「全く、どうしてこんなことに……」
そうぶつぶつ言いながら、体操を行うサラ。あの後、彼女は先生であるメルクに何度も抗議をした。まず、ティアには自分の走り込みについていけるだけの体力はないと。
すると、
「あなたがティアに合わせなさい。魔法を使用せずに全力で走らなければいい塩梅になるはず」
そんなことを先生から言われて冗談ではないと思った。
彼女からすると、どうして自分の修行のレベルを下げなければいけないのか。この走り込みも修行の一環であり、他人に教えるものではない。
それを先生に伝え、何度も反論したが返される言葉は「これもよい修行です」だとか、「将来役に立つ」だの意味不明な言葉しか来なかった。
サラもメルクに師事している。だからこそ、メルクの指示には逆らえなかった。今まで無駄だった指示はなく、的確に実力を伸ばす教えばかり。だからこそサラからすると、その教えに逆らえなかったわけである。
目の前の少年へ視線を移すと、それに倣って体操をしている。当然ながら、彼に魔法を使っているわけでもなく、魔法が見えているわけでもない。そして、彼が保有していると思われる魔力もほとんど感じられない。
はっきり言って教える価値もないとサラは何度も思った。だからこそ関わり合いにならなかったが、今回お鉢が回ってきたのだから何もしないわけにもいかない。
ランニングコースは、丘の上にある家から森の中。メルクが他の町へ行くときに使う道を使って、坂道を降りたり登ったりするコースだ。直線距離にすると三キロメートル。とても五歳児に走らせるコースではないが、サラは毎日走っていた。
だが、今回はティアがいる。多少走る速度を落とさないと……と計算を立てるサラ。ため息をついた後に、とりあえず後ろを振り向き声をかけることにした。
「じゃあ、走るわよ。私の後ろについてきなさい」
その言葉がスタートとなる。少し遅れてティアがサラの方へ向くと、すでにサラは遠くへ走っていた。その距離は五メートルを超えている。つまり、あの言葉の後ですでに五メートルも走ったということだ。
ひとまずはその距離を詰めようと考えたティアはその足を動かし始める。最初は走り込み、ということもあってマラソンのように持久力を考慮した走り方。だが追いつくどころかむしろ距離が離れ、その姿がどんどん小さくなっている。
まずい。
その思いから、自身のギアを一気に上げハイギアへ切り替える。それはすなわち、今の自分の出せる全速力。この後のことを一切考えず、とりあえず追いつくことを目的としたペース配分に切り替えた。
しかしそこまでやっても引き離されることはないが、追いつける気配がない。つまり彼女はそれと同じくらいの速さで走っているということである。
そんなハイペースで走ったせいか、彼の呼吸がすぐに荒くなり、筋肉におもりがついたように足が動かなくなる。体が左右へぐらつき、まっすぐ走ることができない。こんなにペースが速ければ目の前の彼女も同じのはずだ、と思い下ではなく前を向くと……体の軸が全くぶれていなかった。
その姿に立ち止まってしまった。
彼女にとって、この速度は呼吸が荒くなるほどのものではなくランニングと同じ程度ということ。それを知ってしまったとき自然と足が止まってしまった。
これ以上頑張っても、彼女に追いつけない。そんな声が再び聞こえてきた。ここまで力の差が歴然という事実に心に負荷がかかる。だが、すぐに持ち直す。自分もあれだけ強くなりたい。ならば、あれと同じくらいの速度を出さなくてはいけない。
どうやって?
よりよい走り方? そんなものは勉強していない。
魔法? まだ教えてもらっていない。それに使い方がわからない。
そこまで頭を回したティアは、ふと脆弱さに気づいた。今、自分は何を考えた? 他人に教えてもらっていないから、魔法が使えない?
それは事実だが、それに納得できるのか? 目標に手が届かない理由にしてよいのか?
そんな考えでは村にいた時と変わらない。自分に力がないから、友達が死んでも仕方ないのか。ソロンを一人死地に置くことも仕方ないのか。
違うだろ。
そんな惰弱な自分が嫌だから、頭を下げたくない相手にも下げた。プライドを殺してまで決意した。ならば、他人に教えてもらわなければ強くなれないという思考は捨てろ。自身で貪欲に追い求め、そのうえで他人に頼れ。
であれば、今自分がやることは何か。
ソロンの言葉が自分の中で反芻する。彼の強さというのは、与えられた状況下で必死に努力することを強さと呼んだ。ならば、自分もそれを実践すべきだ。
彼女に追いつけないと嘆くよりも、仕方ないとあきらめるよりも、可能不可能を問わず今の自分にできることを精一杯にやること。
ならばもうやることは決まっているだろう?
そんな決心をしたティアの行動は早かった。止まった足を再び動かし始め、前へ前へと追いすがる。そして、再び大きく深呼吸をし始める。
今空間に漂っている空気すべてを吸い込むつもりで、口を大きく広げた呼吸。
補給される空気の量が多すぎたのか、下を向いて咳ごもる。だが、再び同じように大きく口を開く。今度は走りながら。胸中も横腹も痛むが足が軽くなった気がする。先ほどの動作で疲労が回復したような錯覚に再び陥った。
事実、彼の足は先ほどまでは重りをつけたがごとくのろのろとしていた。しかし、呼吸を繰り返すことでその足は最初と軽やかに動き出す。そして、地面をしっかり蹴って前へと進み始めた。
不思議と彼の顔には笑顔が浮かび上がっていた。本来体力は既になく、無茶な呼吸の体勢をしながら走っている。走るのがつらいはずなのに、彼の表情にそんなそぶりは全くない。
ただ体が軽いことに、限界をこえたことに喜びを覚えていた。
なんだ、やればできるじゃん。
あれだけ弱かった自分も、これだけ動けるじゃないか。村にいた時よりも体の軽いティアはそのように調子に乗っていた。
目の前にサラの後姿が目に入ることで、余計にティアは調子に乗る。この状態のティアとサラを比べるならティアのほうが速かった。
先ほどまでは距離がどんどん広まっていくだけの徒競走だったが、ようやく勝負になった。
それに含み笑いをするティア。
実際のところは別に追いついたからと言ってティアが強くなったとは限らない。これで測れるのはせいぜい足の速さぐらいのもので、それが強さと結びつくわけではない。
そもそも、サラは本気を出していない。ティアに合わせるように走れと指示されたため、少し遅めに走っているだけである。こんな彼女に勝てたからと言って強くなったといえないのだ。
そんな理屈を抜きにして、ティアはどうしてもさらに追いつきたかった。
その理由は二つある。
一つ目は単純にサラへ嫉妬していたから。自分と同年代なのにあれだけ強いサラへ勝ちたい。少なくともこの走り込みで勝てるようになりたいという単純な感情の発露による。
二つ目は打算的なもので、この走り込みに勝てたら先生に魔法の修行をつけてもらえるのではないかという理由。自分よりも速いサラに勝てたら、修行をつけない理由がなくなると思ったからである。
そんな浅薄というには打算的であり、理論的というには穴が多い信念を持ったティアがサラめがけて走っている。そんな鬼気迫った雰囲気をまとうティアが後ろにいるためか、サラが走りながらそちらを振り向いた。
ティアが彼女へ獰猛な笑みを浮かべるが、サラは打って変わって驚いた表情を浮かべる。なるほど、自分が来たことに驚いた、と一人納得するティアだったが全く違う声が聞こえてきた。
「いったん止まりなさい! そのままだと吹っ飛ぶわよ!?」
しかしその声が聞いたタイミングが遅かったのか、それとも判断力が低下していたのか。彼は速度を落とせなかった。その結果、道にまで侵食している大きな木の根が足に引っかかり、とんでもない速度で宙へ浮かび、そして明後日の方向へ地面にダイビングすることとなった。
地面へダイビングした後に顔や全身から痛みが漏れる。
基本的に転ぶ時というのは速度が出ていれば出ているほど勢いが出る。今回のティアは出したことのない速度だったため、擦り傷というには相当大きな傷であった。
幸いにも顔に傷はなかったものの、足を強く痛めたこともあり全く動かなかった。そのため、地面を這いつくばるように大樹の下へ移動し寄りかかろうとする。
そんなティアへ背筋の凍るような鳴き声がした。
その方向を振り向くと子供ぐらいの小さな体格だが、犬と呼ぶには立派な牙を持った獣がティアのほうを見ていた。
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