アユミ
サキとユキの話を聞いた日から、休息日でもウサギと同じベッドで眠るようになった。着衣のまま、微かな柑橘系の香りに包まれることに安らぎを感じていた。そんな夜は、性的な刺激を与えられることもなく、穏やかな夜を過ごした。
私はウサギを愛し始めたのだろうか?寝顔を見ながら考える。残虐性と慈愛を兼ね備えた、この部屋の支配者、そして白夜の国の領主。端正に整った顔……。不思議なことに、どこか懐かしさすら感じた。
私にはかつて心から愛し、愛された恋人がいた。しかしそれは遠い過去になり、見捨てられたショックから、その顔や背景の記憶が消え失せてしまった。思い浮かぶのはウサギの顔しかない。
「アリス、明日から夕食の準備をしろ」
「え?」
刃物の使用は禁止されていたのだが。
「あの、料理をしていいんですか?包丁とか使うな、と言われていたような」
「アリスはもう、自殺はしないだろう?」
「はい」
「アリスと暮らす日も、残り少なくなってきたからな」
弾みかけた気持ちがシュンとなった。
「食材は冷蔵庫の中のものを自由に使え。調味料の棚はここだ。あと……」
ウサギは小さな引き出しを開けた。
「毒物はここにある。即効性のものから、じわじわ効いてくるものまで一通り揃っている。私を殺すときはこれを使え」
目の前が真っ暗になった。冷汗が流れ、その場に立っていられなかった。
「おい、しっかりしろ」
「どうして、どうしてそんなことを言うんですか?」
「冗談だよ……。毒なんかありゃしないよ」
「冗談でも止めてください。お願いだから」
この胸に湧き上がるものはなんだろう。少しずつはっきりしてきているが。
朝、テレビの画面からニュースが流れた。清純そうな顔をした女子アナウンサーが番組最初の挨拶をする。
「おはようございます!二月三十日金曜日です。今日最初のニュースは、オリンピック開幕まで、あと半年を切ったパリの様子です……」
今日は金曜日か。最近は曜日の感覚があまりない。しかし、次の瞬間、
「え?二月三十日って……」
今年はうるう年。だから二月は二十九日までのはず。あわてて壁のカレンダーを確認すると、二月は三十日まで、三月も三十日までになっている。
「どういうこと?」
混乱する頭で必死に考える。壁の青い馬が笑っている。
そうか、そうだったのか。
考えられるのは一つしかない。ここは私が生まれ育った世界とは、別の空間なのだ。どこかはわからない。なぜ、ここにいるかもわからない。
しかし、眼下に広がるあの街は、私にとって全く未知の場所ということだ。あんなところで、どうやって生きていけばいいのだろう?
無理だ。ここから離れれば私は死んでしまう。なんとかしなければ。
「そうか、勉強を始めたいのか。いずれはここを出て、一人で生きていくわけだから、それも必要かもしれんな」
「だから本を買って欲しいんです」
「かまわんが、なにをやりたいんだ?」
「株取引です」
「は?」
「その知識があれば、ここを出た後もウサギさんに会えるかもしれません。直接会うことはなくても、取引で勝負ができるかもしれません」
「面白いことを言うな、アリス」
ウサギは乾いた笑い声を立てた。
「私が憎いのか?相場での勝負で私を倒したいのか?」
「はい。ウサギさんを破産させたいんです」
「なぜ?」
「あなたが、私以外の女の子を買ったりできないように」
「そうか、それがアリスの復讐か。殺害したりせず、合法的に破滅させた上で生き地獄に突き落とす。きわめて優れた発想だ。うまくいけばの話だが」
「大丈夫、どんなに時間がかかっても、私は勝ちます」
「大した自信だな。私はアリスに破滅させられるわけか。すべてを失い、ホームレスになるわけだ」
「そうです」
ウサギは自虐的な笑いを浮かべた。
「それができるなら、そうしてくれ、アリス。私は自分自身を憎悪しても、自らを罰することのできない卑怯な人間だ。アリスに裁かれるのなら、死んでもいい」
「あなたは死にません」
「そうなったら、死なせてくれよ」
「いえ。その時は私が拾ってあげます」
「なに?今度は私がアリスに支配されるのか?」
「はい」
ウサギの顔を見ながら、なぜか涙が流れた。
「私はウサギさんと離れたくないんです。私には何もない。両親も、恋人もいない。ここ以外で、どう生きていけばいいのかわかりません」
「おいおい、頭がおかしくなったのか?アリスにひどい仕打ちをしてきた私だぞ」
「でも、ウサギさんのところに来なければ、借金を返すことも出来なかったと思うし」
「自由になってから、可能性を考えればいいだろう?」
「自由になるのが怖いんです。あなたと居たいんです」
ウサギは一瞬沈黙し、言った。
「アリスも、そうなったか」
そして続けた。
「心的外傷後ストレス障害、あるいはPTSDと呼ばれることもある。生命の危険を感じるような強い衝撃を受けた後に陥る状態だ。その中の一つにストックホルム症候群というものがある」
「ストックホルム症候群?」
「そうだ。スウェーデンの首都・ストックホルムで起こった立て籠もり事件で、被害者が犯人に対して恋愛感情を抱いた。その事件をもとに映画が作られたりしたが、今ではそれは恋愛感情などではなく、極限の恐怖の中で生き残るための、必死の行動だったと考えられている」
「……」
「分かるな、アリス。今、君が抱いている思いもそれだ。生存のための知恵なんだ。決して好意などではない」
「でも……」
「アリスは借金を清算するためにここに来て、生存するために私に服従した。ただそれだけのことだ。目的が終われば君は去り、もう二度と私に会うことはない。もはやアリスではなくなり、新しい君として生きるんだ。そのための準備なら、いくらでもすればよい」
私はウサギにも捨てられるのだろうか?左足の
三月二十二日、この部屋で過ごす最後の夜だ。全裸になった私はウサギにしがみつき、その体を貪った。ウサギの気が変わらないだろうか。契約を延長すると言わないだろうか。祈りを込めて、彼の眼を見る。しかし、彼の唇は動かない。
「あの……」
耐えきれず口を開く。
「どうした、アリス」
「もう少し、ここに居させてもらえませんか?」
「それはできない」
「どうして?」
「三日後、次の女がやって来る。もう決まっているんだ」
望みを絶たれて、涙が溢れ出た。
「面白い女でな。二十三歳の大学院生なんだが、奨学金が膨れ上がって返済できなくなった。それなら大学院など退学して働けばいいのに、絶対に勉強を続ける。なんでだと思う?」
「……」
「司法試験に合格して、弁護士になるんだそうだ。困窮する女を食い物にする、非道な人間をこの世から抹殺するために。なんだかアリスに似ているな。また私を倒すための刺客がやってくる。望むところだ」
「嫌だ、私以外の女が、あなたを破滅させるなんて」
「そう言うなよ。改めて言う。明日の朝十時で契約を終了し、元の世界に送り届ける。君の部屋の家賃は払い続けていた。今日、木村が掃除に行ったから、そのまま住める状態だ。大学の学籍もそのままになっている。何も心配することはない」
違う。私が恐れているのはそんなことじゃない。ウサギの存在が無くなるのが一番怖いのだ。
「明日の朝、私は自由になるのですね」
「そうだ。その時から、君はアリスではなくなる」
「ならばお願いです。自由になった私を抱いてください。契約上のプレイではなく、本当に抱かれたい。一度でいいから。お願いです」
「それはできない。前にも言っただろう?その一線を越えれば、もう元には戻れないんだ」
「それでもいいです」
「一時の気の迷いだ。永遠に白夜の中を彷徨う必要はない」
泣き崩れる私をウサギが抱き締める。
「最後の命令だ。明日、朝食を作れ。木村には来ないよう伝えてある。それを食べてこの部屋を出よう」
朝までウサギの温もりを感じ続けて、私は静かに起き上がった。名残惜しかったけれど、最後の命令だ。背くことは出来ない。シャワーで身を清め、キッチンに立った。ウサギのために食事を作り始めてから、日々が充実していた。仕事から戻ったウサギが、笑いながら食べてくれるのが嬉しかった。ほんの短い間だったけど。
トーストとオムレツはウサギが起きてからにしよう。そう思いながら、コーヒーメーカーをセットした。
ソファに座って一息つく。すると、昨夜ほとんど寝ないで抱き合ったせいか、眠気が襲ってきた。いけない、最後の命令なのに。残り
薄れゆく意識の中で、ウサギの声を聞いたような気がした。
さよなら、アリス……
―—― 美、起きて。
優しく肩を叩かれて、私は目覚めた。コーヒーの香り。そして微かな柑橘系の香り。目を開けると、ウサギが笑っている。ぼんやりと時計を見ると、十時を少し過ぎている。
しまった、なんてことを。
左足に目を遣ると、もう金色の
終わったんだ。最後の朝食が作れなかった悔いで、胸が張り裂けそうになる。
「ごめんなさい。すぐに作りますから」
慌てて立ち上がろうとした私に、彼は言った。
「焦らないで大丈夫。食事は作ったよ、
アユミ?
そう、生まれながらの私の名前は
でも、ウサギはなぜこの名前を?
「おい、どうした。不思議そうな顔をして」
え、あなたは……。
「僕がシャワーから出て来たら、
「
「二千二十三年十二月十日、第二土曜日だよ」
二千二十四年のカレンダーを見る。二月は二十九日までだった。
頭の中を整理する。
そうか、そこから先はすべて夢だったんだ。
改めて、部屋の中を見回す。
「ここは……」
ウサギの部屋と全く同じ間取りではないか。ただ、壁には青い馬のリトグラフは無く、ダイニングテーブルの上には、私が生けた花があった。隣の部屋のドアを開けるとガランとして何もなかった。
そして何より、
ただ一つ納得できたのは、ウサギの柑橘系の香りに安らぎを感じたことだ。あれは
「そういえば、さっきスマホに着信があったよ」
「えっ」
慌てて手に取ると、母からだった。良かった、生きてる。
「お母さん、ごめんね、出られなくて」
「いいのよ。お正月は帰って来られるの?」
元日は
「うん……。成人式の時にしようかな」
「そうね。それがいいわ」
「
「ねえ、お店のほうはどんな感じ?」
「お父さんも年取ってきたからね。でもぼちぼちよ」
「良かった……」
思わず
「なによ、潰れそうだと思ってたの?」
「い、いや、そんなことないけど」
「ま、元気でね。帰って来る時は連絡してね」
「わかった。じゃあね」
「
「うん、大丈夫」
「僕の会社の社長が、ぜひ
「は?」
あまりの意外さに呆気にとられたが、別に拒む理由もない。
食事の後、しばらくすると
「迎えが来た。行こう、
「うん」
コンシェルジュが座るエントランスを抜け、表に出ると黒いワンボックスカーが停まっていた。
「
「立花さん、お休みのところ済みません。社長がどうしても、と言いまして」
「いえ」
「こちらが、自慢の彼女さん?」
「はい、
「ほんとに可愛らしいわね」
「今日の話は、
「そうね。良い話になるよう祈ってます。じゃ、行きましょうか」
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